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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中26
「十地品」― 離垢地・明地 ―
第二地である”離垢地”、第三地である”明地”は共通した特徴をもって説明されている。それは、どちらもその地(段階・レベル)に向かうに当たって、いずれも前段階として”心”が重要視されている点である。
第二地である”離垢地”に達するためには、以下の十種の直心を生じる必要があると、述べられている。
1)柔軟心 2)調和心 3)堪受心 4)不放逸心 5)寂滅心
6)直心(注)7)不雑心 8)無貪吝心 9)勝心 10)大心
※注:”真心”と伝わっている漢訳有り
それに対して、第三地である”明地”では、十種の深心が必要であるとしている。(離垢地に比べて段階が上がっているため、”深”と言っているのであろうか?)
1)浄心 2)猛利心 3)厭心 4)離欲心 5)不退心
6)堅心 7)明盛心 8)無足心 9)勝心 10)大心
残念ながら、金剛蔵菩薩は、それぞれ十種を挙げるだけに留まり、各々がいったいどのような心であるのか、詳しくは、説明されていない。(9番目・10番目は離垢地と同じ漢訳となっているのだが、果たして同じ心を指しているのかどうかも不明である。)
では、”直心”とは何であろうか。中村元先生は、仏典での用例を踏まえ、菩提心のことであり、正しい心のことだとしている。(中村元,『中村元選集〔決定版〕第21巻 大乗仏教の思想 大乗仏教Ⅱ』,春秋社,1978,p.189)
”正しい”とは、かなり難しい。様々な理由を基に相対的な方向から、「何々は正しい」と言えたとしても、絶対的な”正しい”となると、かなり難問になってしまい、この問題に踏み込むと、かなり大変なことになってしまう為、ここでは、ひとまず、”心”ということが強調されている点のみを抑えておきたい。
この、離垢地の説法では、十善が行われないが故に、深みにはまってしまっているところの、私たちの姿が描かれている。
「是の諸の衆生は常に財物を貪りて厭足あること無く、恒に邪命を以て自
ら生活せり。〔中略〕是の諸の衆生は貪欲瞋恚愚痴に随逐して、常に種種
の煩悩の大火の為に焼燃(しょうねん)せられて〔中略〕是の諸の衆生は
常に無明の為に覆われて大黒闇(だいこくあん)に入り、慧の光明を離
れ、生死の大険道の中に入りて、種種無量の邪見に随逐せり。」
〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕
そうして、金剛蔵菩薩は、十善道を行ずることの大切さを述べるのである。
さて、仏教の修行に於いては、身・口・意の3つを整えることが強調されるのであるが、この十善道にも、それが当てはまる。つまり以下のように振り分けることができる。
身:1)不殺生 2)不偸盗 3)不邪淫
口:4)不妄語 5)不両舌 6)不悪口 7)不綺語
意:8)不貪欲 9)不瞋恚 10)不邪見
口は禍の元とはよく言われるが、十善道においてそれは、暗示されているかのように、口=言葉に関することが目立っている。
それに対して、明地においては、有為法を厭離(おんり)することが説かれているのである。
「能く一切有為法の如実の相を観ず。所謂る無常、苦、無我、不浄なるこ
と、久しからざること、敗壊すること、信ず可(べ)き相にあらざること
〔中略〕実性有ること無きは猶お幻化(げんげ)の如し。是の如きを見已
(おわ)りて」、一切の有為法に於いて、転じて復(ま)た厭離し、仏
の智慧に趣(おもむ)く。」
〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕
”有為”とは、いろは歌として伝わっているところの「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」の”有為”のことである。
有為とは、縁を基に様々に繋がっている、私たちが目にしている、何ものも決して持続することの無い、無常の姿であるところの、この世界を指している。そんな幻のような世界を、厭離=「離れてしまえ・捉われるな」と、ここでの『華厳経』は説いているのである。
別の経典ではあるが、鳩摩羅什の漢訳の『金剛般若波羅蜜経』にも、以下が説かれている。
一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観
〔全ての有為法は、夢・幻・泡・影のようであり、露のようであり
また、雷電のようでもある。まさにこのように観るべきなのであ
る。:当方による意訳〕
この世は、儚く、捕らえたそのそばから、するりとその手の中からすり抜けてしまう。そういうものなのだと思うことで、現象に対して、執着しない、こだわらないことを目指すのであろうが、なかなかそのような気持ちにはなって行かない。
手に出来なければ、悔しく、また、手に入れられないものは、諦めても、諦めても、消したはずの炎が再び、燃えだすように、じりじりと心がそれを得たいと欲してしまうのである。
残念ながら、私は未だ、有為の奥山は今日も越えられていない。
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