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【感想レポ】3/6「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」千秋楽を観て、生きることへの畏怖と希望を感じた。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ
3/6 千秋楽を観に行って参りました!

非常に人気の公演、その千秋楽を観劇できること、大変に有難い!!
今回はその感想を書きたいと思います!
※完全にネタバレあり&あくまで、私という人間の「個人の感想」である、ということをご理解ください!

実は今回、観劇するのには相当の勇気が必要だった。

というのも、私の「セクシュアリティ」はヘドウィグ達と同様に、一般的にセクシュアルマイノリティと呼ばれるものであり、私自身がヘドウィグにダイレクトに重なるからだ。

性転換手術や同性との恋愛シーンに関しては、特に自分の経験と重なって、観劇中にモヤモヤしたり、辛くなったりする可能性がかなり高いと予想していた。

しかし、そんな予想を遥かに超えて、終演後の私は、ヘドウィグに「畏怖」と「希望」を感じていたのだった。


▶観劇に至るまでの2つの不安

開演までの話なので、本編の感想が知りたいよ!という方は飛ばしてOKです。

「丸山隆平(以降、丸ちゃん)が、ヘドウィグ役だって!」という話が耳に入った時、嬉しさと同時に不安が込み上げた。

私は映画でしか「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」を観たことは無かったが、舞台好きなら誰でも知っているあの作品である。

それを丸ちゃんが……!

演技力、歌唱力などなど、技量が問われることは当たり前。
(しかもジャニーズだと、「所詮ジャニーズだから」とちゃんと観てもらえない&ヲタクとの馴れ合いになる可能性が高い……!)

そして何より、演技力や歌唱力の技量だけで誤魔化せるような役ではない。

丸ちゃんが器用で繊細で、何でもできるスーパーアイドルなのは知っているけれど、その器用さや技術力だけでは敵わないのだと、高次元のハードルを感じた。

映画鑑賞のみのエンタメ好きでもそう思うのだから、ヘドウィグファン(通称、ヘドヘッズ)からしたら、「このキャスティング何事!?」だったのではないだろうか。

この「難役への挑戦」と銘打たれた不安と同時に、私はそもそも観劇できるのか不安になった。

こりゃ倍率高くてチケット取れないんじゃないの!?ということではなく、(それももちろんあるが、)「絶対に観たい!……けど、耐えられるだろうか」という気持ちの問題である。

近年、マイノリティにフューチャーした作品が多く見受けられる。

そういったものを「ポリコレ」として「エンタメ消費」されることには違和感があるし、普段は気にしないようにしている自分自身の性の不安定さにも直面させられるため、このパンチを生で食らう恐怖に耐えられるのか。心底不安になった。

が、作品は観たい!!!
ヲタク心は誰にも、不安にも止められないのである!

覚悟して観劇しようと決めた。
その覚悟が伝わったのか、大変有難いことに千秋楽のチケットが当選したのである。

▶本編

1曲目「TEAR ME DOWN」でスタート!

うぉ〜!まさにヘドウィグのライブに来たんだ!と一気に気持ちが盛り上がる。

丸ちゃんのヘドウィグが出てきた時、「マジでヘドウィグだ!」とテンションアップ。
ロケンロールしてチャーミングな丸ちゃんは、もはや丸ちゃんというよりもヘドウィグだった。

私の舞台、私の曲、私自身を見て!
私だけを見て!

そう言われているかのように、上手下手へ移動するキュートで力強いヘドウィグを、とにかく追いかけた。すでに虜。

そして、物語に関しては、映画版しか観たこと無かったので、どういう風に進めていくのだろう?と思って観ていたけど、下手側のドアを開けるとトミーの歌声が漏れ出る設定や、ヘドウィグの一人語りで進んでいき、「なるほど、こうやってライブを保って進んでいくのね」と納得。

ただ、初見には厳しい構成なのかな〜とは思った。


2曲目「THE ORIGIN OF LOVE」
ヘドウィグの幼少期。母親から聞かされたプラトンの愛の起源について歌われるこの曲。

この「THE ORIGIN OF LOVE」が、ヘドウィグのカタワレ探しの旅の始まりとなるわけだけど、私は映画版の時からこの曲がちょっと苦手である。

神々が稲妻で人間を引き裂く部分で凄く胸が苦しくなる。
ちょうど歌声も荒ぶる神様のうなり声のようになり、映画版でも出てくるハンセル少年が描いたちょっぴり不気味なイラストが、ヘドウィグの背後にずっと映し出されていて。

私もハンセル少年くらいの歳から、自分の先天的な性や、社会に決められた性に違和感を抱き始めていて、周りの子が話す「恋バナ」とやらについていけず、誰かに恋をすることとはなんぞや?と思っていた。

この物語が正ならば、私は男でも女でもないけれど、カタワレに出会って初めて1つの完全な人間になれるということなの?

当時の私がこの物語を聞いたら、ハンセル少年のように受け止めて、ずっと心に引っかかりカタワレを求めて彷徨い出すだろう。

この物語は残酷だ。

カタワレは何者か?
それはつまり、私は何者なのか?を問われている。

完全体ではない私は何者なのか。

この後も観劇中もずっとそうなのだけど、思春期当時の身体の違和感や、かつての同性の恋人との出来事、そういったもの達がハンセル少年、トミー、ヘドウィグと重なって嫌でも私を駆け巡っていく。

自分が何者か分からず、これまでずっと苦しんできているから、この荒ぶる神々の仕打ちに怒りが湧いてくる。
何してくれてんだ!と震えて涙が出た。
まさかこの曲で泣くとは思わなかった。


3曲目「SUGAR DADDY」
ハンセルがアメリカ軍人のルーサーと出会い、甘い甘い権力の味を知る。

この曲は歌い出しで、すぐにハッとした。

POPでキュートな丸ちゃんの「アイドルらしい」可愛らしさが爆発していた。
いつも丸ちゃんがアイドル全開で歌うあの感じ。

それがこの曲とマッチしていると感じたのは、ただ単に「可愛い」からではない。

これは甘い誘惑。入ったら抜け出せない蜜の中。
POPだけどどこか毒々しく、ドロリと重い。
危険だと分かる本能と、それを知りたいと思う好奇心、求める本能が交じり合っていく。

東ドイツから抜け出すこと、資本主義を知ること、性の欲求を知ること、知恵を得る、得たいということ。
ハンセルにとって初めての甘すぎる誘惑の味。

それが甘い甘い「アイドル」という存在と重なって見えた。

こんなこと言うと誰かに怒られてしまいそうだけど、アイドルはまさにその「甘い部分」を提供する仕事なのだ。

特に丸ちゃんはそのアイドルの中でも、アイドルらしい甘さを武器にしながらも、その裏に垣間見える苦さ、影、デンジャラスな雰囲気があり、そういった二面性が彼の魅力であると思う。
(そんな丸ちゃんのギャップという”罠”にはまってファンになった人も多いはず)

丸山隆平というアイドル像が、可愛くて危険で、もっと求めてしまう、まさにグミベアのような存在なのかもしれない。

この曲の”罪深さ”を滲み出す可愛らしい表情と声に惑わされ、思わず息を吞んでしまう。
彼だからこそ生み出すことのできた魅惑だと感じた。

ちなみに後ろで踊るイツハク(この時はルーサー役のイツハクかな?)が、自分のモノを咥えさせようとする(ように見える)ダンスを絶妙なテンポで踊っていて、それがまたカラフルなグミベアと混ざって、危うくバッドトリップしかけた……。


4曲目「ANGRY INCH」
ルーサーとの幸せのため、渡米のための性転換手術にて残ってしまった「アングリーインチ」。ヘドウィグの物語に欠かせない1曲だ。

軽快で、怒りに満ちていながらも、楽しくノリのいい曲調が、そうでも思わないとやっていられないからなのか、ロックに昇華しているからなのか、不思議であり愉快なのである。

ウィッグがぶんぶん揺れる丸山ヘドウィグ。
まさにSHOWといった様子で、会場全体の盛り上がりも感じられた。

私もこの曲は大好きで、爽快かつノリノリになれるのだが、曲が曲だけに、「う~んノリノリでいいのかな?いいのだよね?」という、なんとも言えない気持ちになる。
私にはロックが足りないのでしょうかね……(笑)


続く、5曲目「WIG IN A BOX」
幸せかと思ったルーサーとの生活だったが、ルーサーは荷物持ちと出て行ってしまい、一人ぼっちになるヘドウィグ。

ベルリンの壁も崩壊し、「あぁ、なんだったんだろう、これまでの出来事は。」と、やりきれない気持ちでいっぱいになる。

でも、この曲は田舎っぽいどこか切ない感じも残しつつ、少しづつ前向きになれる一曲だ。

心地の良いサビは、本来なら一緒に歌えるのだろうけど、コロナ禍なので心の中で口ずさむ。

ここからはとうとう、ヘドウィグはトミーとの出会いを話し出す。
一人ぼっちになったヘドウィグが生きていくために、体を売ったりベビーシッターをしたりしながら生活を続けていく。

丸ちゃんがバカデカボイスで「フェrrrrrラよ!」と言うのが、個人的にはツボだった。下品なようでキュートなのが不思議。
「オ・ゲ・レ・ツ♡」って感じ? ヘドウィグだからだろうなぁ。

そういえば、開演直後にも、「凱旋公演ができたのは、ジョンに”お願い”したから」と言いながら、めちゃくちゃ口でしごいていたが、会場の半分はドン引きだった気がした。

丸ちゃんの妻たちにはちょいとキツかったかもしれない。

あんなにトミーの話はしたくない!と取り乱していたにも関わらず、トミーとの出会いを話し出すヘドウィグはどこか嬉しそうで、二人の思い出、幸せの感覚には嘘がないのだろうな、と感じられた。


6曲目「WICKED LITTLE TOWN」を歌うヘドウィグは、少年ハンセルから一気にお姉さんになったように思えた。

大人の余裕というと違うのだけど、思えば一つ壁を乗り越えて、人生を重ねてきたからだと分かる。

ヘドウィグのトミーへの愛には、「恋愛」だけでなく、「母性」のような、「家族愛」に近いものがあったように思う。
それは「無償の愛」に近いものだったのだろうか。

そして、自分を重ねていたのだろう。
ハンセルを救いたい。そんな想いもトミーへの愛へ乗っかている気がした。

そして、トミーがヘドウィグのトレーラーで、ヘドウィグを求めようとする。

愛の起源、”愛”を知る。

その瞬間に、ヘドウィグのアングリーインチを前に、トミーは怖気づいてしまう。

ヘドウィグがそのシーンを落語のように一人二役で説明するのだけど、このシーンが近づくにつれて、先の展開を知っているからこそ、ヘドウィグになんて酷なことをさせているのだろうと、観客として辛かった。

この話をしている最中に、ヘドウィグは何度も言葉が詰まったり、表情が曇ったりして。

でも舞台上では、”ヘドウィグ”として立つ以上は、それを見せまいと葛藤している様子がぐさりと伝わってきた。

それがあまりにも自然で、致し方のないことで、

今回、丸ちゃんが丸ちゃんではなく、ヘドウィグに見えたのは、まさにこういった部分であると思う。

演じていない、ありのままのヘドウィグがそこにいて、その複雑な感情が心を締め付けた。


7曲目「THE LONG GRIFT」が歌えず、その場にへたり込むヘドウィグ。
そこへイツハクが手を差し伸べ、ヘドウィグも手を取る。

と、突然、ヘドウィグが振り払ってしまう。

トミーに裏切られてもなお、トミーとの思い出は美しく、トミーのことを愛していた……愛している。

「あなたじゃない」

その手の振り払いが、ヘドウィグの哀しみであると同時に、イツハクの哀しみでもあった。

イツハクが曲の前半を代わりに歌う。
今までのあのトミーとの思い出について聞いていたら歌うどころか参ってしまいそうなのに。

なんなら今日に限らず、たびたび同じようなことを聞かされ、聞かされなくてもさっきのように態度に出たり、好きだからこそこの違和感に気づいたりしているだろう。
それでも歌うイツハク、あぁなんということだろう……。

そのあとヘドウィグが戻り、ツインボーカルになる。
歌唱後、ヘドウィグから「ツインボーカルでもいけるかもね」と言われたときのイツハクの表情といったら……

私は昔の恋人のことを思い出す。
イツハクの表情が、初めての同性の恋人だったあの人と重なる。

あぁ、そうだ。
私もトミーでありヘドウィグだ。

その時は今以上に自分の性が、自分が何者か分からなくて悩んでいた。
身体への嫌悪や周りの空気感がしんどくて、水泳の授業に参加しなかったり、修学旅行や合宿などでの入浴時間をずらしてもらったりしたことを思い出した。

いろんな壁があって、目があって、社会があって、システムがあって、それらは自分ではどうにもできないこともあった。

自分は一体何者なのか、誰が好きなのか、そもそも誰かを好きになれるのか、答えはよく分からなかった。

だから私は、自分の肉体、相手の肉体、その先天的な性があらわになるのが気持ち悪くなってしまった。
トミーがヘドウィグにしたように、自分と相手の肉体を拒絶した。

そして、恋人のことを好きなのではなく、同性のあなたと付き合うことで「何者」かになれている私が好きなのではないか、とハッと思った。

カタワレを探しているのは、本当の愛が知りたいからでもあり、本当の完全体の自分は「何者」なのかを知りたいから。

自分が何者かを知って安心したいがために、相手を振り回していたのではないかと思い、その相手に別れを告げた。
思えば自分勝手な理由である。ひどく傷つけた自覚がある。

トミーが怖気づいてしまったあの瞬間、先天的な身体のつながりに向き合うときの恐怖。

ヘドウィグがイツハクを縛り付けるような感覚。カタワレを追い求めるのは、自分が何者なのかを知るため、ある種何者かになるためでもあるということ。

あまりにもダイレクトに思い当たる節があって、自分と重なるのはもちろん、相手の傷つく顔を見ると、私の傷つけてしまったあの人の顔が重なってしまう。

ヘドウィグとイツハクのそれぞれの複雑な感情が、私を大きく揺さぶった瞬間だった。


8曲目「HEDWIG'S LAMENT」
9曲目「EXQUISITE CORPSE」
ヘドウィグの痛みが爆発して叫んでいるようだった。

そのあまりにも凄まじい爆風に、ただただ圧倒されてしまった。
観客として、完全に置いて行かれたようだった。

もちろん、「ああ、ヘドウィグはこういう経緯があり、こういう気持ちで、こう感じたからこそこうなっているんだ」というのは分かる。
でも、そういったものを超えてくるような暴力的な表現力。

もしかすると、歌っているうちにヘドウィグも何が何だか分かっていないのかもしれない。

そう感じるほど、歌が進むにつれてヘドウィグの姿かたちは何とも形容しがたいものになってしまった。
トランス状態だったのかもしれない。かろうじて歌っている、立っている。

イツハクのドラムも物凄かった。
一音一音が痛い。突き刺さる。

さすがドラマーとも思えるが、これもまた、さとうほなみさんがほなみさんではなくイツハクとなっているからこそ飛び出る叫びの音であった。

そしてヘドウィグは、すべてをさらけ出してぶつけて噴き出して、ウィッグをむしり取り、服を脱ぎ捨て、ありのままの姿になった。

急に演出の話をしてしまうが、その発狂状態から、次の「WICKED LITTLE TOWN」を歌うトニーに変貌したのが見事だった。

会場のライトの雰囲気も変わり、丸ちゃんもヘドウィグからトニーに切り替わり、「あ、会場が隣に移動した」と分かるものだった。

あんなに感情がむき出しになる展開のあとに、すぐトニーの役をやるなんて、なかなかに無理があると思う。この構成をやり遂げたのは凄い。

トニー、君は何を想うんだろう。
葛藤や後悔、若気の至りなんて言葉ではきっと許されない。

実は私も例の元恋人にずっと会えなかった。
会うことすら許されないことをしてしまったと思っていたから。

でもたまに楽しい思い出が夢に出てきて、「あぁ、本当に好きだったんだ」と今になって素直な気持ちを思い出す。

きっとトニーもヘドウィグのことを心から愛している。
それは本当だけど、それを今になって「本当に好きだったんだ」とは言えない。

それは、してはいけないんだ。

そう決意した表情で、それでその真意を「歌」で届けようとしているように見えた。

実際、この話ではトニーは「悪」として描かれている……というか、お客さんはヘドウィグのあれこれを見てきたから「トニー、お前なにやってくれてんだふざけんな」と思うだろう。

でも、トニーのあの表情と歌唱で、トニーの印象がガラッと変わるのではないかと思うくらい、それくらい彼のこれまで抱えてきた複雑な想いが見えたように感じた。

ちなみにトニー自体は「アイドルロック歌手」ということだと思うので、そこは現役アイドルがやれば……なんですが、これまでのトニーのデビューからの歴史に説得力ありました。

トニーの追っかけ女子が「一生!妻で!居続けま~す!!!」と叫んだ後に、大きな拍手が起きたのには笑った。丸ちゃんの妻たちの団結力!


ラスト「MIDNIGHT RADIO」
ここの構成も凄い。ウィッグと服脱ぎ取り乱しヘドウィグ⇒トニー⇒ヘドウィグの流れが見事!
丸ちゃんの演じ分けも良かったで

そして、イツハクにウィッグを被せてあげるヘドウィグ。
その表情にいろんなものが詰まっていた。
ヘドウィグ、そんな風に笑えたんだなぁ。

あの時、あれだけ固執していたカタワレという存在そのものを解放した。
ヘドウィグは、本当の意味で自分自身と向き合ったのだ。

そんなありのままのヘドウィグと、ドラッグクイーンに戻りいきいきとしたイツハクを見て、私は今までの観劇の中て初めての体験をした。

あの強さ、人間の美しさを目の当たりにして、到底まだその超越した存在になり得ていない未熟な自分を感じて、猛烈に苦しくなった。

ヘドウィグたちに自分を重ねてあまりにも感情移入しすぎたせいで、物語が”私の持たざるもの”を見せつけてきて、とんでもない落差が生じたのだ。

喉のあたりに張り付く違和感に「あ、やばい」と。
息苦しくて吐くほど咳をせねば治らない、過呼吸のようなの予兆を感じた。

これは畏怖だ。

私が悩んで悩んで苦しんでも、まだたどり着けていない場所へ到達したヘドウィグの、そのあまりにも光り輝く姿に焼かれて死んでしまいそうだ。

自分の中に「完全体」を見出したその姿に。

こんなラストの素晴らしいシーンでゲホゲホ咳は出来ないし、我慢して、本気でヤバそうだったら一旦退席しよう。冷静になろう。この物語から一度離脱しないと私が壊れてしまう。異物を吐き出さずに我慢したら瞼が痙攣して呼吸が苦しくなったが、気持ちを落ち着かせて何とか耐え抜いた。

ラスト、絶対感動しちゃうよ~なんて呑気に楽しみにしていたが、感動している余裕なんてこれっぽちも無かったのだ。

ヘドウィグに、生きるということの暴力をぶつけられた。


へとへとになりながら、カーテンコールを見た。
丸ちゃんは大きくお辞儀をして、マイクを通さずに「ありがとうございました!」と感謝を述べていた。

「千秋楽だから特別なのではなく、一公演同じ気持ちでやっている」というようなことを挨拶していた。

その実直さから、丸ちゃんは「ヘドウィグを演じよう」としたのではなく、「ヘドウィグを理解し、落とし込み、ヘドウィグになろう」としたのだと伝わってきた。

正直、今まで観てきた丸ちゃんのお芝居の中で一番良かったと思う。
演技が上手いというより、演技を超越していた感じがした。

技量で誤魔化していない、ヘドウィグそのものだった。

最後また「ありがとうございました!」と言って、ヘドウィグとして投げキッスして舞台をあとにした。

▶まとめ

①「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」は普遍的な人間の物語

今回、私は自分の「性」にまつわる感情がダイレクトにヘドウィグ達と重なって、この物語を自分の物語として受け止める場面が多々あった。

しかし、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」は普遍的な人間の物語である。

たまたまヘドウィグ達の大きな特徴の一つである「セクシュアリティ」という面で、私が似ていただけであり、決して”LGBT系作品”ではない。

「性別」「政治」「社会」「組織」・・・思えば、私が怒り震えた神々の仕打ちもそうだ。

人間の手ではすぐには変えられないような、何かによって生み出された決まり事。
何かによって定められた”ルール”で、私たち人間はみなどこかで苦しんでいる。

そして私たちは不完全な自分に気づいて、
私は「何者」なのか? カタワレはどこにいるのか? と、探し始める。

これは、誰にでも当てはまる物語なのだ。
だからこそ、世界中で愛されて続けている作品なのだと確信した。

②生きるということへの「畏怖」と「希望」

私は今回の観劇で「畏怖」を感じた。
前述のラストシーン、ヘドウィグが自分の中に「完全体」を見出した場面だ。

私は自分の「性」に違和感を抱いてからずっと紆余曲折してきた。

男か女かの二元論から脱したあとには、性自認と性的指向を考えて、「LとかGとかBとかTとかQ~とか(c.v.丸山ヘドウィグ)」いろいろあって、自分に当てはまるものを見つけてこれだ!と思っても、1、2年経つと違う気がしてきて……というのをかれこれ思春期から今日まで続けてきた。

最近、どれでもない気がするなぁと思ったり、そもそも「LGBT」と名前をつけることは「男・女」と分けることと変わらないんじゃないかと思ったり。

そして薄々気が付いていたけれど、「本当の自分自身に向き合うことの恐怖」からずっと逃げている自分がいて、それを今回の観劇でより一層確信させられた。

ヘドウィグがしたように私も過去を自由にしないといけない。

やっぱり私はまだ自分と向き合えていないんだという事実、あらわになりつつある自分の姿に立ち向かう恐ろしさがこみ上げる。

なんだかヘドウィグに、「あんたは若いからまだまだよ。もっともっと苦しむのよ」と言われている気がした。

でも同時に、ヘドウィグは「希望」を与えてくれた。
その身をもってして、自分自身と向き合い、認め、受け入れ、完全体となったあのありのままの姿に、「あんただってこうなれるのよ」と教えてくれた気がする。

私はヘドウィグに、「生きる」ことそのものの美しさ、力強さをぶつけられたのだ。


私もカタワレ探しの旅から、”完全体の自分”探しの旅へ一歩踏み出す時がきたのかもしれない。

私に深く残り続ける作品になったに違いない。

ありがとう、丸ちゃん!
ありがとう、ヘドウィグ!

そうやって感謝を感じた時、頭に浮かんだヘドウィグは、投げキッスをして、いじらしくも清々しい笑顔でステージを去る、丸山ヘドウィグの最後の姿だった。

🌈最後までお読みいただきありがとうございます

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