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誰かの意見に左右されずに生きる

近年、ネットワークの多様化、発達に伴い、いとも簡単にあらゆる情報に触れたり、発信ができるようになりました。

情報過多な社会において、取捨選択の力は今後より一層重要なポイントになってくることと思います。

この先何を見て、そして何を信じていくのか。今日はそのことについてのお話が出来たらと思います。

百聞は一見に如かず


人から何度も聞くより、一度実際に自分の目で見るほうが確かであり、よくわかる。
そのことを例えたことわざではありますが、よく本質を捉えているなと私は感じています。

「あの人って○○なんだよ〜」
「あれは辞めといた方がいいよ〜」
「めちゃめちゃ良かった。オススメだよ〜」

生きていると、自分以外の人の色んな意見(感想)を見聞きする機会があります。もちろんそれは、何かの問題に対して自分から「ねぇどう思う?」と聞いて返ってくる時もあれば、たまたま行った先で、そんな意見に遭遇することも。
大きく捉えれば、広告だってそうだと思うんです。これはいいものですよ〜とか、これは注意した方がいいですよ〜とか、必死にこちらに訴えかけてくる。

でもね、ここで忘れちゃいけない視点があると私は思っています。

他人の意見は他人の意見である


誰かが何かに否定的な意見を持ち、そして場合によっては、否定的になるに至ったその背景(その人や物との間にあった嫌な出来事)を話す場合もあるでしょう。ですが、そこには必ず“偏り”というものがあります。

私たちは生まれ育っていく中で、知らず知らず様々な価値観を保有していくものです。その環境によっても、人生ストーリーによっても全く違う価値観を保有していきますので、考え方、捉え方、感じ方が自分と寸分のズレもない人というのは厳密には存在しないのだと私は思っています。

つまり、誰かがその人や物を最悪だと言ったとしても、違う誰かがその人や物と触れ合った時に、全く違う感覚/感情を抱く可能性も大いにあるということです。

そして、自身の保有する価値観によって判断し物事を話してしまう側面は誰しもあり、受け取り側も同様に、そのことを深く知っておく必要があります。

これは例え話になりますが、誰かが友人に

「○○さんってさ、すごく人に厳しいことを言うし、前にこんなことがあったから付き合うのは辞めておいた方がいいよ」

そう話したとしましょう。

それを聞いた友人Aさんは

「えっ。そうなの。じゃあ○○さんって怖い人なんだな。ズバズバはっきりものを言う人は苦手なのよね。。関わらないようにしよう」

そう思い、その後○○さんのことはずっと避けるようになりました。

一方、同じことを耳にした友人Bさんはどうなったかというと

「そっか。厳しいということは大事な事もハッキリ指摘ができるんじゃないか?…ということは、自身が見過ごしがちの部分も気付いて伝えてくれたりするかも…?なんか気づきが得られそうだな。今度ちょっと話してみよう」

その後〇〇さんに興味関心が湧いていました。

両者の違いは、単純に自身が普段どのように苦手や嫌に対して向き合っているのか、そのことも現れているのだと私は思います。

そして

「○○さんってすごく人に厳しいことを言うし、前にこんなことがあったから辞めておいた方がいいよ」

そう友人たちに話していた彼女自身も、実は過去に似たようなパターンでの古傷があり、そこに再び反応して相手に嫌悪感が出てしまい、否定的な意見を述べてしまっているだけかもしれません。

また、Aさんは「リスク回避」がものすごく強い方なのかもしれませんよね。何か不安要素がある中で、新しいことに飛び込み、それで仮に失敗したらどうしよう。。と、そこに何らかのトラウマがあったり。
自分の人生の「責任」というものを取るのがとてつもなく怖く。その「責任」というもの自体も、非常に大変なもので、何か取り返しの付かないことになると始めから限定してしまっていたり。

故に「自分で決めたことで失敗をしてしまったら、否定されてしまったら、私の人生はもう終わりだわ。どうしよう!」そんな恐怖感があり、

「誰かが言うことに同意しておいた方が楽じゃないのか」
「誰かの言う事に従っておいた方が楽じゃないのか」
「何かを判断することを委ねている方が楽じゃないのか」

そう思ってしまっていたりする。

「この人がそう言うなら、正解なんだろうな」


何かを聞いてそう思ったのだとしたら、ちょっと立ち止まってみましょう。

正解って、そもそも何なのだろうか、と。
全く同じ考え方、捉え方、感じ方の人はこの世に存在しないのですから、正解というのもまた、無数にあると私は信じています。
そして究極は、すべてが正解であるということにもなってくるのかもしれません。

相手の言っていることではなく、「誰かの意見を鵜呑みにする現状の自分」で居た方が“安心”だから、相手の言うことを「正解」だと思っていたい、そんな側面があるかもしれず。

他人の意見は、その人が生きてきた背景で保有した価値観がベースになっていることがある。

だから“この人がそう言うからそうなんだな”と、相手の判断のままに、自分も物事を見て判断してしまうということは、結果、あなた自身の観る世界を非常に狭めてしまっていたり、それ以上に拡大せずそのままであり、勿体無いということでもあったりするのです。

人間、何か不穏な雰囲気を感じた時ほど、実は思い込みへの気づきのチャンスです。

違和感が生まれるからこそ、変化もしたくなって。変化を選択するからこそ、また新たなステージに行けるのかもしれない。
苦手が苦手ではなくなったり、気にならなくなったり、生きづらさが緩和された世界に行けるかもしれないと、そこに希望をもって、なぜそれが嫌なのかと不快なのかと、探ってみて欲しいのです。


自分で体験するからこそ分かることがある


人づてにどれだけ何かを聞いたとしても、本当のところはどうなんですか?それを簡単に理解することって難しいものです。

自身がその相手に正面から向き合い、会話をしたり、過ごしたり、背景を知ってみようとしないことには、分からないこともあるのかもしれません。

誰かの意見に左右されない自分で居ることは、自分の足で力強く立つことにも繋がっている。何が起こっても私は大丈夫だという自己信頼の元に、過ごせているのかもしれません。

仮に影響されやすい自分がいても、それを責めはせず、これも私だよね。うん
ダメだなんて思わなくても、大丈夫。

そして、重要な事実というのは、その噂話や誰かの意見自体には無いのだとどこかで知っておくといいのかもしれません

話している人も、それをそのまま受け止めている人も、実はお互い何らかの傷が反応していて、感情が揺さぶられているだけだったりする。
そこを深く、心の奥底を見ていこうとすることが、何よりも自身の為になり、そして解決に至っていくのではないかという事も。


あなたがもし、誰かの意見を見聞きした時に。そしてその意見から、何か気持ちがグラグラしたり、苦しくなってしまった時に。

このお話が、気付きや視点を変えるポイントとして、役立ちましたら幸いです。

お読みいただき、ありがとうございました*


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