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件の如し(第1話)

■あらすじ

 探偵のクダンは、ある日死んだはずの女の捜索依頼を受ける。怪しみながらも調査を始めるクダンを待ち受けていたのは、女殺し屋や殺し屋組織同士の抗争、企業や外務省の海外への情報流出、外国の陰謀など手に負えそうもない事件ばかり。騒動の渦に巻き込まれたクダンは果たして死んだはずの女を見つけ出し、無事生還することができるのか。

1、クダン
 人を探すときは、その人間が嫌がるものや場所を引き算していくのだ。
 探偵のクダンはブザーの音で跳び起きて、事務所の扉の方を眺めた。そこには黒い人影が映っていた。
 これまで呼び鈴などを付けていなかったので、事務所の扉はノックされ過ぎて、何か所も塗装が剥げてしまった。だからブザーを付けたのだが、これがまた色気も何もない単なるブザーなので、興ざめな音が鳴り響く。クダンはジャズでも流れるブザーはないものか、と思いつつ立ち上がって、「はいはい」と言いながら寝ぐせ頭を掻き、扉へ向かう。
 扉の向こうに立っていたのは、真夏にも関わらずトレンチコートを羽織った長身の男だった。丸いサングラスをかけているせいで、目や視線を追うことができない。手足は細く、余計な肉という肉を削ぎ落したように頬もこけていたが、弱々しいというより、剃刀のように鋭利な男だ、という印象をもった。
 クダンは男を招き入れると、粉末の抹茶を湯のみにあけて、お湯を注いで男に出した。男は手を立てて「お構いなく」と言ったが、その声の響きに臆したものも揺らぎもないのがクダンには気になった。男は未知の場所へ来たにも関わらず、部屋の中を見回したり、クダンの動きを追ったりという挙動がなかった。案内された椅子に座ると、ただ前をじっと見ていた。そこには何があるわけでもない。
「それで、今日はどのようなご依頼でしょう」
 クダンは曇りきっている、嵯峨下探偵事務所と書かれた窓ガラスに辛うじて映った自分の姿を眺めながら、ネクタイを正した。
「私はこういうものです」
 男はテーブルの上に名刺を差し出す。そこには「フレンド&パートナーズ 総務部部長 矢崎昂進」と書かれていた。
 フレンド&パートナーズはしばらく前に社員の横領が発覚した会社として報道されていた。
「フレンド&パートナーズ……人材派遣会社ですね」
 クダンが名刺を持ち上げて眺めつつ言うと、矢崎は黙って頷いた。まだ男は三十代から四十代の前半くらいに見えた。その年で部長まで昇り詰めるということは、相当なやり手なのだろう。その男が場末の探偵事務所にどんな依頼があろうか、と不思議な心持で矢崎を一瞥し、名刺を胸ポケットにしまう。
「妻を……探してほしい」
 矢崎はコートの内ポケットから一枚の写真を取り出すと、クダンに向かって差し出した。
 写真には家の庭なのであろう花壇の前で、花をかたわらに一人の女性が写っていた。二十代後半くらいの若い女性。肩口までの髪を後ろで一つに結わえ、薄赤のTシャツにジーンズを履いたその女性は、お世辞抜きに美人だった。こんな女が妻だとはなんと憎たらしい、いや、羨ましい男だ、とクダンは嘆息しながら写真をテーブルに置いた。
「それで、奥様はいついなくなられたのです」
「三日前だ。買い物に行って来ると言ったきり帰らない」
 ふむ、とクダンは顎をさすり、手に伸びている髭が当たると、それを摘まんで引っこ抜き、口で吹いて髭を飛ばした。
「警察には?」
「行っていない」
「なぜです」
 犬猫なら探偵に依頼した方が見つかるだろうが、妻が失踪したとなると、まず警察にと考える人間の方が多いだろう。ましてや矢崎は妻が失踪したとあっても、取り乱した様子を見せない沈着な男だ。合理的に考えそうなものだが、とクダンは自分の目で見ている矢崎と妻が消えた矢崎という男の像に乖離が生じてきているのを感じた。
 この乖離は信ずるに値する直感か、あるいは思い込みか。
 クダンは唇を舐め、「なぜですか」ともう一度繰り返した。
「妻には男の影があった。それが表沙汰になっては困る。だから秘密裏に、君に探してもらいたい」
 なるほどね、と合点しながらクダンは腕を組んで考えこむ。
「相手の男に関する情報は」
「ない」
「奥様が行きそうな場所に心当たりは」
「ない」
 なるほど、とクダンは苦笑する。「てがかりはないということですな」
 矢崎はせせら笑って、「あったら君に頼みはしない」と椅子の背もたれに寄り掛かってクダンを見下ろすようにそう言う。
 おっしゃるとおりで、とクダンは恐縮して見せると、テーブルの上の電卓を弾き、くるりと回して矢崎に差し出す。その数字を見て、矢崎の眉がぴくりと動いたが、彼は「いいだろう」と頷いた。
「おっと。こちらは前金分です。後は調査の日数に応じた経費と、奥様が見つかったときには成功報酬をいただきます。前金の入金が確認でき次第、調査を開始いたします」
 矢崎は無用だ、と言うとコートの内ポケットから無造作に札束を取り出し、クダンが提示した前金分相当の札束を引き抜くと、机に置いた。
「今日から調査を開始してくれ。進捗は名刺の電話番号に頼む」
 そう言うと矢崎は立ち上がり、コートのポケットに手を突っ込んで立ち去ろうとする。
 クダンは慌てて呼び止め、「奥様のお名前は」と訊くと、矢崎は「秋奈だ。矢崎秋奈」と振り返って言い、事務所の扉を開けて出て行った。
 一か月ぶりの客だな、とクダンはテーブルから写真を持ち上げて、矢崎秋奈を眺める。力の抜けた、自然体な笑顔だ。このファインダー越しに覗いているのは夫の矢崎だろうから、あの不愛想な夫でも、妻の前では違う顔を見せるのだろうか、と訝しく思った。
 一か月前の客は、ある夜、首輪を噛みちぎって逃げ出してしまったシベリアンハスキーを探してほしいという依頼だった。クダンはハスキー犬の好物やら愛用の玩具やらを預かって探し回ったが、三日調べても手掛かりはゼロだった。こりゃあ死んでいるか、と諦めかけたところに、情報屋のゴトウから「ハスキー犬を五十キロ離れた町で見た」という情報が入り、クダンは普段乗らない中古のワゴン車を飛ばして、ハスキー犬を追った。車は途中でエンストしたので歩き、その町に辿り着いた頃には深夜になってしまっていたので、聞き込みもできなかった。
 クダンは途方に暮れて公園に足を運び、ベンチに横になって休んでいると、ホームレスの男が段ボールを譲ってくれた。そこでダメもとでハスキー犬の行方について訊いてみると、この界隈には犬好きのドクさんというホームレスがいて、野良犬なんか見つけると面倒を見ていることがある、と聞いて、すぐにドクさんの元へ向かった。
 ドクさんの元には探し求めていたハスキー犬がいた。町でうろうろしていて、保健所に連れて行かれるところをドクさんが救って面倒を見ていたらしい。クダンは事情を話してハスキー犬を引き取ると、ドクさんに名刺を渡して犬猫を見つけたら連絡してくれ、と頼んだ。ドクさんは「犬はいいけどよ、猫は嫌だよう」と首を振ったのでクダンも思わず笑ってしまった。
 さて、どうしたものかな。今回はドクさんに見つけてもらうわけにもいかんだろうし。
 クダンはデスクの椅子に腰かけ、デスクの上に足を投げ出して矢崎の名刺と矢崎秋奈の写真を交互に眺めた。
 分かっているのは名前だけ。それ以外の情報を与える気はなかったようにも思える。きな臭い。非常にきな臭い。
 直感を、信じてみるか。
 クダンは足を振り下ろして立ち上がると、アンティークショップを方々探し回って手に入れた黒電話の受話器をとり、ダイヤルを回す。
「ああ、おばちゃん? おれちょっと外に出てくるからさ。お客さん来たらよろしく」
 クダンの事務所は喫茶店「ジェイムズ」の二階にあり、外出するときは喫茶店のマスターの母親、おばちゃんに番を頼んで出かける。そうするともし依頼人が来たときでも、おばちゃんが必要事項を聞き出しておいてくれる。だから助手要らずさ、と歯磨きをしてにいっと笑って磨き残しがないか確かめ、口を濯いで出かける。
 目的地は矢崎の勤務する「フレンド&パートナーズ」だ。名刺には住所が書いてある。クダンは駅に向かって電車に乗ると、乗り継いで最寄り駅で降り、扇子で仰ぎ、ハンカチで汗を拭きつつ、目的地の会社へと向かった。
 オフィス街の中にある、なかなか立派なビルが社屋だった。クダンは居住まいを正し、自動ドアを潜ってロビーに入り、受付カウンターに歩み寄って行く。
「矢崎部長にお会いしたいんだが」
 クダンは名刺をポケットから取り出すとカウンターに置き、受付嬢に矢崎部長と旧知の仲だということを印象付ける。
 受付嬢は表情を変えず、「アポイントはおありですか?」とまるでレコーダーのように無感情に問うた。
「いや、ないんだ。ただ、奥様の件で、と言えば会っていただけるはずだ」
 クダンの言葉に受付嬢がはっとして、心なしか表情が青ざめた気がする。クダンはおや、と思う。妻の失踪は周囲に知られた周知の事実なのか。いや、矢崎のあの様子ではそんなこともあるまい。なら、受付嬢のこの反応はなんだ。訝しく思いつつも、クダンは微笑みを浮かべて、「取り次いでいただけるかな」と確認する。
 受付嬢は頷いて電話をコールする。「矢崎部長ですか。今、ロビーに奥様の件で、とおっしゃる男性がいらっしゃってるのですが……。はい、はい。分かりました。お伝えします」
 受付嬢は仮面のような表情を保ちつつ、ただ眉にだけ不穏さを窺わせて、機械のような声で言った。
「部長は今こちらに降りて参りますので、あちらの休憩スペースでお待ちください」
 受付嬢に示された、椅子とテーブルが並んだ一角を一瞥すると、「どうもありがとう」と頭を下げて踵を返す。
 休憩スペースに備え付けられた自販機で缶コーヒーを二本買うと、隅の場所を選んで腰かけ、コーヒーのプルタブを引いて開け、ちびちびと啜りながら飲む。
 しばらく待つと、男が現れて、恐る恐る、といった様子でクダンを窺い、「あなたが」と訊くので、クダンはやはり、と思いながらも澄ました顔で「ええ、そうです」と頷いた。
 矢崎はクダンがネクタイを締めていることに気づき、「わが社はクールビズで」と言い訳じみたことを言うので、クダンは涼しく笑って、「これは私の信条によるものですので、お気になさらず」と断りを入れる。
「あなたが、矢崎昂進部長ですね」
 訊ねながら、クダンは未開封の缶コーヒーを差し出す。矢崎はそれを恐縮して受け取ると、怪訝そうにクダンを上目遣いに眺めた。
「ええ、そうですが、あなたは?」
 先ほどあったはずの矢崎は困惑極まりないといった顔でまじまじとクダンを見ていた。それもそうだろう、クダンと矢崎は先ほどあったにも関わらず、初対面だったのだから。クダンが先ほど会った矢崎は矢崎でなかったのだ。目の前にいる矢崎は中肉中背の穏やかそうな男だった。先ほどの男と共通していそうなのは、年齢くらいだ。
「私は嵯峨下探偵事務所のクダンと申します」
「探偵事務所?」
 ええ、と頷きながらクダンは名刺を差し出す。矢崎も慌てて名刺を胸ポケットから出すので受け取ると、クダンはじっと眺めた。先ほどもらった名刺とまるで同じだ、と思う。フォントもサイズも、寸分狂いない。
「探偵の方が、私に何の用です」
「実は先ほど、矢崎部長を名乗る男から、奥様を探してほしいという依頼を受けまして」
 クダンは二人の矢崎から受け取った名刺をテーブルの上に並べる。矢崎の表情を窺うと、彼の顔は蒼白になっていた。額には脂汗が浮いている。
「妻を……ですか?」
 そうです、と頷き、矢崎秋奈の写真を名刺の隣に並べる。
「奥様ですね」と目で促すと、矢崎は汗をハンカチで拭いつつ頷いた。
「奥様はどちらに」
 クダンがそう訊ねると、矢崎はびくっと怯えるように体を震わせ、すがりつくような眼差しを向けてくる。クダンは訝しいなと怪しんで唇を舐めると矢崎の視線を正面から受けて跳ね返す。矢崎の方が耐えられず、視線を逸らす。
「妻は……死にました。一か月前です」
「亡くなられた?」
 それは想定していなかった答えだったので、クダンも些か戸惑った。
「失礼ですが、原因は」
 矢崎は青い顔をしながら俯き、「事故死です」と振り絞るように答えた。
「車で事故を起こし、爆発炎上。原形すら留めず……」
「間違いなく奥様でしたか」
 矢崎は小刻みに顔を震わせながら、なぜそんなことを訊くのか、という表情で、追い詰められたリスのようだった。
「持ち物などから、警察が判断したんです。間違いないでしょう」
 なるほど、とクダンは鼻から息を吐き、缶コーヒーを、喉を鳴らして飲み干す。
「ならなぜ、偽物の矢崎部長は私に奥様を探すよう依頼したのでしょうかね」
「そんなこと知りませんよ」
 矢崎は小動物のような男だが、ここにきて態度が頑なになってきているように思えた。矢崎にとっても、妻のことを掘り下げられるのは愉快なことではないらしい。確かに、妻を失ったばかりの男に、無遠慮に故人のことを根掘り葉掘り訊くのは、あんまり行儀のいい行為とは言えない。だが、そんなマナーの悪さが、時として必要とされるのも探偵の仕事だ。
「長身で痩せた男でした。年はあなたと同じくらい。何か心当たりはありませんか」
 矢崎は口を固く結んで首を振る。
 男は連絡先として矢崎の名刺の連絡先を指定している。ということはだ、遅かれ早かれ依頼人の矢崎が偽物だと気づくからくりになっていたってことだ、とクダンは顎をさする。つまり、探すべき矢崎秋奈が死んでいるということに気づくのも。
 だとしたらなぜだ。男はなぜ正規の料金を支払ってまで、そんな無駄に終わる調査の依頼をかけた。
 論理的に考えろ。
 男は唯一の連絡先として、矢崎の電話番号を指定した。そうすれば、いずれクダンが電話をするのは必然だ。電話をすれば何が起こる。依頼人の矢崎は偽物で、その妻は死んでいるということが分かる。なら、その先に依頼人の男は何を見ている。自分をどうしようとしている。
 妻を探す、という依頼のことはクダンの口を通して伝わるのは容易に想像できる。ならば、それは伝わって必然、必要な行為なのだ。必要だということは、何らかの影響が矢崎に出て然るべきだが、矢崎の狼狽と拒絶するような壁を考えると、何らかの効果はあったと見ていいのかもしれない。
「偽物とはいえ、依頼は依頼。前金も受けておりますし、私がこのまま奥様の捜索を続行してもよろしいでしょうか」
 矢崎はクダンがそう言いだしたことが理解できなかったようで、「なにを馬鹿な!」と缶コーヒーをテーブルに叩きつけて声を荒げた。
「妻は亡くなりました。死んだ人間を、どう探そうと言うのです」
「さて、墓を掘るわけにもいかないでしょうな」
 当たり前です、と矢崎は叫んで立ち上がる。握りしめた拳はわなわなと震えていた。
 クダンは言いながら冷静に矢崎を眺める。妻の死を侮辱されたかと感じたか。だが、この反応はそれとも違う気がするな。クダンは射すくめるように矢崎を睨みつけると、ふっと表情を緩ませる。
「奥様は本当に亡くなられているのですか」
 ふざけているのか、と温厚そうに見えた矢崎もいきり立って叫ぶ。「帰ってくれ。不愉快だ」
「ええ。失礼します。これ以上は必要な情報は得られないようだ」
 クダンも立ち上がると、一礼して矢崎の脇を通り抜けてロビーを去る。背中に突き刺さるような矢崎の視線を感じながら、クダンは会社を後にする。
 偽物の矢崎は、誰かがお前の妻を探しているぞ、と矢崎に脅しをかけたかったのではないだろうか、とクダンは考える。だとすると、矢崎も清廉潔白ではない。何か裏がある。とはいえ、その裏を暴くのは直接のクダンの仕事ではなかった。自分の仕事は、死んだとされる妻を探し求めることだ、とクダンは考える。
 自動ドアをくぐり、振り返って社屋のビルを見上げると、重く黒い雲がかかっていた。一雨きそうな天気、形勢だなとため息を吐いて、スーツのポケットに手を突っ込みながらオアシスの「ホワットエヴァー」を口ずさみ歩いた。

〈続く〉

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