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許す/認めるというお話
この世界に生きていると、時々自分が受け入れられないような、何か不快に感じたり、胸がソワソワするような投稿やお話も見かけてしまうことってありますよね。
そんな時って、実はどのようなことが隠れていたりするんだろうか。
そして、許すこと、認めること、そんなお話を私の視点からしてみようと思います。
どちらかだけを“正しい”と思っていたいんだ
何かの投稿を見た時、発言を聞いたとき、嫌だな、不快だな、否定的に感じてしまう自分が出てくることって、おそらく皆さんも一度はあるんじゃないかと思います。
なぜなんでしょうか。
それは、自分の中に圧倒的に抱える、支持している考え方や価値観があるからこそ。それに反するものを見た時に嫌悪感を感じ「ちょっとそれ違いますよ!」の主張が抑えられなくなっている。
仮にそっちを認めてしまったら、そうでなかった自分の今までも否定されてしまうようで耐えられない、認めたら「負け」だとか、どこか「勝ち負け」みたいな意識が出て、居心地が悪く感じてしまっている人もいるかもしれません。
人間というのは、誰しも「そうですね」「分かります」とどこか言ってもらいたい背景があり。
そうであるが故に、自分と違う意見や価値観に遭遇した時に、「私はそうは思わない。こう思うよ!」を強めに出したりすることもある
だけど実はシンプルに「そうですね」「分かります」をわたしもあなたも貰いたいだけだったりします。
そんな私でいいと誰かに言って欲しい。
認めて欲しい。
全てはその気持ちから来ていたりもするんですよね。
なるほど。そういう考え方もありますよね。という姿勢
ん?と引っかかってしまって、そのまま黙っていられないのなら
「そういう考え方もあるんですね。私にはない視点でした!」
相手が前向きに捉えられるだろう言葉をできる範囲でまずは出す。
そこから、実は私はこう思っているんですよ、と自分の考えを言葉を選びながら述べてみる
これが直接その相手に難しいのであれば、別に本人じゃなくてもいいと思うんです。
こういう考え方を最近目にして、私には無い視点で興味深かった。勉強になった。そんな考え方もあるんですね。
などと一旦認めた上で、私の考えはこうでね・・・と言葉を考えつつ述べていく。
批判からの気持ちではなく、シンプルに自分はこう思っていたんだ、ぐらい屈託ない感じで、目の前の人に伝えられればいいのかな、と。
そしてこれを意識して構築できていくと、「そんな考え必要ないよ」と自身が思っていた部分を認められていき、次に新しい何かを創造するエッセンスにもなっていくだろうなと思います。
見えているのは一部分である
SNSで伝えられていることなどは、一部分。ほんの少しだけで。偏りがあり。
多くは“見えていない”ことに気づく必要があると私は思っています。
これは普段の人間関係にも言えることですが。
わたしたちは、その時のその人しか見ていないことがよくあります。
スピリチュアル。それは、目に見えないことを大切に捉え生きていこうとする側面がありますが、これはSNSにも言えて、多くのことはそこからは見えていません。
つまり、その発信者さんの全てが自分が反応した部分のみに切り取れない、ということです。
例えば、キラキラしている(好きな時に好きな場所で好きなお仕事をし、好きなものを好きなだけ購入もでき、自由に楽しく生きている)ように見える投稿をあなたが見たとします。そして瞬間、嫌な気持ちになった。
でも、実はその裏側では、キラキラもせずにパジャマにメイクも無しで(極端な例です)、必死に何かを準備したり、仕上げたり、気持ちの葛藤があったり、キラキラしない現実的な本人の積み重ねがあるのかもしれません。
探り探り、今の自分に出来ることのチャレンジで、精一杯投稿している最中の方なのかもしれません。そう簡単には全ては見えてきません。
キラキラした部分のみが表に出ている、(ように見える)
けれどその人がそれ以外の部分を本当に大事にはしていないのだろうか、、、
こたえは、違うのかも。
SNSはまず見てもらうことを重要視して、戦略的にそういう部分を中心に見せていたり。そんな方のセミナーや講座を実際に受けてみた時に、
「あれ・・・思っていたよりすごく中身が深くて熱い想いが詰まっていた。」
いい意味で期待を裏切られる結果がそこに待ち受けているのかもしれない。
何か学びとなることがあるのかもしれない。
プラスだけでなく、人によってはマイナスも含めての学びかもしれない。
きっと、その時初めて何かが分かり。
その人の大切にしているサービスを受けてみようともせず、背景を知ってみようともせず、
「どうせ〇〇でしょ」
「だからそれは要らないわ」
「いいかげんだよね」
厳密には言えず、判断できないのかもしれません
体験しない限り、理解はし得ない。あれやこれや目についただけで、そう簡単に何でも批判はできないと思うのです。
自分にどれだけ素直になれるだろうか
今の自分から突き抜けようとする上で、「素直さ」というのはとても重要なポイントではないかと私は思います。
「必要ありません」「それは違います」
この言葉がよく自分にまとわりついているのだとしたら、それはなぜだろう。
・・・本当の意味で、自分を受け止めきれていない
そんなことが実は隠れているのかも。
自分の陰というもの(マイナスな部分/できないと思っている部分)に「わたしはダメだ」というハンコを押して見せないように必死に閉じ込めてしまう
すると、自分の考え方や現状を刺激する誰かや何かの発信を見た時に、閉じ込めているその部分がチラつく為「出てこないで」と必死になり、
「そんなの必要ないよ」「それは違うよ」
力を入れたくなっちゃう。または早々にその相手を認めたくない存在としてシャットアウトしてしまうかも。
ダメな自分のままでは突き抜けていいとは思えずに、
そのダメな自分を何より自分が許せていない。
本当はその相手や物事に対してでなく、いつまでも素直にただそうであることを認められない自分に対して怒っていて。
嫌なのかもしれない。
「あなたはよくて私はダメ」を刺激されるから
「あなたもダメで私もダメ」にしておきたい
いずれにしてもいい気分は抱かないわけなんですね。
ぜひ、私がお伝えしたい話がありますが
「できない」ことがダメなのではない
「できない」と思うことがダメだと思ってしまう
これがダメなんだというお話です。
「できない」→「うん。そうなんだ。」
その後に「そんな自分はダメだ」どこかくっつけちゃったりしていて。
でもですね、たとえ「できない」と思うことがあっても
工夫次第でそれは「できる」ことにもなるかもしれません。
例えば「料理ができない私」が居る
それが本当にできなくて困っちゃうことなら「簡単に調理ができて食卓に並べられるものを調べてみる」「家事代行サービスを検討してみる」
そしてそれを導入することによるメリット、デメリットを考えてみましょう。どちらの側面もあるよねと理解はして、それでも自分で思い切って選択をしてみる
そしたら、もしかしたら料理ができなくても、違う方法でこうして料理を提供することはできて、食べることはできて、なんだ、誰もそんなに困らないんだ...!とその後気付けるかもしれない
その瞬間、わざわざ料理ができない自分を、この先もダメだなんて握り締めている必要はなかったのではないか、、と。
そう気付いたあなたは、あれだけ気にしていた悩みだったはずなのに、途端にさほど気にしなくなったり。
こんなふうに、みんな、
そんなにも自分ができないものごとに対して
深刻になりすぎなくていいんです
必ず補う何かも、この世には存在しています。
マイナスなだけなんてありません。
必ず、プラスの側面もあります。
違う何かを試してみたっていいんですよ
そこに自分で許可を出してあげてほしいんです。
「私はこれができません」
「そんな考え方があるのね」
「そんなサービスがあるのね」
素直にただそうであることを受け止めて、出せたなら。
そこに批判からでなくの、新しいアクションを行なってみれたなら。
その先はどうなっているのだろうか
・・・そう悪くはないはずだから。
陰を認めることってなかなかに難しいことではあります。私も時々、四苦八苦していて。
だけどそれを認めてしまった先には、そのものごとが気にならなくなる「どっちでも大丈夫だよね」という視点を持てたりすることも分かり、
しばらくして振り返ってみた時に、受容の幅が広がっている分、土台の安定感/安心感が以前より上がっていることに気付ける
今、そこに想いを向けてみられるかどうかでも
この先、何かが変わっていくのだと信じています。
常識を疑い、見つめ続けるのは時に苦しい
今まで保有していた(当たり前)と思っていたものを疑い始める
それはもしかしたら苦しいことかもしれませんよね
自分の今までを見つめて、最低だなと思っていた部分を、改めて真正面から自分に突きつけていくこともあったりするからです。
わたしは自分自身をとてもユニークな人間だと思っていて。
それは、一般的な常識から外れたような考えを持つ側面がたくさんあると思うからですが
そんなユニークな私のことを、私は否定をせずに。
見えていない部分は私にもあなたにも、まだまだたくさんある。
毎日が学びと気付きの連続。
そこにどれだけ謙虚でいられるかでもあるのかもしれない。
そして、小さな頃から得意な“観察する”ということが私にはあって。
あなたにも得意なことがあるのだから。
これからもその“得意”を十分に発揮しながら、もっとこの先を面白くしていけないか、新しい発想へ繋げていけないか、そう捉えて歩んでいけたら。
自身の現時点での常識(当たり前)となっていることも。ある意味疑い続ける感覚は持ち、探求していく旅の中で。
本日、書いたことを私自身も胸に置きながら
変化の道を辿り、表現していけたらなと思います。
本文をお読みいただき、ありがとうございました*
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