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ハードボイルド書店員日記【55】

「これ、ここで大丈夫ですか?」「こっちに並べて積んだ方がいいかな」「ありがとうございます。あとですね」

雑誌の責任者が有休休暇を取った。もうひとりの担当を手伝って朝の品出しをする。汗だくになって女性誌のエンド台を入れ替える間に何度も質問をされた。彼女は異動してきたばかりの契約社員である。私より一回りも若く、児童書と文庫しかやったことがないそうだ。事前に「こういう風に出して」という指示もされなかったらしい。責任者ではなく無責任者だ。

「あ、この雑誌まだある。やだなあ」「どれ?」「これです」数日前に発売された某オピニオン誌だ。いつもと同様にPOPが飾られ、二面で平積みになっている。やはり無責任者だ。舌打ちをどうにか堪えた。今月号で組まれた「いま読んではいけない本」という特集がネット上で賛否両論を巻き起こしている。

「そもそも何で出版社がこんな記事を売り物にするんですか? 悪書と決めつけて『読むな』なんてまるで焚書ですよね」「そうだな」「何を読むかを選ぶ自由すら私たちにはないんですか?」「もちろんある。コイツらが何を書こうが『それはあなたの感想ですよね。そういう科学的データがあるんですか?』という話だ」

彼女はまだ首を傾げている。マスクの下の白い頬の赤らみは重い雑誌を棚に出し続けたことだけが原因ではない。

「返品しちゃダメですか?」「それはこの特集を組んだ者の思考プロセスと一緒だ。読みたいと思ったお客さんの選択は尊重しないのか?」「たしかにそうですね。すいません」もちろん限度はあると付け加え、差別的な特集が原因で休刊になった某月刊誌の話をした。汗が垂れないように袖で拭い、忙しなく動きながら。「完売したが追加注文をしなかった。何が書かれているかを知ったからだ」「売る前に知っていたら棚に出さなかったですか?」「いや、出した」「なぜですか?」「連載の中に興味深い内容があったから。彼ら彼女らが丹念に積み重ねた研究成果を発表する場を奪いたくない」

ああなるほど、と彼女はようやく頷いてくれた。「ひとつの記事がダメだから全部ダメという決めつけは傲慢ですね」「全体的な編集方針が差別的だったら話は別だが」「わかります」でもやっぱり置きたくないなあとぼやいている。「二面積みをやめてひとつにすればいい。POPも外そう。『この号に関してはオススメしません』という無言のアピールになる」「ですね。そこで折り合いを付けます」

しばらく作業に没頭した。彼女は大量に入った話題のムック本を入り口横の新刊台に積んでいる。「あの人の本、どうしたんですか?」また声を掛けられた。「あの人?」「ずっとここに積んでた記憶があるんですが」彼女は少し前にYou Tubeでやはり差別的な言動をして炎上した某有名人の名を挙げた。「元の棚に差してある」「積むのをやめただけですか?」「さっきと同じ理由だ」「店としては推さないけど売ること自体はやめないと?」「実際彼の本に救われたって知り合いもいるからな」「ですよね。私も読んだことあります。いい本でしたよ」

全て出し終わった。開店15分前になっていた。すでに他の早番社員も揃っている。「あの」「ん?」白いハンカチで額の汗を拭きつつ彼女は私の目を見た。「本当に自分で決めていいんですよね?」一瞬何のことかと思った。「いいんだよ。同調圧力に屈したら後で必ず他人や社会のせいにしたくなる。誰かが責任を取ってくれるわけでもない」「ありがとうございます。それを聞いて勇気が出ました」いつしか彼女の手は一冊の本を携えている。例の雑誌で「トンデモ本」と叩かれていたものだ。朝礼で紹介するのだろう。ベルが鳴る。ふたりとも軽い駆け足でレジに向かった。

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