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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中15

「初発心菩薩功徳品」

「梵行品」に変わって、また唐突に今度は、帝釈天からの問いに、法慧菩薩が答える形で、この「初発心菩薩功徳品」は始まる。

この品の最後の偈に於いて、法慧菩薩が述べるように、ここでの”発心”はすなわち、”発菩提心”の意味である。

 「若しくは、衆生の、無量なる生死(しょうじ)の苦を滅せんと欲せば、
 応に堅き請願を建てて、速やかに菩提心を発(おこ)すべし。」

  〔旧字体を新字体に改めた。〕  

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.424

”菩提心”を発(おこ)すことによって成るところの、様々な功徳について、この品で法慧菩薩は滔々と述べるのであるが、では、”発菩提心”そのものはどのようなことを示しているのであろうか。

”発菩提心”の内容について、鈴木大拙先生は以下のように述べている。

 「発菩提心の実際の意味は『正覚に対する願いを抱くこと』なのだ。それ
 は一種の廻心〔えしん〕である。心を正覚に向けることである。これまで
 世間的なことにのみ齷齪していた心を正覚に向けることだ。」

鈴木大拙,杉平顗智訳,『華厳の研究』,KADOKAWA〔角川文庫〕,2023,p.223

ここで、鈴木大拙先生が、”廻心(えしん)”の語を使っていらっしゃるのが大変分かりやすい気がする。廻心=”仏道を歩むことを決心する”と言い得るのであれば、『華厳経』というストーリーに於いて、仏道を歩み始めた菩薩のこの段階の姿と一致するのである。

道元禅師の『正法眼蔵』には、「発無上心」ならびに「発菩提心」の2巻に於いて、発菩提心について触れているが、大拙先生の意見よりも、さらに踏み込むように、以下のように述べている。

 「発心とは、はじめて自未得度先度他の心をおこすなり。これを初発菩提
 心といふ。」 

増谷文雄訳,『正法眼蔵(六)』,講談社〔講談社学術文庫〕,2015,p.303

『華厳経』の「初発心菩薩功徳品」では、さらに、この”菩提心”を発(おこ)すことによって成るところの功徳が、如来の持つ功徳と等しいとまで、言い切っているのである。

 「大慈悲の心を以て、普く諸の群生(ぐんじょう)を覆い、清浄なる妙方
 便をもって、無量の衆を度脱す。菩薩の功徳力は、諸の如来と等しく、無
 量の智慧海は、清浄なること虚空の如し。」

  〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.410

此処までのところからすると、”菩提心”を発(おこ)すだけで、なにをしなくとも、良いのではないかと思われてしまうが、『華厳経』は、そのような早とちりをする者に対して釘を刺すことを忘れてはいないのである。

 「無量無数の劫に、具(つぶさ)に菩薩の行を修し、精進し勤めて方便を  
 もって、一切の衆を度せんと欲す。」

『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,p.410

”無量無数の劫”とあるので、永遠に、菩薩の行を修することが示唆されており、発心のみならず、修行の必要が有るということであろう。

宗派・宗門によって違いがあるようだが、四弘誓願と呼ばれる、請願文が思い出された。

 衆生無辺誓願度   煩悩無量誓願断
 法門無尽誓願学   仏道無上誓願成

法門=仏の教えは、尽きることなく、まだまだ、学ばなくてはいけないのである。



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