『華厳経』睡魔・雑念 格闘中14
「梵行品」
この品には、偈が無く、かなり短いのだが、「十住品」において示された境地に於いて、どのように行を修習していけば良いのか、唐突に現れる正念天子の問いに答える形で、「十住品」同様に、法慧菩薩の口からその行について語られる。
では、ここでの”梵行”とはなんであろうか、”梵”は、ウパニシャッドでは、ブラフマン=最高・根本のことであろうが、この品より先に述べられた”浄行”との違いはなんであろうか。
「浄行品」では、智首菩薩が、文殊師利の問いに答える形で、身口意の業に於いて「当に願うべし・・・」という言葉が繰り返されるように、”願い”が中心となっている。
それに対して、「梵行品」では、「観ずべし」「観察すべし」との語が頻出されており、言わば、より実践的な、”観”(観ること)が中心となっているように思われるのである。
そして、次のような法慧菩薩の言葉が、どうしてこの場面でいきなり正念天子が、この場面で現れたのかの答えになっているのかも知れない。
そうして、更に、ここでの”平等に観察する”方便について、詳しく語られている。
どうしても、私自身は、このように平等に世界を眺めるということが出来ない。正・悪はもとより、普段生活していて起こる様々な出来事に対して、快・不快といった物差しにて受け取ってしまうのである。
客観的に確認すれば、快=自分にとって都合の良いこと(思い描く筋書き通り)、不快=自分にとって都合の悪いこと(思い描く筋書き通りに行かないこと)なのであって、違う視点から見ると、そうはならないのである。
それにしても、なかなか、頭ではわかっているものの、心にまで、あるいは普段の生活にてこのように落とし込むことが出来ない。
禅者が、行う坐禅中での心境・態度がヒントになるような気もするのだが、なかなか、その心境に達するのは、容易ではないのかも知れない。
そこで、内山興正老師が坐禅の心得を述べている部分を抜粋してみたい。
「梵行品」での”平等に観察”とは、少し違うアプローチではあるが、まずは何らの判断(善悪・好き嫌い)を加えず、まずはそのまま受け取るという態度なのであろう。
まずは、修習することが大切なのだろうが・・・まだまだ、道のりは長い。
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