見出し画像

『華厳経』睡魔・雑念 格闘中14

「梵行品」

この品には、偈が無く、かなり短いのだが、「十住品」において示された境地に於いて、どのように行を修習していけば良いのか、唐突に現れる正念天子の問いに答える形で、「十住品」同様に、法慧菩薩の口からその行について語られる。

では、ここでの”梵行”とはなんであろうか、”梵”は、ウパニシャッドでは、ブラフマン=最高・根本のことであろうが、この品より先に述べられた”浄行”との違いはなんであろうか。

「浄行品」では、智首菩薩が、文殊師利の問いに答える形で、身口意の業に於いて「当に願うべし・・・」という言葉が繰り返されるように、”願い”が中心となっている。

それに対して、「梵行品」では、「観ずべし」「観察すべし」との語が頻出されており、言わば、より実践的な、”観”(観ること)が中心となっているように思われるのである。

そして、次のような法慧菩薩の言葉が、どうしてこの場面でいきなり正念天子が、この場面で現れたのかの答えになっているのかも知れない。

 「菩薩摩訶薩は正念して障礙無く、・・・二相有ることなしと観察
 す、・・・一切の仏および諸仏の法に於いて、平等に観察するに猶ほ虚空
 の如し。是を菩薩摩訶薩、方便をもって清浄の梵行を修習すと名(なづ)
 く」
  〔旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.384-385

そうして、更に、ここでの”平等に観察する”方便について、詳しく語られている。

 「一切の法は幻の如く、夢の如く、電の如く、響きの如く、化(け)の如
 しと観ず。
 菩薩摩訶薩は、是(かく)の如く観ずれば、少しの方便を以て、疾く一切
 諸仏の功徳を得ん。」

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.385

どうしても、私自身は、このように平等に世界を眺めるということが出来ない。正・悪はもとより、普段生活していて起こる様々な出来事に対して、快・不快といった物差しにて受け取ってしまうのである。

客観的に確認すれば、快=自分にとって都合の良いこと(思い描く筋書き通り)、不快=自分にとって都合の悪いこと(思い描く筋書き通りに行かないこと)なのであって、違う視点から見ると、そうはならないのである。

それにしても、なかなか、頭ではわかっているものの、心にまで、あるいは普段の生活にてこのように落とし込むことが出来ない。

禅者が、行う坐禅中での心境・態度がヒントになるような気もするのだが、なかなか、その心境に達するのは、容易ではないのかも知れない。
そこで、内山興正老師が坐禅の心得を述べている部分を抜粋してみたい。

 「坐禅中では、その何かをつかもうとする『思いの手をひろげっぱなし』
 にしてしまって、なにものをもつかまないでいることです。すなわち思い
 の手放しです。」

内山興正,『〔新装版〕坐禅の意味と実際―生命の実物を生きる』,大法輪閣,2018,p.52

「梵行品」での”平等に観察”とは、少し違うアプローチではあるが、まずは何らの判断(善悪・好き嫌い)を加えず、まずはそのまま受け取るという態度なのであろう。

まずは、修習することが大切なのだろうが・・・まだまだ、道のりは長い。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?