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件の如し(第6話)

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■本編

6、アキとクロダ
 人の体臭と、生ごみが腐った臭い、それから流れ出た汚水で淀んだ川の水の臭い。
 クロダは顔を顰めてアキを眺めた。アキは一瞬だけ不快そうな顔をしたものの、すぐに何も感じていないような顔を作ってクロダを一瞥した。クロダはその視線に恥じ入り、俯いて顔を作った。
 橋の下には段ボールやビニールシート、それから廃材と思しき木材で作った小屋が林立していた。橋脚に立てかけるようにして、行政が設置したであろう、ゴミの不法投棄や土地の占拠を戒める看板が置いてあったが、杭の先端は土の跡がついていた。恐らく誰かが邪魔で引っこ抜いたのだろう。
 さて問題は、この中のどこにドクさんとやらがいるかだ、とクロダは腕を組んで思案した。動物探しの名人であるドクさんに頼んで、早急に犬、ツェーザルを探してもらう必要がある。そもそもあの犬は、とクロダはツェーザルの姿を思い浮かべる。なまじ賢いだけに、逃走する知恵をつけてしまった。自分は反対だったのだ、とため息を吐く。知恵があるとはいえ、犬風情に自分たちの命運を託すことに。
「クロダ、今は余計なことを考えないで」
 思案に耽ってしまっていたことに気づき、「申し訳ありません」と謝ると、林立する小屋群の中へと足を踏み入れて行く。アキはその後ろからついてきて、油断なく小屋を観察している。
 見られている、と敏感にクロダは感じた。体内に入ったウイルスを免疫機能が即座に察知する如く、この小屋の住人達も、異物であるクロダたちを察知し、息を殺してその動静を見守っていた。
「アキさん」
 クロダが振り返って名前を呼ぶと、アキは頷いた。
 すうとクロダは大きく息を吸って、「ドクさんはいるか。犬を探してもらいたい」と大声で呼ばわった。橋桁に声が反響し、それに応じて幾人かがビニールシートの隙間から顔を覗かせたが、すぐに引っ込んだ。
 しばらく待ってみて、顔を覗かせる者も途絶えたので、クロダは肩を竦めて踵を返した。すると、アキの後ろに小柄な老人が立っていて、「あんまりでっけえ声出すんでねえよ」と小指で耳をほじり、とれたカスを口で吹いて飛ばし、黄ばんだ歯を見せてにっと笑った。
「あなたは?」
 アキが訊ねると、「おめえたつがお探しのドクさんたあ、わしのことよ」と湾曲した腰に手を当てながらやっと歩いているような感じで、風呂桶を小脇に抱えて二人に手招きをする。
 アキとクロダが顔を見合わせると、ドクさんは「話聞いちゃる。こっちゃ来い」と手招きして歩いて行く。
 小屋群の中ほど、橋脚にぴったりとくっついた大きな小屋がドクさんの小屋らしかった。ドクさんはその中にさっさと引っ込んでしまい、アキとクロダは頷き合って、まずクロダから中に入る。
 中はそれなりに広かった。さすがに点いてはいないが電池式のストーブがあり、ミネラルウォーターや缶詰、カップ麺の類が橋脚を壁にして山積みにしてあり、卓上のガスコンロもあった。小屋の隅には雀卓まで置いてあり、その上には麻雀牌が散らばっていた。きっとこの橋の下の住人の貴重な娯楽なのだろう。
 クロダは中ほどまで入ると、ドクさんに勧められて座布団の上に腰を下ろし、後から入ってきたアキもその隣に腰を下ろした。
「いいとこでよ。夏なんかこの橋脚が冷やっこくてよ、わしゃあこれを抱いて寝るんでな。するとわしも上を走る電車を支えとる気がするわけでな」
 はあ、とクロダは曖昧に相槌を打つと、ドクさんは気をよくして自分がこの橋の下に住み始めた一号だとか、いかに麻雀が強いか、追い出しにやってくる行政とどうやり合っているかなどを得意げに話しだすので、その勢いにクロダは押されて「はあ」とか「それはまた」などと会話を受け流すに流せず困り果てた。見かねたアキは音高く咳払いをする。新幹線がごうごうと橋の上を走っていく音が響き渡り、アキの咳払いとその音にドクさんも正気に返ったようだった。
「いかんいかん。見たこともねえ別嬪さんたちが来たもんでよ、ついいらねえお喋りをしちまったよ」
 ドクさんは掌でその半ば禿げあがった頭をぴしゃりと叩くと、ひょうきんに笑った。
「そんで、犬探しっちゅう話だが」
 ドクさんはずいっと膝を乗り出してクロダに顔を近づけるので、ドクさんの体から立ち昇る、据えた臭いにクロダは苦笑し、体をのけ反らせる。
「この子なんです。見たことありませんか」
 アキはポケットから写真を出すと、クロダの肩越しにそれを差し出し、受け取ったドクさんは「ほうほう」と梟が鳴くような声で頷いて、写真をじっと見た。
「見た覚えがあるでよ」とドクさんは写真をアキに返す。
「本当ですか」とアキとクロダの声が重なる。
「おうよ。多分三日前くらいだったかな。街外れで見たのは」
 クロダはスマートフォンを出してマップで街の全体図を出すと、「どの辺ですか」と今自分たちがいる地点を指さして訊いた。
「今はスマートフォンっちゅうのでなんでもできて便利だのう。わしらにも一台ずつほしいもんじゃ。まあ、エロ動画かなんか見て終わっちまうだろうがの」
 がはは、と膝を打って自分の言葉に笑い転げていると、アキが痺れを切らしてどこです、と鋭い口調で訊ねる。そこに含まれた響きに刃に白露が滴るような瑞々しい殺気を感じ取って、ドクさんもぎょっとし、「いかんいかん」と今度は後頭部をぴしゃりと叩いた。
 この辺だったのう、と地図と睨めっこをしたドクさんは街の西端を指さす。そこは昔市場として使われていた施設がある辺りであり、その後倉庫として使われたが、結局は活用できず、廃墟になってしまっている地点だった。
「しっかし不思議な犬っころだったのう。わしは犬に懐かれなかったことなどこれまでないが、その犬っ子はわしが呼んでも近寄らねえで、警戒して逃げてった。こんなことは初めてだがよ」
 ツェーザルは警戒心の強い犬だった。それはそう仕込んだのだから、ドクさんに懐かなかったのは当然と言える。けれど、それが徒と出るとは、とアキは唇を噛んだ。
「その辺りをまだうろついているでしょうか」
 クロダはアキを振り返りながら訊いたが、クロダ自身にもその可能性が限りなく低いことは分かっていた。
「いんや。話は最後まで聞きねえ」
 ドクさんは手をズボンの中に突っ込んで、下腹部をぼりぼりと掻きむしる。クロダは口角が痙攣したように引き攣るのを感じながらも、「続きがあるのですか」と訊ねる。
「おうさ。その犬っころ、昨日も見かけたでよ」
「昨日」とアキはクロダの両肩に手を突いて身を乗り出す。
「おう、ほれ、地図のこっちにある、この公園のところでよ」
 ドクさんはズボンから手を引っこ抜いてその手でスマートフォンに指をつけるものだから、さすがのクロダも「ひっ」と息を飲んでしまった。
「いたんだがよ。それが不思議なことに、えらーい別嬪さんと一緒にいたんでよ。それも紐も何もつけずに、ぴったりと寄り添ってな。わしに懐かんのによ。不思議なこともあるもんだと見ておったら、その別嬪さん妙に勘が鋭くてよ、わしに気づいて怖い目で睨んできたので逃げちまった。いやあ、別嬪さんだが、ありゃあ怖いお姉ちゃんだな」
 クロダは地図を閉じて、お絵かきアプリを起動すると、胸ポケットからタッチペンを取りだし、「その女の特徴は」と訊ねる。
「ううん、そうさなあ……」
 ドクさんは思い出しながらクロダに特徴を告げていき、クロダはその特徴に応じた似顔絵を描く。似顔絵はクロダの得意とする技だった。警察が作るモンタージュに匹敵する精度で描くことができる、と自負していた。
「どうだ」と描き上がった絵をドクさんに見せると、「おう、おう。ちいっとでふぉるめされとるが、こんな感じの別嬪さんじゃったわい」と手を打って喜んだ。
 アキも覗き込んで、「この女と一緒にいる」と呟いて、クロダと顔を見合わせて頷く。
「感謝する。これは情報料だ」とクロダは財布から一万円札を抜いてドクさんに差し出す。ドクさんはそれを恭しく捧げ持って、「今晩は宴よ」と二人に向かって手を合わせた。
 二人はドクさんの小屋を出て、土手に上がった。
「ツェーザルが懐くなんてね」
「どんな手を使ったんでしょうか」
 さあ、とアキは肩を竦めてみせて、「その女を見つけないとね」と街の方を眺める。
「街を出て行った可能性は」
「あるでしょうね」とアキは首を振って、「そうでないことを祈るしかないわ」とため息混じりに言う。
「二手に分かれましょう」
 アキがそう言うのでクロダは怪訝そうにアキの顔を見つめる。「確かに効率的ですが」
「わたしはこの街で顔が割れてるから。昨日みたいなことにもなりかねないし。はっきり言ってそれって時間の無駄でしょ」
 まあ、そうですね、とクロダは頷く。
「クロダはその女を追って。わたしはその間用事を片付けて置く」
「用事、ですか」
 そう、と頷いて、アキは声を潜める。
「榎田が始末されたことで、カクタスは躍起になってるはずよ。そうすると身が危ない人が出てくるでしょ」
 なるほど、とクロダは得心がいったように頷き、呟くように言う。「外務次官」
「忠告は、してあげないとね」と目配せする。
「合流は明日のこの時間。場所はそうね、ツェーザルが目撃された公園にしましょうか」
「了解」とクロダが頷くのを見て、アキは東の方へと歩いて行く。そちらには駅がある。ここから東京まではさして長旅とは言えないが、電車嫌いのアキさんには辛い道行きだろうな、と思い、いや、それよりこちらはこちらだ、とクロダは両手で頬を叩いて気合を入れ直し、走り出す。
 まずは公園に向かおうとコートの裾を翻しながら走り、クロダは道行く人の顔をよく観察する。犬を連れていなくとも、妙齢の女性は逃さず見る。ツェーザルを常に帯同しているとは限らない。
 人通りの多い大通りを通るが、該当しそうな女は見当たらない。犬を連れた女、であればいるのだが、犬の犬種も違えば、女も似ても似つかない。そう簡単には見つからないか、とクロダは苦笑する。
 街を東西に貫く大通りだが、人通りが多いエリアには限りがある。工場地帯やオフィス街に入って行くと、繁華街ほどの人通りはない。クロダは繁華街に絞って道を行き、店に入って店員に似顔絵を見せて確かめるものの、有力な情報は集まらない。
 腹が減ったな、と思って小休止するか、とすぐそばにあったラーメン屋に入る。食券制で、クロダは醤油ラーメンと餃子のボタンを押して券を取り、席に着く。若い、威勢のいい店員がクロダを眺めて面食らって、見とれているのをため息を吐きながら券を渡し、「急ぎで頼む」と告げる。店員は頬を赤くしながら、「へ、へい」と揉み手をしながら下がった。
 しまったな、白いコートだった、と思いながらも、クロダはコートを脱ごうとはしなかった。あり得ない話ではあるが、この店の中に刺客がいないとも限らない。死とは、そのあり得ない事象を軽んじたがために巻き起こるものだとクロダは信じていた。
「この間さ、すっげえ美人を見たんだよ」
 クロダの隣に座っていたサラリーマン風の男が、クロダを見て思い出したのか、その横に座る同僚であろう若い男に向かって言う。
「へえ、どんな」
「いやさ、ショートカットで、目が大きいんだけどちょっと吊り上がっていてさ。強気そうなんだけど滅茶苦茶顔が整ってるんだよ。芸能人? って思ったけど、見たことない顔だったし、地味目な服着てたし。芸能人ってさ、私服もすごいんだろ」
 そんなことないだろう、と同僚の男は話半分で聞いている。
「声かけたんだよ。こんなチャンスないと思ってさ」
「うっわ、勇者じゃん」
 だろ、と得意げに鼻の下を擦った後で、男は自棄になったように勢いよくラーメンを啜る。
「玉砕したわけか」と同僚は呆れたように言って、唐揚げをかじる。
「言うな。だってよ、その女、俺が一生懸命口説くのを黙って一通り聞いてよ、『言葉は、登るのが下手な登山家であり、掘るのが下手な採掘者だ』とか言ってさ」
 なんだそりゃ、と同僚は首を傾げる。
「俺もそう言ったんだよ、なんすかそれって。そうしたらさ、『カフカがそう言っている。わたしもそう思う』とか言ってすたすた行っちゃうんだもんさ」
 へい、お待ち、とクロダの前にラーメンが差し出される。クロダは割り箸を取って割り、手を合わせた後で、「その後に続く言葉を知りたいか」と隣の男に訊ねる。
「え、は、いや、まあその」と男はどぎまぎして、助けを求めるように同僚に「この人もめっちゃ美人じゃね」と言った。
「『山の高みからも、山の深みからも、宝をとってくることはできない』だ。つまりお前の言葉では何も勝ち取れないということだ」
 ええー、と男はショックを受けたようににやついていた笑顔を引きつらせる。
 クロダは閃くものがあって、スマートフォンの似顔絵を男に見せる。「その女、こういう女じゃなかったか」
 男は画面をじいっと見て、はっとすると手を打って、「そうです。この人です」と画面を指さす。
「どこで見た」
「えーと、あ、商店街です。アーケードになってるとこ。ちょっとした広場になっているとこでその人、休んでて」
 感謝する、と言うとクロダはラーメンに取り掛かる。
 あっという間に食べ終わると、呆然とした男たちに、「ナンパもほどほどにな。でないと痛い目を見る」と言い捨てて店を出る。
 クロダは地図を見ながら大通りから外れて商店街に入り、アーケードのある通りまで向かう。細い道を通って行くので人とすれ違うことはあまりないが、車が頻繁にやってくるのが鬱陶しかった。どうやら抜け道になっているようだ。鬱陶しいが、クロダはその優れた動体視力で車の中を逃さず捉え、件の女が乗っていないかを逐一確かめた。
 アーケードまでやってくると、人通りはまばらで、どちらかというと高齢者が多い。大通りを挟んで北側には大型のショッピングモールがあり、若い世帯はそちらで買い物を済ませるようだから、足がない近所の高齢者などが、中心になっていくのだろう、と古いものが寂れ廃れていくのは世の常だな、ともの悲しさを感じつつ店を見て回る。
「カフカを引用する女、か」
 クロダは書店の前で立ち止まると、ぼんやりと店を眺める。いつだったかアキさんが言っていたな、と思い出す。「書店は出会いのきっかけが落ちているの。わたしも夫とは書店で出会ったんだから」と得意げに言っていたが、まさかそんなことが、と思う。店先にはツェーザルはいない。連れていれば、繋いでおくはずだろう。
 クロダが自動ドアをくぐって中に入ると、店主が困ったように、「ちょっと勘弁してくださいよ、お客さん。うちはペットの連れ込みは厳禁なんですよ」と禿頭を擦っている。
 店の奥、カウンターの中で声を上げている店主と、それを聞いているであろう女。その足元には犬。
「ツェーザル」と思わず叫び出しそうになって、クロダは声を抑えて本棚の影に隠れ、様子を窺う。
「ペットじゃないわ。勝手についてくるの。わたしが困っているくらいよ。そこまで言うなら、あなたがこの子、どうにかしてくれる」
 女、ガーネットが冷ややかな声でそう言うと、店主も困ったように頬を掻いて犬を覗き込み、それに反応した犬がけたたましく吠える。
「わたしはただ本を買いに来ただけ。わたしの与り知らない犬のことであれこれ言われるのは心外だわ」
「わ、分かった。売るから。売るからさっさと連れて帰ってくれっ」
 店主は悲鳴を上げるような甲高い声で叫ぶと、彼女の手から文庫本をひったくって、レジを打ち始めた。
「だからうちの子じゃないんだってば」
 ガーネットは不服そうに呟くが、金を支払って文庫本を受け取り、それを洋服の量販店のロゴが入った紙袋に入れて出入り口の方へ向かってくるので、クロダは慌てて本を引っ張り出して読んでいるふりをして様子を窺った。
 ツェーザルはクロダに気づく素振りもなく、ガーネットの後ろを忠実について歩く。女に懐いているのは本当らしい、とクロダは驚嘆の眼差しで眺めた。
 ガーネットが店を出て行って、クロダは手に持った本を棚に戻しかけて、それが「初めての妊娠・出産」という実用書だったことに気づき、赤面しながら本を棚の平台に叩きつけ、慌ててガーネットの後を追った。
 ガーネットは南北に伸びるアーケードを北方向に向かっていた。
 彼女にツェーザルは懐いている。だが、彼女の方では疎ましく思ってもいるようだった。なら、素直に言えば渡してくれるか、とクロダは考えたが、その交渉が失敗したときのリスクも考え、このまま尾行して住処を掌握しておくのも悪くない、と思い直す。
 クロダも尾行は不得手ではない。これまで数えきれないほどしてきた。だが、ガーネットは尾行しづらい相手だった。頻繁に立ち止まり、振り返る。それもツェーザルを気遣うような素振りで振り返るものだから、予備動作がなく読みづらい。
 クロダは苦心しながらも後をつけ続け、大通りに出て西進し始めたところであれ、と訝しく思い、住宅街からはどんどん離れて行くぞ、と疑念が警戒心に変わる。やがてガーネットは廃棄された市場の跡地に、黄色と黒の通行不可を示すロープをくぐって入って行き、その先にある曲がり角に姿を消す。
 間違いない、気づかれている。
 クロダは息を飲んでロープをくぐり、ガーネットが消えて行った角まで足音を殺しながら駆けると、廃墟の壁に背をつけて、曲がり角の先を窺う。
 いない。
 曲がり角の先をしばらく行くと十字路になっており、さらに直進すると市場で競りなどを行っていた大きな建物に辿り着く。両脇のそこそこの大きさの建物は今は倉庫で、空っぽの木箱や、誰が置いて行ったか分からない段ボール箱の山、果ては壊れたコンバインなんかも置いてあった。
 クロダは警戒しつつ十字路まで進み、左右の道を窺う。すると左側の道にツェーザルがうろうろしているのを見つけ、ツェーザルが女に忠実に突き従っていたことを思い、そちらか、と一歩を踏み出す。
 だが、それ以上は進めなかった。背中に無数の剣山を突き立てられたような殺気を感じ、次いで首筋にひやりと冷たい鉄の感触を覚えて、クロダはぴたりと立ち止まった。
「あなたは誰? わたしをどうして追いかけ回すの」
 ガーネットの声は首筋の刃よりもなお冷たかった。それなのに身を貫くような殺気は焼けつく熱さだ。
 素人じゃないどころか、同業者か。
 クロダは小柄な体躯を生かして小円を描くように足を捌き、ガーネットの胸元に肘を打ち込もうとするも、ナイフを持った手とは反対側の手で受け止められ、ナイフがくることを察知したクロダは後方に宙返りして避ける。着地して見ると、コートの裾が僅かに切れていた。
「その身のこなし。同業者ね」
 そう言った瞬間、ガーネットの姿が消えた。いや、消えたのではない。小柄であったからこそクロダには分かったが、恐ろしいまでの柔軟さで身を屈め、死角となる低い位置から接近し、攻撃を仕掛けようというものだった。
 ガーネットは近づくと、体をばねのようにして跳ね上がり、右足で回し蹴りを放つ。見えていたクロダは対応して、蹴りを腕を固めて守り、受け止めて、ガーネットの動きが止まったところで足首を掴んでへし折るつもりだった。だが、足首に触れた瞬間、ガーネットは軸足で地面を蹴って浮かび上がり、左足でクロダの側頭部を、死神の鎌で刈り取るように蹴り飛ばそうとするが、クロダはその一撃も辛うじて腕で防御したものの、吹き飛ばされる。
 クロダは弾かれたものの着地し、体勢を整えて追撃に備えるが、追撃はなかった。
 ガーネットは心底驚いた、というように目を丸くしてクロダを見つめていた。
「今のは昏倒させるつもりで蹴ったんだけれど」
「目論見通りいかなくて済まないな」
 クロダは顎を伝って落ちる汗を手の甲で拭う。汗と冷や汗が半々だ。と内心で舌を巻く。まるでアキさんを相手にしているようだ、と考えると、一瞬の油断が命取りになる。まさかそこまで緊迫した戦いを強いられようとはな、と苦笑する。
「あなた、結構強いのね」
 今度はガーネットは爪先で地面をリズミカルに蹴って接近してくる。まるでバレエダンサーが爪先で跳ぶのに似ていたが、速さはその比ではなかった。あっという間に近づくと、左足がしなって襲い掛かってきて、クロダはそれを受け止める。だが足を掴む間もなく、先ほどと同じように軸足で地面を蹴って浮かび上がるかと思うと、右手を軸にして低い位置に留まり、そのまま右足で足を払うように蹴ってくる。後方から迫る足を、クロダはバランスを崩しながらも跳んで躱し、後ろに尻もちを突く。
 クロダは咄嗟に飛びずさって避けると、そこに無造作に蹴りがくる。ほとんど勘で躱したものだったが、ガーネットは軸足を踏み直し、返す蹴りの踵でクロダの側頭部を狙う。アキさんの得意技と同じと考えると、クロダはここしかない、と前に踏み込む。ガーネットの顔が強張る。
 踏み込んで、蹴りの力が収束する一点、踵を避けられれば、後は恐ろしくない。クロダはガーネットの蹴りを彼女の足の付け根で受け止めつつ、股関節を脱臼させようと太ももに腕を回す。それを察したガーネットは左足で地面を蹴り、体を無理矢理捻って遠心力を発生させ、左足を鞭のようにしならせてクロダの後頭部に叩き込む。クロダは腕を離してしまったものの、一撃は無理な体勢から放たれたので、クロダをよろめかせるに留まった。
 ガーネットは着地し、右足を軽く振って違和感がないか確かめる。外せなかったか、とクロダは舌打ちして、肩で息をする。まだそれほど攻防で動き回ったわけではないにも関わらず、この疲労感はどうだ、と思う。一方のガーネットは息を切らせた様子もなく、涼しい顔をしている。憎たらしくなるな、とクロダは自嘲して笑う。
「人間にはね、二つの大罪がある、とカフカは語っているわ」
 ガーネットはゆらりゆらりと近寄ってくる。いつ来るか、と待ち構えてもガーネットは迫って来ない。歩いてきているのに、ずっと遠くにいる感じがする。なんだこれは、とクロダは頭を振って、ガーネットのまやかしか、それとも自分の怯懦な心が見せているのか、と歯噛みして、ガーネットに向かって駆けだす。
「一つ目の大罪はね」
 ガーネットはナイフで斬りかかり、その腕をクロダは腕を交差させて守り、受け止めて、すかさず手を肘に添えて反対方向に折ろうとする。
「あせり、よ」
 クロダが肘を折ろうとした刹那、ガーネットはクロダに掴まれた腕を軸にして跳躍し、空中で高々と逆立ちした。軸になった腕も回転したことでクロダの目論見は露と消え、その代わりにガーネットが落下ざまにクロダの左肩に蹴りを放ち、地面に両手を突いて一回転し、着地する。
 蹴りを見舞われたクロダは左肩が脱臼してしまったようで、呻きながら膝を突き、ガーネットを睨みつけていた。
「二つ目の大罪も教えてあげようか」
 舌打ちしてクロダはやぶれかぶれでガーネットに突っ込む。
 ガーネットはくすくすと笑って、「まさにあなたは大罪を体現した人間だわ」と目にも止まらぬ速度で右足を振り抜く。
 クロダは防御して踏み込もうと左腕を上げようとして、脱臼していて上がらないことを思い出し、自分の迂闊さと愚かさにはらわたが煮えくり返りそうになる。
「もう一つの大罪はね、なげやり、よ」
 ガーネットの蹴りがクロダの頭をはっきりと捉え、頭を蹴り抜かれたクロダは右方向に吹き飛んで転がり、建物の壁に背を打ちつける。
 意識が朦朧とした。かなりいい一撃をもらってしまったらしい。だがここで立ち上がらなければ、意識を失えば。暗殺者同士の戦闘で、それは死を意味する。
 ガーネットはゆっくりと歩み寄り、クロダの顔を覗き込みながらしゃがみ込む。
「でも実はね、カフカは大罪は一つだと考え直しているの」
 カフ、カ、と砂埃が巻き起こり、顔を覆うのを払う気力すらなく、クロダは呟く。
 自分が橋だという物語があった気がする。そこに旅行者か何かがやってきて、杖で突き回されて、何者か確かめようとして橋は振り返ってしまった。だから橋は崩れ落ちてしまった。
 橋と言えば、ドクさんのいた小屋群はひどい臭いだった。あんな臭いを足元でさせられていたら、橋とて振り返るのではなかろうか。カフカの物語のように。
 橋は己の分を超えて振り返ってはならなかったのだ。自分もまた。振り返ってガーネットに挑むという愚を犯すべきではなかった。だから、自分という橋は崩落して、今大地に這いつくばっている。交渉すべきだった。穏便に。それでだめなら退いて、アキさんと二人で挑むべきだった。
 意識が薄れゆく。ガーネットが愉快そうにだが押し殺した笑い声を上げる。
「それは、あせり。あなたも同じ。あせった瞬間、こうして倒れることが決定していた。カフカの言うことに間違いはないわ」
 クロダの瞼が閉じられていく。だめだだめだと抗いつつ、己が犯した罪と己の愚かさを思い、意識が暗い闇の淵へと沈んでいく。

〈続く〉


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