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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中20

「菩薩十無尽蔵品」

この「菩薩十無尽蔵品」も、前の品に引き続き、功徳林菩薩の説法が続いており、菩薩の十の蔵〔貯えるべきものとでも言うべきであろうか〕について述べられているのである。

功徳林菩薩が説く十蔵をまとめてみると、以下のようになろう。

1)信蔵 ・・・一切の法が空、無相、無願など、無尽の信を身につける
2)戒蔵 ・・・浄戒など様々な戒を持つ
3)慚蔵 ・・・無慚の行いを離れる
4)愧蔵 ・・・貪欲等の心を自ら愧じる
5)聞蔵 ・・・十二縁起等、様々な法を学ぶ
6)施蔵 ・・・貪著せずして、一切に恵み施す
7)慧蔵 ・・・苦集滅道等、真実の法を知る
8)正念蔵・・・三昧や、諸仏の法を念持する
9)持蔵 ・・・様々な修多羅〔経典〕、説法を聞持する
10)弁蔵 ・・・仏法、修多羅を説くこと

※『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.503-521を基にまとめた。

木村清孝先生は、『華厳経入門』の中で、この十蔵について七財と言われるものと比較し、「七財の思想を大乗的に拡大・充実させたものにほかなりません。」(角川ソフィア文庫,2015,p.154)と仰っておられる。

”七財”の語が聞き慣れず、望月信亨先生らによる『望月 仏教大辞典』などで確認したところ、初期仏教において、”七聖財”とも呼ばれていることが分かった。幾つかの辞典を当たってみたところ、記載がされている代表的な経典として、以下の南伝の増支部の経典が挙げられていたので、備忘として、記載したい。

 「比丘衆よ、是等が七力なり、何をか七となす。
  信力、精進力、慚力、愧力、念力、三昧力、慧力なり、と。

  信力と精進力と 慚力と愧力と
  念力と定力と 第七は慧力なり
  是等によって具力比丘 賢者は楽しみ生くるなり」

『南伝大蔵経』,第20巻,増支部経典四,七集,財品,大正新脩大蔵経刊行会,1971,p.233

確かに、おおむね共通しており、木村先生が仰るように、初期の仏教の考えを踏襲し、七つから十へと増広しているのであろう。

さて、私がここで気になったのが、”慚”と”愧”である。“慚愧に堪えない”という表現のように、一括りで、“はずかしい”という気持ちであることは理解していたものの、では、改めてなぜ、慚と愧が分けられているのであろうか。

そこで”慚”と”愧”の違いは何であろうかと、漢和辞書を当たってはみたが、判ったような、判らないような、なんとも曖昧な状態であった。

そんな中、資料を当たっていると、和辻哲郎先生が、仏教倫理に関して述べている部分に、腑に落ちる説明を行っていらっしゃったので、引用したい。

 「羞ずかしさの内には、価値や威厳に対して尊敬の念を持つがゆえに起こ 
 るものがある。というよりも尊敬の念の他面としての羞ずかしさである。
 これは、『かくなすべきでなかった』という後悔の念ではない。むしろ
 『かくなすべきであるにもかかわらずなおなしていない』との意識であ
 る。これが本質的にみて慙と呼ばれる。(上を向いての羞ずかしさ。)そ 
 れに対して、罪の怖れ、すはわち、『かくなすべきではなかった』との意
 味の、(下を向いての)羞ずかしさが愧である。」

和辻哲郎,『和辻哲郎全集 第19巻』,岩波書店,1978,p.210

ここで、和辻先生が仰っている、”なおなしていない”、”かくなすべきではなかった”の部分の説明が、“慚”と”愧”との違いに関して、非常に等を得た説明をされていると思える。

”愧”に関しては、日々の生活に於いて、行ってしまったことや、無意識に表れる感情などについての反省の気持ちであるのに対して、”慚”は、あそこでは、ああ言っておけば良かったや、ああしておけば良かったなど、気持ちには上がって来たものの、実際に行動出来なかったことへのはじる気持ちなのであろう。

『華厳経』は、様々な仏教思想が入り組んで重層的に語られているが、中でも”菩薩”という生き方に関しては一つの重大なテーマとなっている。

”願”に代表されるように、菩薩においては、仏道を基礎とした積極的な思いや、修習、行動が必要なのである。そのためにも、やってしまったことを愧(は)じるだけでなく、やらなかったことを慚(は)じて、さらに仏の道を邁進していかなければならないのである。

そのためにも、”慚”と”愧”はそれぞれに分けなければならないのである。







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