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ハードボイルド書店員日記【95】

「さっき『この棚でいちばん売れている本は何ですか?』って訊かれましたよ」

日曜日。三連休のど真ん中。まさにカオスだ。商売としてはありがたい、ということにしておく。

ようやくレジに並ぶ列が途切れた。ここぞとばかりにホッチキスの芯やレジ袋を補充する。出てくる紙が丸まっていた図書カードのロールも換えた。寸暇を惜しんでカバーを折る人もいる。

「どんな人?」「若い女の子でした。学生かも」「何て答えたの?」「『特にこれというのはないですね』と」「どこの棚?」「○○文庫です」彼の担当だ。「正直だなあ」「それっぽいものを勧めることもできましたけど」新潮や講談社の棚であれば答えは違ったはずだ。「でもちょっと後悔してるんです。ガッカリさせたかなって」「次からはオススメを伝えればいい」「ですね」

レジを出て棚整理をする。万引き防止のための声掛けも欠かさない。コミックと児童書はちょっとした森林火災だ。シュリンクの破かれた絵本がフロアに落ちている。ビジネス書のコーナーでは自ずと目が吊り上がった。「起業」や「副業」に関する本があちこちで書列の上に横向きで置かれている。入らないはずはない。指が一本入る隙間を作って並べているのだ。こんな了見では何を始めてもダメだろう。

とにかく人が多い。しょっちゅう声を掛けられる。「『ジャパンタイムス』は」「申し訳ございません。英字新聞は当店では扱っておりません」「和田秀樹さんの」「『80歳の壁』でよろしいでしょうか?」「すいません『ジョジョ』の」「地球の歩き方ですね?」もはや早押しクイズだ。

「あの」振り返る。小柄な女性だ。黒いマスクをしていて耳に複数のピアス。肩まで伸ばした髪の毛先が青い。「この棚でいちばん売れている本は」この子か。「こちらの棚でよろしいですか?」「ええ」ほうという声を飲み込む。「ちくま文庫」と「ちくま学芸文庫」だ。

「『こんな本を読んでみたい』とかはございますか?」「よくわからなくて」「なるほど。でもこちらの出版社の文庫がいいと」「大学の先生に勧められたんです。夏休みの間に何か一冊みたいな」よくいえば自主性を重んじているのか。間違いのないレーベルだから気になるものを自由に選べと。

「ムリだったらいいんですけど」申し訳なさそうにもじもじしている。「いえ」考える。「本はよく読みますか?」「割と。外国の小説とか」「書店にはけっこう来られます?」「まあまあ」あ、でもと控えめに付け加える。「人が多いの苦手。ひとりで静かに見たい系」

光が差した。

「売れているかどうかはわかりませんが、オススメがございます」辻山良雄「本屋、はじめました 増補版」を抜き出した。

「この方は荻窪で『Title』という本屋を経営しています。元々はリブロで働いていたのですが退職されて」「リブロ?」「ここみたいなチェーンの書店です。昔は池袋東口に大規模な本店が」「へえ」パラパラ捲っている。「面白そう」「230ページを開いてみてください」「え?」「こう書かれているはずです。『本屋は本を買うための場所ではあるが、実は自分に帰るための場所でもあるのだ』

「すごい!」拍手しそうな勢いだった。「ジュリアン・ソレルみたい」「スタンダール『赤と黒』ですね」聖書を丸暗記している美貌の野心家だ。「私が覚えているのはこの箇所だけですけど」「それでもすごいですよ。あれ? この本、さっきそこで」ノンフィクションの棚へ向かう。単行本の「本屋、はじめました」が一冊差しになっていた。「文庫の方がお得ですか?」「書き下ろしが一章分追加され、その代わり単行本にあった対談が未収録です」「両方読んだんですか?」「まあ」「書店員ってそこまでしないと」「まさか。好きでやっているだけです」何か言いたそうな表情を浮かべ、それから「文庫買います」と呟いて去った。

数日後。ビジネス書の新刊を棚に出している時に「すいません」と声を掛けられた。版元の営業と思って振り向く。「あ」「覚えてます?」「『青と黒』」「あはは。あの本、面白かったです。おかげで火がつきました」「それはよかった」「前からちょっと本屋に興味あったんです。いつか自分のお店を持ってみたいなあって。静かなカフェと一緒に」「いいですね。開店したら教えてください」「もちろん! あ、そうだ。店員さん、後であの本の155ページ開いてみて」「え?」「それじゃ。ここの棚、グチャグチャにしちゃってごめんなさい。人が多くてイライラしてたの」君だったのか。

退勤後に文庫コーナーで立ち読み。笑みがこぼれた。「『この人は何かしらそれに捧げている』ということが暗黙裡にも見ている人に伝わらないと、見ている人のこころは動かせない」

伝わったのなら光栄だ。

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