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件の如し(第5話)

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■本編

5、カクタス
 人通りのない暗い裏路地にある、テナントもろくに入らない雑居ビル、その中の一つに黒いコートの男、カクタスは入って行く。
 入り口の扉正面すぐにあるエレベーターに乗り込むと、五階のボタンを押した。エレベーターが上り下りする時間というのは、なぜこうも苛立ちが募るのか。昇降する浮遊感のようなものが嫌なのではない。ただ、じっとして昇降するのを待っている――委ねている感覚というのが嫌なのだ。
 カクタスはその苛立ちに耐え、昨日エレベーターで昇降したホテルを思い出す。清潔感と高級感のある、上等なホテルだった。カクタスはそのホテルの一室に泊っている榎田優悟という男に会い、情報を引き出した後、殺す予定だった。
 だが、カクタスが到着したとき、榎田は既に殺されていた。頸動脈を一掻きで殺され、現場にはリンゴが一つ転がっている以外、何の痕跡も残っていなかった。明らかに同業者、暗殺者の仕業だった。
 榎田は外務省の官僚で、矢崎と交流があった。矢崎の裏の仕事も心得た上で付き合い、便宜を図るようなこともあったと聞く。そして何より、カクタスにとって都合の悪い情報を握っているというタレコミがあり、カクタスはその情報の真偽を確認し、情報が真にせよ偽にせよ、知りすぎた罰として始末するつもりだった。
 予定が狂った。カクタスは自分が榎田を狙っているという情報がどこかから漏れ、先んじて始末された可能性を考えた。だが、榎田を襲うことは、カクタス以外に知っているのは相棒のアジサイだけだ。
 アジサイが裏切ることは考えられなかった。カクタスの恐ろしさを最も近くで見ていて知っているはずだし、利に聡い男だから、カクタスから離れる愚は犯さない、と彼は確信していた。このままカクタスについていけば、新しく興す組織のナンバーツーの座に座れるのだから。
 エレベーターが到着し、下りると廊下を突き進む。カクタスの黒い革靴の踵が、静まり返った廊下に反響して高く響く。
 テナントは何部屋もあったが、このフロアはすべてカクタスが抑えていた。今は三室使う程度だが、いずれはフロア全体、そしてビル全体、と組織を瞬く間に大きくしてみせる。カクタスは己の野望を思いながら、最奥の事務所の扉を開けた。
 部屋の中はブラインドを下ろしていて薄暗く、壁の東二方に沿うように並んだ熱帯魚の水槽の明かりが青白く部屋を照らしていた。入り口傍の応接用のソファには群青色のドレスを身に纏ったブロンドの女が、ナイフをシャープナーに擦り合わせて刃を研いでいた。奥にはモニターが幾つもあって、それを操作する端末の前に白いシャツの男が背を向けて座っている。
 カクタスはポケットに手を突っ込んだまま、男の後ろに黙って立った。
 男、アジサイは敏感にカクタスの気配を察して椅子を回して振り返り、「待っていたよ」と病的に青白くやつれた頬で、にやっと笑って眼鏡を押し上げた。
「顛末は昨日話したとおりだ。で、怪しい奴は見つかったか」
 カクタスは榎田の死を確認した直後、アジサイに連絡をして状況を説明し、榎田を殺した人物を洗い出すよう指示していた。
「ああ。榎田が殺されたホテル、そこの防犯カメラの映像を盗み出してね、君の説明と照らし合わせて見てみたよ」
 アジサイはくるりとモニターに向き直り、「こいつを見てくれ」と端末を操作すると、ホテル一階のエレベーターホールが映し出される。「これを進めていくと、だ」、アジサイはマウスを操作して時間を進める。
 するとある時点で、カクタスがやってきて乗り込む。それに合わせて乗っていた乗客、女が降りてくる。アジサイはそこでモニターを止める。
「こいつだ」とアジサイはモニターをこつこつと叩いて女を指し示す。
「やはりその女か」とカクタスはモニターを見下ろしながら呟く。
「へえ、気づいてたのか」
「ああ。俺に警戒心と、ほんの一瞬殺意を向けた。多分同業者だろうなと思っていた。こいつは誰だ」
 アジサイはデスクの引き出しを開け、中からフラットファイルを取り出すと、中をぱらぱらとめくり、一枚の用紙をカクタスへ差し出す。
「組織の勧誘リストだ。うちで誘いをかけたが、断られている。だからおれにはそいつの顔に見覚えがあった」
 カクタスは用紙を眺めながら顎を擦ると、「ガーネット、か」と言って、視線をモニターに移す。「どんな奴だ」とアジサイを一瞥する。
「凄腕だよ。格闘、近接武器、銃火器、どれもプロフェッショナルだ。特に近接戦に強い。カクタス、君と似たタイプかもしれないね」
 カクタスは用紙を机に投げ出して、「なるほどな」と腕を組んで頷く。
「あと、何の拘りか知らないが、女は殺さないって噂がある」
 拘りとはな、とカクタスは低く笑う。この世界では、拘りなんてものをもった奴から死んでいく。ガーネットがいまだ生きているのは、ただ運がよかっただけだ。本当の強さとは、拘りや信条を捨てるよう突きつけられたとき、何の呵責もなく捨てられるかどうかだ。
 カクタスは振り返り、応接用のソファに座った女に向かって、「ラピス」と呼ぶ。
 呼ばれたラピスはドレスの裾をたくし上げ、研いでいたナイフを太もものホルダーに納め、立ち上がって近づいてくる。
「何か御用でしょうか、カクタスさん」
 ラピスはドレスの青よりもなお青い瞳を真っ直ぐにカクタスに向けて、抑揚のない声で訊ねる。
「ああ、お前に仕事だ、ラピス」
 カクタスは言いながらモニターを指さし、ラピスは目だけでそれを追う。
「その女を始末すればよろしいのですか」
 カクタスはそうだ、と頷きながら、「だが容易い仕事ではない」とラピスの自尊心を刺激するように、侮りを含んだ眼差しを向けた。
「その女はガーネットと名乗る同業者だ。『事務所』の人間だ。手強いぞ」
 アジサイがカクタスとラピスをにやにやと眺めながら言うと、ラピスは、表情は平静を装いつつも、目に炎の先がちらつくように怒りを僅かに映して「問題ありません」と断言した。
「相手は近接戦闘のエキスパートだ。ラピス、君のペースに持ち込み、接近させるな」
 だが、とカクタスは口を挟む。「相手は距離を取っての戦いにも長けている」
「そうだ。だから君は弱点をつけばいい」
 弱点、とラピスは疑わしそうに問う。そんなものが明確にある相手など、これまでの仕事で出会ったことがないと。
「ガーネットは女を殺せない」
「そう。だから彼女の攻撃は、君を無力化させようとするものになるだろう。そこを突くのさ」、アジサイは心底愉快そうに笑うと、「愚かだろう」とねっとりとした声で訊ねた。
「具体的にはどうすれば」
「距離をとっての戦いで仕留められなければ、徹底的に相手の懐に潜り込むんだ。捨て身の攻撃だね。急所は守らないでいい。相手が勝手に加減してくれるから」
「そううまくいくでしょうか」とラピスはアジサイではなく、カクタスを見つめて言った。
 カクタスはふっと笑みをこぼすと、「お前の実力なら心配ない」と肩を叩いた。
「自信がないかい。なければ、別の者に任せるが……」
 いえ、とラピスははっきりと首を振って、「ガーネットの始末は私にお任せください」ときっぱりと言うと、踵を返して事務所を出て行った。
「だが、殺してもいいのかい。ガーネットが榎田から情報を聞いている場合も……」
 カクタスは椅子の一つに腰かけると、片膝を抱えて座った。
「下流を浄化しようと効果はない。水源から流れる毒をどうにかしない限りはな」
 なるほど、とアジサイは笑って眼鏡を押し上げる。
「榎田の上、情報の発生源を狙うのか。じゃあ、ガーネットを始末するのは」
「仕事をとられたのは事実だ。落とし前はつけないとな」
 ふうん、とアジサイは関心を失ったように言って、扉の方を眺める。「ラピスは勝てると思うかい」
 カクタスはその深く濃い闇を内包したような目でアジサイを一瞥し、椅子から立ち上がる。
「弱点を突いてなお勝てんのなら、その程度だったということだ」
 冷たいねえ、と言うアジサイの声に、「この業界に冷たくない人間などいるか」という冷笑を返す。
「ところで、矢崎秋奈は見つかったのか」
 カクタスの問いにアジサイは下唇を突き出して渋い顔をし、「だめだね」とかぶりを振った。
「街の出入り口になるところは人員を割いて張らせているが、矢崎秋奈が出た形跡はない。つまりまだ街の中に留まっている。理解できないけどね」
 アジサイは肩を竦める。
「奴はすぐにでも国に帰りたいはずだ。だがそうしない。まだこの街で何かしようとしているのか?」
 腕を組んで考え込んだカクタスを眺めて、分からないね、とアジサイはため息を吐く。
「探偵の方はどうなんだい」と茶化すようにアジサイが訊く。
「期待はしていない。矢崎を焚きつけるための駒のようなものだからな。もう役割は果たしてもらった。後は放っておいていいだろう」
 なるほどね。アジサイは手を頭の後ろで組んで背もたれに寄り掛かる。「長時間デスクワークをしていると肩も腰もこる」
「久しぶりに現場に出たらどうだ」
 冗談、とアジサイは大口を開いて笑う。「ブランクありすぎて、すぐ殺されちゃうよ」
「それより矢崎、本当に秋奈と接触するかな」
「してもらわねば困る。そのための探偵だったのだからな。盗聴は抜かりないか」
 ばっちり、とアジサイは親指を突き出す。
「よし。なら俺は仮眠をとる。三時間経ったら起こしてくれ」
 カクタスは応接用のソファに深く腰をかけ、腕を組んで俯く。
 ガーネットの始末と、矢崎秋奈の捜索。そのどちらも、三時間の睡眠の間に片がつけばいいが、と考えて、都合よすぎか、と自嘲して笑み、カクタスは眠りに落ちていく。

〈続く〉


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