『華厳経』睡魔・雑念 格闘中18
「仏昇夜摩天宮自在品」「夜摩天宮菩薩説偈品」― 如心偈 ―
品の名前にある通り、これまでの帝釈天の宮殿から、さらに場所が上昇し、場面は、夜摩天の宝荘厳殿へと移っていく。
「仏昇夜摩天宮自在品」では、十の如来の名が示され、その如来がいらっし
ゃる宮殿が吉祥であることが、偈頌される。
続く、「夜摩天宮菩薩説偈品」では、今度は十の菩薩がそれぞれの名前に相応しいそれぞれの立場の偈を(功徳林が功徳に関しての偈を誦するといったように)頌していくのである。
そのなかで、”如心偈”や”唯心偈”と呼ばれ、この、「夜摩天宮菩薩説偈品」から切り取られたのが、如来林菩薩の偈である。
この偈の後半部分について、華厳宗の第四祖澄観大師は、『大方広仏華厳経疏』〔『華厳経』の解説書といったところであろうか〕(大正新脩大蔵経 Vol.35,No.1735,659a)にて、"能破地獄〔地獄を破ることができる〕"と評している。但し、澄観大師のこの文章の前後を見る限り、”唯心”の語が散見され、六十華厳では無く、八十華厳を参照しているのではないかと思われる。
参考として、八十華厳の該当する部分を抜き出してみたい。
大意としては、「若(も)し人、三世の一切仏を了知せんと欲すれば、まさに法界の性が一切、唯、心が造るということをみるべし。」という感じであろう。
この部分が、なぜ、”破地獄”なのであろうか。
六十華厳、八十華厳、いずれの漢訳においても、この偈では、心の働きが、画師(絵師)に例えられている。
一般的な絵を描くという行為を考えてみると、五感(ひとによっては六感も)によって捉えた外の世界をキャンバスに写し取るということであろう。
学生時代の、図工の時間を思い出すまでもないが、絵を描く技術の差も大きいが、どこにフォーカスして描いているのかや、色使いなど、十人いれば、十人とも違った絵になるはずである。
同じように、自分の外で起こる様々な出来事を受け取って、私たちは、それぞれに違った外の出来事の心象を、私たちの内側に造り出しているのであろう。同じ出来事を見たとしても、心が描く絵は人それぞれ違ってしまうということである。
残念ながら、今の自分には、その受け取り方(心が描く絵)は、明るいパステルの色彩あふれた世界とはなっていない。
しかしである。描かれた絵とは違う外の世界の可能性を考えるということは出来るであろう。自身の心にはそのように描かれてしまっている外の世界が、「別の描かれ方や、色使いの可能性があるのではないか」と、想像することは可能なのではないであろうか。
残念ながら、今の自分には、澄観大師が仰られるように、”地獄を破る”という所の境地までには行けないが、固定化された考え方や、囚われた気持ちに、少しだけ穴を空けて、違う景色を覗き見れる可能性があると考えるだけでも、少しほっとさせられるのである。
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