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ハードボイルド書店員日記【75】

「9時までやるんですか?」

雪が降った平日。客足は疎ら以上だ。こういう日に限って午後入荷の新刊も少ない。やることのない早番の連中が籠を消毒したり棚を整理したりしている。

フェア台に積み続けている投資系の本がだいぶ減った。注文するために事務所へ足を向ける。すると強い口調の声が外へ漏れてきた。実用担当の社員が店長に営業時間を確かめている。

「館が何も言わなければ」「近隣の○○書店と△△書店は7時に閉めるみたいですよ。ウチは遠くから通っている人も多いし」「一応テナントマネージャーに相談はします。でも難しいと思う」「何でそんな受け身なんですか? おかしいでしょう」「まあそうだけど」ドアの外で店長に同情した。彼だって早めに閉店したいはずだ。おそらくテナントマネージャーも。だが彼らの一存ではどうにもならないことを私は知っている。

別の書店で遅番を務めていた数年前。記録的な大雪が降った。今日とは比べ物にならない。都内の全ての書店が7時までに閉店した。唯一ウチを除いて。

「ヤバいっすよ先輩。ウチだけじゃなくて○○も△△も×××もことごとく閉まってますよ」「だろうね」「ウチが最後の砦っすよ。栄光のオンリーワン」「置き去りとも言えるけど」店内にいたのは3人。責任者である準社員のKさんと契約社員の私、そしてアルバイトの彼だ。専門学校でゲームプログラムを学ぶ彼は家が近い。普段は自転車で通っている。

「普通来ませんよね。大雪でクソ寒いし道が滑って危ないし」「まあ」「普通閉店しますよね」「だね」何度巡回してもお客さんはひとりもいなかった。他のテナントも軒並みゴーストタウンだ。貧乏くじを引いた従業員が我々と同じ会話をしている姿が目に浮かぶ。

「Kさん、テナントマネージャーは何て言ってたんですか?」横で黙って腕組みしていた準社員に話を振る。「本部の指示がないと決められないって」我々の中で最も通勤時間が長いのは彼だった。「大したことないっすね、あのオッサン」バイト君が鼻で笑う。テナントマネージャーとは店外のスペースを借りてイベントをやる際、何度か顔を合わせた。なぜか私のことを社員だと勘違いし、やたらと売り上げのことでプレッシャーを掛けてきた。「いくら売っても私の給料は変わらないので」と返した。黒縁眼鏡の奥の眉間がぴくぴく震えていた。正直者が周りにいなかったのだろう。

「でもあの人、本の趣味は良かったよ」フォローする意図はなく、ただ事実を述べた。「え、買いに来るんすか?」「たまに」「どんなの読むんすか?」「思想書かノンフィクションが多い」「ノンフィクション?」「これとか」PCのキーを叩いて新潮文庫「ゼロからトースターをつくってみた結果」のデータを出す。Kさんの姿が見えない。事務所に引きこもったのだろう。

「何すかこれ」「文字通り。ゼロからトースターを作る話」「あれすか。石油からプラスチックを精製するとか」「よく知ってるね」「環境問題の話とかも絡んできそうっすね」なかなか鋭い。「でも先進国が散々勝手なことをしてきて、途上国には母なる地球を守れってムリな話でしょ?」「ちょっと待って」文庫の棚へ行き、モノを取ってきた。

「ほら、この188ページ」「何すか」「『現状では実現できなさそうだからって、未来もそうだと決めつけるのは無意味だ』」「…まあたしかに」「あとここ。『政治家とは風見鶏のようなもの。私たちの役目は、正しい方向に風を吹かせることだ』」バイト君は腕を組み「まあたしかに」と満更でもない顔で繰り返した。

まずは信じること、そして声を上げること。

事務所に入る。途端に内線電話が鳴った。店長が出る。切ったときの表情が明るい。「7時閉店になったよ!」事務所内で歓声が上がった。あのバイト君はいまどこで何をしているのだろう。ほら、未来は少しずつ良くなってるよ。

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