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名前から始まる【サウナイーグル@知立駅】(1/2)

 僕を僕たらしめているものはなんだろうか。平均よりもほんのちょっとだけ高い身長か、聞いていると眠くなるような低いゆっくりとした声か、はたまた黒やグレーなどの目立たない服を好むところか。そのほか、東京都内に住んでいることだとか、週2程度でサウナに通っていることだとか、noteやYouTubeを継続的に更新していることでもいい。とにかく、僕が僕であることを他人が認識する際、つまり僕と僕以外の人間を区別する時に、なにかしらの相対的な僕の特徴が存在するはずだ。でなければ、僕ではない他の誰かのことを僕だと認識してしまう人が現れかねない。
 ただ、これは極論ではあるけれど、相対性を突き詰めていくと、おそらく「完全に同じ特徴を持っている人間であれば同じ人物だ」と言えてしまうことになる。しかし、これは実際にはありえない。少なくとも現在のテクノロジーにおいては、自分の完全なコピーなど存在しないはずで、仮に全く同じ人間が存在したとしても、おそらくその2つを別のものだと認識するための目印のようなものが生み出されるだろう。
 このようなことを考えた結果、人間は相対的ではなく絶対的な生き物であることがなんとなく見えてきた。他の人と比べて相対的に「ナオト」なのではなく、唯一無二の存在として絶対的に「ナオト」なのである。

 ここで話が冒頭に戻るのだけれど、僕が僕であることを僕以外の誰かが認識するために必要なものが徐々にわかってきた。それは「名前」だ。僕のことを知っている人同士の会話の中で僕の話題を出す時、わざわざ「平均よりもほんのちょっとだけ身長が高く、聞いていると眠くなるような低いゆっくりとした声で、黒やグレーなどの目立たない服を好み、東京都内に住んでいて、週2程度でサウナに通っているだけでなく、noteやYouTubeを継続的に更新している云々……な人」の話をしようとはしない。あくまで「ナオト」の話をするはずで、そこには「ナオト」だけで通じる共通認識がある。
 つまり、名前とは複雑な情報を最小限の単位に置き換えた、ただの記号であるということだ。ということは、名前が知られているかどうかだけで、その存在価値には雲泥の差が出るのだろう。

 それでいうと、サウナブームを加速させたのは「ととのう」という言葉の普及が背景にある可能性がある。「ととのう」の状態を言葉で表現するのは難しく、その説明内容は人によって若干異なるのだけれど、ととのった経験がある人なら「ととのう」という状態を身体で理解し、イメージを持つことができる。つまり、その状態のことを「ととのう」という記号に置き換えてコミュニケーションを行っているのであって、言葉だけでは理解できないその状態を知るべく、自ら体験しようとサウナに足を運ぶようになった人も少なからずいるだろう。
 昔、あるCMで「名前なんてあと、あと。遊べば友だち、だよね。」というコピーを見たことがある。その当時は「たしかにな」と関心した記憶があったのだけれど、今思うと、決してそうとは限らないような気もしている。名前は覚えてもらえて ”なんぼ” だ。名前が知られることで、それは唯一無二の絶対的な存在となるのである。

 そんな考えを持っている僕の視界に、ある看板が飛び込んできた。それは出張先の愛知県内をタクシーで移動中のことだった。

「えっ? この店って、そうだよな……?」

 僕は急いでその店舗名を検索し、そして点と点が繋がったのだった。

ーー後編に続く(4月中旬に公開予定)

(written by ナオト:@bocci_naoto)

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①僕たちは自費でサウナに伺います ②それでお店の売上が増えます ③noteを通して心を込めてお店を紹介します ④noteを読んだ方がお店に足を運ぶようになります ⑤お店はもっと経済的に潤うようになります ⑥お店のサービスが充実します ⑦お客さんがもっと快適にサウナに通えます