見出し画像

『華厳経』睡魔・雑念 格闘中16

「明法品」 ― 十波羅蜜について ―

先の「初発心功菩薩徳品」の帝釈天とのやり取りに代わり、「明法品」では精進慧菩薩の問いに、法慧菩薩が、様々な菩薩の修習=修行について、答える形で構成されている。

法慧菩薩の偈に、その大事な部分がまとまっているので、抜粋したい。

 「菩薩は〔中略〕不放逸を修習し、〔中略〕菩提心を、守護して常に忘れ
 ず、〔中略〕勤めて精進を修行し、正念の力堅固にして、行ずる所退転せ
 ず」 
 
  〔旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.362

上記のように、不放逸・不退転の態度で、菩提心を持ち続けることが強調されている。さらにこの「明法品」では、十波羅蜜について、細かく述べられている。

波羅蜜については「菩薩明難品」に於いて、文殊師利と智首菩薩との間でのやり取りに、すでに挙げられているのだが、この品ではさらに細かく十波羅蜜に関して説明されている。

訳者である、衞藤即應先生は、漢文に忠実に訳されておられるので、”羼提波羅蜜(せんだいはらみつ)”など、現代では馴染みが少ない語彙が使われているため、『華厳経』に関係が深いとされる『十住経』における木村清孝先生の注記から、十波羅蜜についての記載部分抜粋し、馴染みのある語にてまとめてみることにする。

  • 布施波羅蜜 = 衆生に惜しみなく施すこと

  • 持戒波羅蜜 = 煩悩を離れ戒律をしっかりと守ること

  • 忍辱波羅蜜 = 慈悲の心で、耐え忍ぶこと

  • 精進波羅蜜 = よりすぐれた法を求めて、努力しつづけること

  • 禅定波羅蜜 = 深く心を静め、仏の智慧を宿すこと

  • 智慧波羅蜜 = 諸法が空であることを確信すること

  • 方便波羅蜜 = 無量の智慧を生み出し、現実化すること

  • 願波羅蜜  = 最高の智慧を求めること

  • 力波羅蜜  = あらゆる邪見や異論を破り、諸魔を退けること

  • 智波羅蜜  = ありのままにすべてを知ること

 ※ 木村清孝校註,『新国訳大蔵経 ⑤華厳部4』,大蔵出版,2007,pp.64-65
   の注記より、当方にて抜粋し、まとめた。

『華厳経』を読み進めると、気が付くのであるが、すべての事項を十個にまとめようというコンセプトが流れており、ここでも、一般的に言われている六波羅蜜(上記の布施~智慧まで)に4つの波羅蜜が加えられ、十とされている。

正直、私自身は、波羅蜜のひとつですら修習するのは難しいと感じているのであるが、六波羅蜜に、更に4つも加わるとなると、ほぼ実現できないのではないかとも思える。

この点に関して、大智度論では、六波羅蜜に関してではあるが、次のように述べられている。

 「問うていう。必ず五種の完成〔当方註:六波羅蜜の五つの波羅蜜のこ
 と〕すべてを修行して、その後初めて『知恵の完成』〔当方註:智慧波羅
 蜜のこと〕を獲得することができるのですか。
 答えていう。いずれの完成〔当方註:波羅蜜〕も二種類に区別される。一
 は、ひとつの完成を実践することが同時に他のすべての完成を実践する
 ことになるもの
(相応随行)。二には、時に応じて別々に完成を実践する
 もの
である。(随時別行)」

 梶山雄一・赤松明彦訳,『大乗仏典<中国・日本篇> 第一巻』,中央公論社,1989,p.262

大智度論では、一つの波羅蜜で、他の波羅蜜すべてが抱合・連環されているような述べ方をしており、必ずしも、すべての波羅蜜を完全に修習しなくとも、その功徳は変わらないことが示されている。

また、大智度論では、更に、波羅蜜が説かれる意味について、以下のようにも示されている。

 「物を惜しみむさぼる心が多いのを打ち破るためにこそ、布施の教えが説
 かれるのであるが、それと同時に他の悪徳もまた打破されることを知るべ
 きである。そして、さまざまに入り交じった悪しきことを打ち破るために
 こそ、つぶさに六種の『完成』が説かれるのである。」 

梶山雄一・赤松明彦訳,『大乗仏典<中国・日本篇> 第一巻』,中央公論社,1989,p.267

『華厳経』に戻ってみると、十波羅蜜について述べている部分ではないが、同じようなことが説かれている。

 「貪欲多き者には、離欲観を教え、瞋恚多き者には、平等観を教え、邪見
 多きものには、因縁観を教え」
  
   〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.437

いわば、心のざわつき〔煩悩〕のそれぞれの症状に応じた処方のようなものとして、波羅蜜があることが示されているのである。そしてその処方は、自身のみならず、他者へも効果を発するのである。

特に布施波羅蜜の場面だと分かりやすいのだが、他者への施しが、実は同時に、自身の貪(むさぼ)る煩悩に対処するための行為であるということになろう。つまりは、「自分の為」が「他者の為」となり、「他者の為」が、ひいては「自分の為」となるような実践が、波羅蜜に他ならないのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?