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『華厳経』睡魔・雑念 格闘中25
「十地品」― 歓喜地 釈尊の背中を追って ―
この「十地品」の、最初の場面で、とても印象深いことが述べられている。
金剛蔵菩薩によって説法が行われるのだが、言い始めてすぐに、黙ってしまわれるのである。そのため、他の菩薩を代表して、解脱月(げだつげつ)菩薩が是非、その続きをお話してほしいと、頼むのであるが、金剛蔵菩薩は、以下のように躊躇するのである。
「我仏の智慧を念ずるに、第一にして思議し難し、衆生能く信ずるもの少
なし、是の故に我黙然たり。」
〔旧字体を新字体に改めた。〕
三度、解脱月菩薩が、説法の続きを行って欲しいと請い願い、また他の菩薩も、請い願い、更に、釈迦牟尼仏の白毫より光が放たれ、大光明の中、ようやく金剛蔵菩薩によって、十地についての説法が始まるのである。これは、まるで、釈尊が悟りを得た後で、その悟りの内容は、他の者には理解が出来ないだろうと、悩まれた、いわゆる”梵天勧請”の場面をなぞらえているとは言えないだろうか。
また、説法中に、十地について金剛蔵菩薩は、以下のように述べるのである。
「十地は是れ一切の仏法の根本にして、菩薩具足して此の十地を行ぜ
ば、能く一切の智慧を得ん。」
〔旧字体を新字体に改めた。〕
ここでの、”一切智慧”が釈尊の悟られた智慧とするのであれば、取りも直さずこの十地を経ることは、釈尊が歩まれたその道を、間違いなく、その後を追うことになるのではなかろうか。
さて、『華厳経』の特徴でもあるのであるが、最初に本の目次や、公園の入り口のガイドマップのように、まず、十地とは何を示すのかが述べられる。
1)歓喜地 2)離垢地 3)明地 4)燄地 5)難勝地
6)現前地 7)遠行地 8)不動地 9)善慧地 10)法雲地
今回は、1)歓喜地について確認したい。
歓喜地については、以下のように金剛蔵菩薩の偈にてまとめられている。
「常に世間を救わんことを念(おも)い、諸仏の智を求めんことを念い
て、心に歓喜を生ぜば、我当に此の事〔歓喜地〕を得べし〔中略〕是の諸
の仏子等は、諸の怖畏(ふえ)を遠離す。常に慈悲心を行じ、恒に信有り
て恭敬し、慚愧の功徳備わり、昼夜に善法を増し、功徳の実利を楽(ねが
)いて、諸欲を願わず。」
〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕
「因縁より起こることを知れば、則ち慈悲の心を生じ、即ち苦の衆生に於
いて、我当にこれを救度すべし。是の衆生の為の故に、而も種種の施を行
ず」
〔旧字体を新字体に改めた。〕
慈悲の心というのが、まず前提として有り、施(前の品でいう所の回向)を他者に対して行っていくことが、喜びとなり、その喜びが起きることで、畏怖が無くなるという段階が示されている。
2巡目にして、ようやくではあるが、『華厳経』は本当によく編集されていることに気が付く、ここでの”歓喜”についても、前の「金剛幢菩薩回向品」に伏線のようなものが張られており、先んじて”歓喜”が説明されている。
「菩薩摩訶薩は、来たり求むる者を見れば、其の須(もと)むる所に随い
て、悉く之を資給し、其の意を充満して、乏(か)くる所無からしめ、皆
歓喜せしめ、〔中略〕菩薩爾(そ)の時に心大いに歓喜し」
〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた他、旧字体を新字体に改めた。〕
他者の喜びが、ひいては自らの喜びとなる姿を描いてはいるのであるが、これがなかなかに難しい。
好意を抱いている他者や、特段感情を持っていない他者であれば、確かに、人が喜んでいる姿を見ることは、好ましい。しかし、嫌いな、あるいは、好ましくないと思っている相手にも、果たして同じような気持ちになれるであろうか。
仏典では、釈尊が具合が悪くなった原因とされる、食べ物を布施したチュンダに対し、釈尊は、優しいお言葉を掛け、反って労ったとされている。
釈尊が歩んだであろう道は、この道であることは、確かなのではあるが、はるか先を見ても、釈尊のそのお背中は、まだ見えていないのである。
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