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ハードボイルド書店員日記【87】

「三省堂の神保町本店、なくなっちゃったね」

朝だけ雨が降った平日の昼下がり。ある男性客に言われた。色黒の丸顔。オレンジのトレーナーに青いデニムパンツ。彼が買った8冊の単行本(自己啓発書と海外文学が半々)にカバーを掛ける。「そうですね。8日に」と返した。なぜこの店でその話題を出すのかと考えながら。

「閉店するって知らなかったからびっくりしたよ」「来月に仮店舗がオープンするみたいです」「どこ?」「小川町です。靖国通りを秋葉原の方へ直進して」目印となる建物の名を教えた。「でも規模は小さくなるんでしょ?」「おそらく」「残念だなあ。やっぱり店員さんもああいう店にはよく行くんでしょ?」「はい。棚作りの参考にしますし、あと欲しい本を探す目的でも」「だよねえ」そんな意欲のある同僚はごくわずかですが、と心の中で付け加える。男性は満足そうに頷き、右手で黒縁眼鏡の傾きを直した。彼が眼鏡を掛けていると認識していなかった自分に気づいた。

「他であれぐらい大きい本屋っていうとどこになる?」「他ですか」カバーを掛けた本へ栞を挟み込む手が我知らず止まる。「三省堂の中で、という意味でしょうか?」「そうそう。やっぱり書店ではあそこがいちばんだからね」先ほどと同じ疑問が再び脳内を滑り抜けた。スパイクの刃が若干上を向いている。行きつけの吉野家で「この近くに牛丼の美味しい店あったっけ?」と店員に訊ねるお客さんはまだ見たことがない。

「都内だと池袋でしょうか。本店の名を冠していますし」「場所はどの辺り?」「昔リブロだったところです。東口の無印良品がある」「ああジュンク堂本店の近くか。激戦区だ。大変そうだね」私の行きつけの書店も同じ界隈にある。広さはたったの11坪。大変どころではないだろう。

「三省堂の神保町本店で、昔この本を買ったんだよ。他にはおいてなくてさ」透明なシート越しにスマートフォンの表紙画像を見せられる。マヤコフスキー「とてもいい!」だ。「土曜社が出しているシリーズですね」「知ってる?」「私も好きなので」「神保町で買った?」「そうですね」本当は違う。昔の職場で買ったのだ。自分で仕入れて自分で購入した。やる気とプライドが反比例気味の文芸担当に何も言わせぬため、あえて社割を使わなかった。

「ああいう素晴らしい本屋がなくなると困るよね」「困ります」いまここでそういうセリフを口にされる行為と同じくらい。「たしかにコンビニは安くて便利だけど、老舗の専門店がなくなっちゃうのは辛いよなあ」コンビニ? 遠回しに店の品揃えを非難しているわけではないのは理解できる。だがもし彼が現職の大臣だったら。目の前で話を直接聴くのではなく、このやり取りを活字で読むだけだったら。

「池袋はちょっと遠いなあ。この近くでマヤコフスキーを買えそうな店は」「よろしければいつでもご注文を承りますよ」「いやいや、買いたくなった時にふわっと立ち寄ってパッと買えないとダメなんだって。わかるでしょ?」「ええ」服装のせいだろう。目の前の男性が歳を重ねたジャイアンに見えてきた。底に紙を敷いた袋に本を詰め終え「雨除けのビニールをお掛けしましょうか?」と訊ねる。「いやいいよ。もう上がってるし」「かしこまりました」重そうなのでカウンターから出て渡した。

「ありがとう。あなたもああいう大きい会社で働いた方が稼げるんじゃないの?」「二十三区内における非正規雇用の時給はどこの書店もほとんど一緒です」初めて男の顔に驚きが浮かんだ。おそらく二重の意味で。正社員だと思っていたのだろう。「そうなの?」「あと稼ぐことだけが目的だったらこの業界にはいません」「そっか。うん、他の業種に行くのも手だよね。じゃあ頑張って」そそくさと去っていく。踏みかけた地雷が爆発することに怯えながら。存外丸くて頼りない背中を見送りつつ、このことは絶対に小説に書こうと決めた。悪意はまったくない。彼の言動がそうだったように。

「いったん喋り出した以上、私は最後まで喋ります。声で私を負かすことのできる人間なんて、どこにもいやしません」(マヤコフスキー 詩人)

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