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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中24

「十地品」 ― 六相円融について ―

先の、「金剛幢菩薩回向品」が説かれた兜率天宮から、場所はさらに上昇し、この「十地品」からは、他化自在天宮へと場面が移って行く。

この品は、独立した『十地経〔漢訳:十住経〕』が有ることが知られており、『華厳経』において、かなり重要な品であることが伺われる。そのため、この品についても、先の「金剛幢菩薩回向品」よりも、更に歩みを遅くし、いくつかに分けて、十分に確認して行きたいと思う。

1巡目に読んだ際も、きちんと確認した気がしたのだが、読み飛ばしていたようで、2巡目の今回にして、訳者である、衞藤即應先生が、華厳宗で説かれるところの六相円融の考え方が、この「十地品」から来ているという説明が解題に於いて行われていることに気が付いた。

しかしである、2巡目を読み進めて、1巡目で気が付かなかった、その理由に行きあたった。(居眠りもその理由かもしれないが。)

六相と呼ばれるところとは違う表現が、いわゆる、”六十華厳”〔現在読み進めている華厳経〕ではなされていて、(総・別・有・無・成・壊)いっこうに気が付かなかったのである。どうやら、華厳経の祖師らは、八十華厳を基に、六相円融の考え方を進めていったようである。

そこで、今回は、特に六相円融について、確認して行きたい。六相とは、華厳宗が考える、世の中の有様(現象)を以下の3つの対からなる、6つの相〔ありよう〕にて捉えようという企みを示している。

 1・2) 総 ⇔ 別
 3・4) 同 ⇔ 異
 5・6) 成 ⇔ 壊

 1. 総相(一つのものが多くの個別を含んでいる)
 2. 別相(多くの個別は、全体を拠り所としている)
 3. 同相(多くの意味がひとつの全体を成り立たせている)
 4. 異相(ひとつの全体を成り立たせてはいるが、それぞれの意味
      はやはり異なっている)
 5. 成〔じょう〕相(それらの意味は、互いに縁って起こって成り立つ)
 6. 壊相(それらの意味は、縁って起こってはいるものの、各自の有り
      方を守っている)

  ※ 賢首大師〔法蔵〕『華厳五教章』を当方にてまとめた。

衞藤即應先生による解題に於いて、六相円融を「事事無礙円融の玄旨を簡易平明に示したる者」と説明されていらっしゃる。華厳宗では、事事無礙法界、いわば私たちが普段触れているところの、現象の世界が、相互に関連し、融合している状態としているのであるが、それを簡単に説明したものと言うのである。

賢首大師〔法蔵〕が書かれた、『華厳五教章』では、家を建てる場合を例として、六相円融を説明されているのであるが、鎌田茂雄先生、上山春平先生の共著において、そのことを分かりやすくまとめられておられたので、少し長くなるが、抜粋したい。

 「屋舎を総相とするならば、その屋舎を構成している梁・柱・瓦・石のよ
 うなものが別相である。差別の現実にたてば一切は別相に見え、統一・全
 体から見れば総相となる。〔中略〕この二つは不離であるといえる。〔中
 略〕差別している種々なるものであっても、一つの全体を構成するとみれ
 ば同相となる。これに反して、差別・変異という面から見れば異相とな
 る。屋舎を、構成している柱も梁も瓦も全部みな違うものであるとみれ
 ば、異相としての見方が成り立つ。〔中略〕差別せる梁・柱・瓦・石など
 がおのおの縁となって、一つの屋舎を成ずるから、成相というのである。
 これに反して柱は柱、梁は梁、瓦は瓦というように、自分の本位に住し
 て、あくまでも本来の面目を保有し、あえてまじりあうことがないのが
 壊相である。」

鎌田茂雄・上山春平,『仏教の思想6 無限の世界観《華厳》』,角川書店,1980,pp.142-143

 十玄門と呼ばれる、世の中(現象の世界)を理解するための、十の方向からの切り口が華厳宗では用意されているのであるが、正直、私自身は、理解があまりできなかった。それに比べ、この六相の考え方は、シンプルであり、しかも理解しやすいものであった。

この六相の考え方は、もちろん世界がどのようであるのか(存在論)へのアプローチであるのだが、ものの見方に応用しても、なかなか示唆に富んだ考え方ではないだろうか。

私たちは、何かを見るときに、常に、癖というものを持っている。当然まず、何を置いても、自分である。しかし、その自分は、家族の、地域の、学校の、会社の、社会の一員としての自分でもある。個という独立した存在と組織を構成する一員としての個という2つの方向性が見いだせる。

そのため、視点(考え)も、自分発の視点、組織側からの視点(考え)の2つの方向が拮抗しているのである。

固定化した視点・考えは、それに固執するあまり、自由を奪う。違った視点や違った考えを納得は出来なくとも、そういう視点・考えが有りうることを許容できるのであれば、少しは、苦しい状況においても、一息つけるような、気分になれるのではないだろうか。


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