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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中12

「仏昇須弥頂品」、「菩薩雲集妙勝殿上説偈品」

この2つの品から、場面が展開し、さらに場所が上昇していく。
「仏昇須弥頂品」、「菩薩雲集妙殿上説偈品」では、須弥山の頂きに在る
妙勝殿に於いて、帝釈天、十菩薩による偈が中心となっている。

「仏昇須弥頂品」では、過去七仏と、三の如来と、併せて十の仏に於ける
功徳について讃嘆した偈となっている。

ここで、七仏として思い出されるのは、”七仏通戒の偈”として知られる次のようなものであろう。

 「ありとある 悪を作(な)さず
  ありとある 善きことは 身をもって行い
  おのれのこころを きよめんこそ
  諸仏(ほとけ)のみ教えなり」(183)
  
  〔改行位置を漢訳に合わせて改めた。〕

 「『誹らず 害わず
   戒めにおのれをまもり
   食(かて)において量(ほど)を知り
   閑(しず)かなるところに坐して
   しかも易きに住せざれ』
   と、かく
   諸仏(ほとけ)は訓(おし)えたもう」(185)   

友松圓諦訳,『法句経』,講談社〔講談社学術文庫〕,2020,pp.126-127

道元禅師は、『正法眼蔵』「諸悪莫作」の巻に於いて、この七仏通戒の偈について触れ、白楽天(白居易)と道林禅師の”仏法の大意”のやりとりの部分を記している。「三歳の子供でも〔七仏通戒の偈を〕言い得たとしても、八十の老翁でも、それを行うのはむずかしい」〔意訳〕

まさにそうだ、簡単なものほど、難しい。そのことを頭ではハッキリと理解したつもりでも、実際に行動として身についているかどうかは、別の話なのである。

仏教の修行は、身・口・意の三つを揃えてこそ、本当に理解したといえるのであろうが、それがなかなかに難しい。

閑話休題

「菩薩雲集妙殿上説偈品」では、○○慧菩薩と呼ばれる、”慧”の名を持つ
十の菩薩による偈から構成されている。そのうち、気になる偈を挙げてみたい。

 「〔法慧菩薩〕一切世界の中(うち)の、発心して仏たらんことを求むる
 者は、先ず清浄の願を立て、菩薩の行を修習す。」
 
 「〔功徳慧菩薩〕諸法の空なるを見ずして、常に無量の苦を受く、彼の人 
 は、清浄の法眼を成就せざるが故なり。」
 
 「〔精進慧菩薩〕世間の語言の法は、虚妄にして真実無し、世は縁より起
 こると知れば、能く生死の患いを離る。」

 「〔堅固慧菩薩〕一切衆(もろもろ)の菩薩は、清浄にして、慧眼を開け
 り。我等は重ねて、仏盧舎那を見たてまつることを歓喜す、無量無辺の
 智は、演説すとも尽くすべからず。」
 
  〔旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.346-355

この「仏昇須弥頂品」、「菩薩雲集妙殿上説偈品」では、如来・菩薩の功徳や、身に着けられた資質が現実離れしており、私が気になった偈の部分はあまりにも、現実的なものばかりだ。

それにしても、このような世界観をどのように考えれば良いのだろうか。(あるいは、考えられると思っていること自体に、既に普段の囚われた思考から離れていないということなのだろう。)

それに対して、鈴木大拙先生の次のような指摘がヒントになるような気がしている。少し長くなるが引用してみたい。

 「人生には矛盾があのように深く根差しているのだから、人生それ自体よ
 りもより高い地点から見渡されない限り、人生の矛盾は決して解消されな
 い。それがなされるとき『華厳経』の世界は、なんら不可思議ではなくな
 る、形相と身体性を欠いた世界ではなくなる、なんとなれば、それは今
 やこの地上の世界に重なるからである。〔中略〕法界は世〔間〕界であ
 り、法界の住人、すなわち諸仏を含む一切菩薩は、われわれ自身であり、
 かれらのなすところはわれわれのなすところとなる。」

鈴木大拙,杉平顗智訳,『華厳の研究』,KADOKAWA(角川ソフィア文庫),2023,p.101

1巡目、いや、2巡目のここに来てまでも、『華厳経』に描かれる世界は、なにか絵空事のような、ファンタジー映画の一場面を見ているように、思っていたのだが、それでは一向に、『華厳経』の世界に入ることはできないのであろう。

視点を変えないと(ここで頌されているような、慧眼を得ないと)いけないのだろうが、まだまだ、自分には難しい・・・。

それでも、まずは、歩みだすためには(慧眼を開くためには)、法慧菩薩が頌したように、願を立て、菩薩の行を修習することからはじめなければならないのだろう。


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