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ハードボイルド書店員日記【122】

「ひとつ訊いていい?」

ビルが繰り出す氷の刃に頬を脅かされる平日。レジで大量に入ったバーゲンブックの裏表紙へ値札を付ける。取次経由で入ってきた本と区別するための「自由価格本」という強粘着シールがすでに貼られている。その横へ値段を添える格好だ。隣ではパートの女性がハヤカワ文庫のカバーを折っている。

「どうぞ」「それって古本じゃないんだよね?」いまさらですか。だが年季の入ったものが多く、まぎらわしいのは事実だ。「一度もお客さんに購入されていない本なので、あくまでも新刊です」「出版社が再販制度から外した商品だから、買い取った業者が価格を設定できるんだっけ?」「そうです」「ってことは、そこから仕入れた書店も売る値段を自由に決められるの?」「ルールとしては。この価格を会社の誰がどう決めているのかは知りませんが」まだサンマの骨が歯茎に刺さったような顔をしている。

「どうしました?」「そもそもさ」「ええ」「再販制度って何?」

一瞬言葉を失う。この店のキャリアは彼女の方が長い。「誰に訊いてもちゃんと教えてくれないの。何となくわかってるから支障はないけど」珍しいことではないのかもしれない。昔通っていた英会話スクールでも、文法に関するネイティブ教師の知識はけっこう曖昧だった。

「再販売価格維持制度。出版社の決めた値段で売ることを取次や書店に強制できるルールのことです」「バーゲンブックはその例外ってわけ?」「新刊で販売された書籍や雑誌で一定期間を経たものは、出版社が定価の拘束を外せるようです」「じゃあさ、もしこれを子どもが立ち読みしてて破いちゃったら返品できる?」考えた。

「卸業者によると思います。でも基本は買い切りなので不可でしょう」「そうなんだ。まあいいか。最悪1円で売れば解決するし」その発想はなかった。「あとさ、本を売ったときの書店の利益は約2割って言ってたよね? バーゲンブックも同じ?」「もっと高いはずです」「だったらコーナーを増やせばいいのに」「ウチは新刊書店だから」「これも新刊扱いでしょ?」幼少期のエジソンと話している気分だ。だがこういう視点と好奇心は忘れたくない。誰もが当たり前の常識としてスルーする何か。閉塞した状況を打ち破るヒントはそういうところに潜んでいる。

「まるでポーの『盗まれた手紙』だな」思わずつぶやく。「え?」「何でもないです」もうすぐ昼だ。お客さんはほとんど来ていない。週末に待ち構えるポイントアップキャンペーンが影響を及ぼしている。まさに朝三暮四だ。「いま話したようなことを手軽に学べる本、ないかな?」「あります」即答してレジを出た。

「こちらです」廣済堂出版から出ている「本屋図鑑 だから書店員はやめられない」を渡す。著者はいまがわゆい。現役の書店員だ。「あ、それ知ってる」「書店の一日の仕事の流れや舞台裏が描かれています。我々は『教えて!!ちえぶくろう』というコラムで業界のルールを学べます」「バンセンのことも書いてある?」「もちろん」「私先週まで知らなかったの」マジかよ。無論口にも態度にも出さない。接客業を続けていると嫌でも身に着くスキルのひとつだ。

「まあ著者もご自身のことを『年数ばっかり経った無知書店員』と書いていたので。私も似たようなものですし」「そんなことないでしょ」「分類記号とかほぼ覚えてませんから」「何それ?」「……あと岡山の書店は首都圏よりも入荷が2日遅いみたいです」「そうなの?」「しかもものによっては東京と同じだったり」「へえ。客注が大変だね」まさしく。

「ちなみに、いちばん読んでほしいのは169ページです」こんなことが書かれている。

「毎日仕事をしていると…楽しいことだけではなくて辛いことや…苦しいこともたくさんあります」「ミスもたくさんして…(未だにします)うまく仕事がこなせない自分が情けなくて」「『辞めたい!』と何度思ったかわからないほどあります」

大きく頷いている。「一緒だわ」同感だ。「でも著者はこうも言っているんです」記憶を頼りに続ける。

「お客様の言葉や笑顔に助けていただいたことも…何度も何度もあります」「この今の大変な世の中でまたいつ何が起こるかわからない…それなら好きだと思うことを続けてもいいのかな」「毎日いろいろありますが…私は今の書店員の生活が大好きです」

「ねえ」「はい」「この本、従業員用の取り置き棚に1冊入れていい?」「もちろん」「あ、集団で来た。いらっしゃいませ~」読みたい本、読まれてほしい本を売る。書店員にとってはそれが理想なのだ。

いまがわさん、嵐のように働きながら新作をのんびり待ってます。

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