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ハードボイルド書店員日記【74】

「世界でいちばん売れてる本は何か知ってる?」

人手不足で急きょ出勤した金曜日。ふたつ隣のレジで写真週刊誌を買った初老の男がパートの女性にしつこく話し掛けている。白髪交じりの角刈りで眉が濃い。背中には黒とオレンジのくたびれたリュック。「わからないです。申し訳ございません」ジャストな愛想笑いだ。漫画家志望向けのデザイン集に載せたい。せめて左手の薬指ぐらい見ろ。

「俺はアンタに興味があるわけじゃない。○○書店の従業員たるもの、それぐらいは知ってないとまずいだろ? いわば教育だよ。そっちのアンタは知ってる? 世界でいちばん売れてる本」隣でレジを打ち終えた女性が「何でしょうね。世界地図?」と律儀に返す。「おいおい見当違いも甚だしいよ。ダメだなあ。これぐらいの知識は書店で働く者の基本的マナーだぜ」後ろに並ぶお客さんをくだらない雑談で待たせないことも書店で働く者の基本的マナーである。

「お並びのお客様どうぞ」「おいそこの」来た。「アンタはわかるか? せか」「聖書ですね」「…」「いらっしゃいませ。お預かり致します」タイム・イズ・プライスレス。それが私の考える社会人の基本的マナーだ。接客業に従事する者としては褒められた態度ではないが。

「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ」流れが途切れた。男がゆらりとこちらへ来る。「アンタよお」三白眼で見上げられた。「はい」声が震える。外の寒さのせいだ。「やるじゃねえか」「はい?」「△△書店でも同じ質問をしたんだ。誰も答えられなかったぜ。ここよりだいぶでかいけど大したことねえな」「そうでしたか」心の中で大きく息を吐いた。「アンタ正社員?」「いえ」隣で見当違いな回答をしたのがそうだとはもちろん言わない。

「なれないの?」「ええ」なる気がないのも事実だが。「そのうちいいことあるよ。じゃあな」帰りかけて足を止めた。「いま誰も並んでないよな。ひとつ訊いていい?」「どうぞ」「聖書とか読む?」「いえ」「だよな。だって嘘だろあんなの」「嘘というか」「じゃあ信じる?」「いてもいいとは思っています」首と背中の間にいつもと違う汗がにじみ出た。

「俺はさ、自分なりの聖書ってのを持ってるんだ」「マイバイブルですか」「そう。これだよ」リュックをおろし、中から文庫本を取り出した。なぜか表紙を隠すように持っている。「ちくま学芸文庫」という字が目に入った。ぼろぼろでカバーがない。「だいぶ読み込まれてますね」「だろ? まあ古本屋で買ったから元々こんなだけど」へへへと目尻に皺を作る。意外に第一印象で損をする人かもしれない。「タイトルは内緒な。たとえばこのページよ。『善行は、それが知られ、公になった途端、ただ善のためにのみなされるという善の特殊な性格を失う』」頭の中で何かが光った。

「ハンナ・アレント『人間の条件』では?」浮かぶ表情がサスペンスドラマで殺人現場を目撃した通行人Aだった。「何でそれでバイトなの?」バイトとは言っていない。だが否定もしなかった。「そんなに勉強したのにもったいないねえ」「ですねえ」「でもな、本当の勉強ってのはそういうもんじゃねえんだぜ。世のため人のために目立たぬ場所で踏ん張る。たとえ報われなくても、ご縁のあった場所で一所懸命働いて他人様を喜ばせる。勉強も読書もそのためにあるものだ」「私もそう思います」本心だった。

「まあよ、いまはまだ報われないかもしれない。でも心配するな。お天道様は決して見逃さねえから」「ありがとうございます」「ただし期待しちゃダメだぜ? 期待しないで一途に頑張るんだ。アンタにできるか?」「精進します」自然と頭が下がる。いつしか男のいかつい顔に柔らかい笑みが浮かんでいた。「実は俺も一緒だよ」「はい?」「いてもいいと思ってるよ。この上にお天道様みたいな何かが」天井を指差し、それからリュックを背負い直して男は去った。

いったい誰だったのだろう。休日出勤をしてよかった。「人間の条件」を哲学書の棚に置こう。いつか「この店でいちばん売れてる本」にしたい。

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