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異質を排除しない

自分にとって異質を感じる物事こそに、実は沢山のヒントがあったりする。これは、心のことを勉強していく内に、私が気づいたことの一つでもあります。

嫌なことを、反応のままにすぐに遠ざけてしまうのは実は勿体無いことなのかもしれない。本日はそのことについてのお話を噛み砕きながら、書いていこうと思います。


◯◯だから〜、◯◯らしくして〜という想い


他者との価値観の違いというのは、どうしても存在はするものです。
そして、そのことでヤキモキしてしまうことだってあると思います。

誰しも自身が信じて疑わない(当たり前)というものは、常にあり。

例えそれが、親であっても兄弟であっても、みんなそれぞれに違っているのだから、分かり合えない部分はどうしてもあります。

近しい存在にこそ、長く共に時を過ごす相手にこそ、自分を分かって欲しいと思うだろうし、それでも分かり合えないんだと嘆くこともあるだろうし。

親だから、子だから、兄だから、姉だから、弟だから、妹だから、
夫だから、妻だから、友達だから、先生だから。

何かの肩書きや役割を盾にして、どこかしらそのイメージで一括りに相手を見て、判断していってしまう

そして自身のイメージに反していると感じた瞬間に

「もっと配慮してよ。考えてよ。なんでちゃんと出来ないのかな」
「親らしく。子供らしく。兄らしく。姉らしく。夫らしく。妻らしく。先生らしく。してよ。」

何かしらを求めていったりもする。

でもね、「らしく」って何だろうと思ったんです。

それっぽく使うこともあるかもしれないこの「らしく」。
同時に「らしいかどうか」そのものさしを瞬時に装備しては、判断している。

「親なら◯◯をしてくれて当然でしょ」
「子供は大人のいうことを聞くもんだよ」
「年上は年下に優しくし、何事も譲りなさい」
「泣くなんて弱虫がすることだ」
「男なら強くありなさい」
「女の子なら家事は出来るようになりなさい」
「◯◯さんなら何でも知ってるし、しっかりしてるでしょ」

何かしらの思い込みがそれぞれに存在しているし、
でもそれを疑おうとはあまりしない。

そもそもなぜそう思うのか、その背景を見に行こうとしなかったりする。
本当にそうなのだろうかと疑いもせずに、ずっと偏った思い込みを抱いていたりする。

こうあるべきと思っていることがあると、そうではない現実に直面したら、嫌悪感からすぐさま裁きを下してしまうことだってある。

いい親じゃないよね
いい子じゃないよね
いい兄じゃないよね
いい姉じゃないよね
いい弟じゃないよね
いい妹じゃないよね
いい夫じゃないよね
いい妻じゃないよね
いい先生じゃないよね

でもその「いい」の基準を見ていったら、
現状の自分を脅かさない、
自分に「都合のいい人」そんな人じゃないよねってことが隠れていたりする。

「自分に都合のいい人じゃないと裁きを下す」
つまり、今の安心を維持する為に、都合が悪い=不快な事実に結びつくことは一切認めたくない、遠ざけておきたい。

だからこそ、そのいい悪いの判断をなぜするのかと、そこに何が隠れているのだろうかと、なかなか見にいこうとしない。

何か脅かされそうだから、遠ざけておく方が安心だ。
自分に都合が悪くなるだろうな。だから受け入れないでおこう。

いい悪い、正しい正しくないと延々と区別して寄せ付けないことを選んでしまう。

認めたら、自分が崩れてしまうかもしれないと思っているからです。


誰しも裁き裁かれの経験はある


私自身も色んな場面で、いい悪いの判断はされて来たし、あなたもそんな経験があると思います。
その度にいつも大ショックで。そして違和感と共にとんでもない怒りも湧いていました。もちろん、自身も同様にそんな判断から、相手に一方的に伝えていたこともあったなと反省をしました。

裁き裁かれの繰り返しが存在する。

でもこれってなぜだろう? そう考えたタイミングで上がってきたのが、今回ここに綴っていることになります。

ただただに自身の未熟さも、そして相手の未熟さ許せてはいなかったよね、と。自分にも相手にも内心怒りまくっていたよね、と。

人間、完璧ではなく、誰しもどこか未熟なものです。

そして、それぞれに未熟な面(苦手とすること)があることで、そこから気付きも生まれていく。

自分にも闇があるのだから、相手にも闇はあるだろうと分かり。
自身の闇を受け入れていくからこそに、相手の闇もありますよね、と理解していくことだってできる。


統合の旅路をゆこう


生きている間は、ひたすら統合の繰り返しだと私は思っています。

今、この記事を読んでいて、パッと顔が浮かんだ人や、憧れの人や苦手な人、何か反応をしてしまう相手がもし居るのならば、その人は間違いなくあなたのカケラを持っている人でしょう。

例えば、何らかのグループやコミュニティに属していて、その代表の方に何かしらの感情があったとしましょう。憧れなのか、頼りになる存在なのか。何か近くに行きたいと思ったり。評価されたいと思ったり。権威に対しての何かしらだったり。
そんな時って、自身の親をその方に投影して見ているのかもしれませんよね。だからよく見せよう、認められようと頑張ってしまっていたり。

はたまた、年上の近しい誰かの言動に対してムッとしたりイライラをしてしまったのならば、実はそれは自身の兄や姉にどこかしらで抱き続けてきた、伝えられず我慢し続けてきた、収まりきらない気持ちというのが刺激されているのかもしれませんよね。

もし、自身の子供ぐらいの歳の子に何か言いたくなったり、お節介をしたくなったのならば、それは自身の息子や娘を投影しているからかもしれませんよね。やってあげられなかった後悔の気持ちからだったり。恐れなどから、その相手を再びコントロールしたかったり。

達成し得なかった何かを埋めようとして、
または現状維持(安心)の為に
今その相手に対してのあれこれをしているかもしれない。

自身を知るヒントというのは本当に沢山あります。

回収しきれず仕舞いの「あなたの破片」というものは、こうして外部に投影されて、その存在をあなたに教えてくれる。
そして、いつからだってそのことへの向き合いはできる。

全ては自身のこころが見せてくれていることでもあり。

そう思うと、実はその人との物事自体にはあまり意味が無かったんだなって、執着したり、あからさまに裁くことでも無かったんだな、っていうことが分かり。

そしてきつい言葉をぶつけたり、拗らせ続けるのではなく、今目の前の出来事から自分は何を得られそうだろうか?と。
ほったらかしの過去の感情の解消チャンスだとも捉えて、そこから深く向き合っていけたらいいんだと思います。

気付き、感じることで、癒しは起こります。

一回で癒せないのなら、繰り返しその時の感情を感じ切ってみたり。
そうすると、また同様のパターンが起こった時に、気付きを活かして対処していくこともできるでしょう。

飛び散っていたカケラが自身に引き戻される度に、あなたはまた一つ強くなっていく。
土台がしっかりして、グラつかない自分へと向かう。
それは生きやすさにも確実に繋がっていきます。

この世界でのカケラ集めを楽しもう。

そして、自身と出会い、何かを抱いたその相手の背景にも、何かしらあったのだなと想いを巡らせ、自身の伝え方というものも改めて学んでいく。

一人でも多くの方が取り組めたならば、いつしか大きな変革にもなるのではないか、そう思っています。

こうして統合を繰り返しながら、それぞれの大樹がしっかりと根を張り、豊かな土壌から、どんどんとその実を実らせていけたらとも思うのです。

本文をお読みいただき、ありがとうございました*

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