ブルーハワイ

40代前半男性・ASD当事者。 昭和末期に幼稚園で加配&療育を受ける→以後普通…

ブルーハワイ

40代前半男性・ASD当事者。 昭和末期に幼稚園で加配&療育を受ける→以後普通学級で小中高大と進学→社会に出てからまたASD診断と言う早期診断か中途診断か区別が難しいレアな経験を持つ(たまたま自閉症に詳しい幼稚園に通った為)。 割と珍しい経歴を持つ当事者として細々と投稿予定です。

最近の記事

20代終盤

20代後半戦で大人の発達障害診断が出ました。 十数年も昔の頃はまだ知る人ぞ知ると言うレベルの診断名でしたが、それでもそれまでの人生であった様々な不可解な事に理由があったと言う事がわかったのは安心感すらありました。 その後、しばらくは神奈川県内に借りていたアパートで一人暮らしをしながら製造業関係の仕事をして何とか生計をたてつつひっそりと通院もしていました。 ただ先行きが見通せずに生活は全体的に荒れ気味で、現状では一旦このアパートは引き払わざるを得ないと判断し、東京永住予定

    • 20代後半

      大学を卒業後、神奈川県内に借りていたアパートで一人暮らしを継続しながら、東京or神奈川でいくつかの仕事を転々とし、気がつけば20代も後半になっていました。 この間に関しては守秘義務や個人情報その他もあるので詳細は控えますが、何とか生活を維持するのがやっとだったと言えそうです。 前職を辞めたある年の夏、自宅アパートから自転車で通勤できる場所にあった物流関係の仕事で当座の生計をつなぎながら、次の策を練る事になりました。 どうにも人と接する仕事は合わないと強く自覚するようになっ

      • 大学4年

        21世紀最初の1年となった2001年春、大学4年に進級しました。 長かった学生時代もいよいよラストとなりました。 この年は大学卒業する事を最優先に履修する事にしました。 偏った履修をしてきたので、割と楽勝科目が未履修で残っていました。 片っ端からそれらを履修した所、大学4年は1科目だけ『良』でそれ以外はすべて『優』と言う極めて良好な成績となりました。 卒業必要単位数より16単位も余分に取得して卒業となったのも意外な結果でした。 公務員試験のほうですが、基本的には全滅となり

        • 大学3年

          大学生活も後半戦で3年に進級しました。 前年の成績が発表されましたが、何と16単位も落としてしまいました。 学内に人脈が少なく履修情報が乏しいまま履修したのもありますし、マイナー科目ばかり履修したのもあります。 また多少の油断があったのも否めません。 これにより3年&4年次の単位取得に余裕がなくなりました。 大学3年の前半戦は良い事も悪い事もありつつ、ようやく東京での生活が軌道に乗り始めた感もありました。 春休みから公務員試験予備校にダブルスクールを始め、平日は昼間は大

          大学2年

          大学2年に進級しました。 第2外国語2単位×2科目と必修科目1科目の8単位を落とした事により、この年は50単位履修と言うタイトな時間割となりました。 大学4年間でこの年が一番中身が濃かったように思います。 週4日大学に通い、残りの週3日は1日中バイトと言う週休0日だった時期が結構ありました。 停滞していた前年の巻き返しを図ろうとやや前のめりだったのかもしれません。 土日は1日10時間とかバイトに入り、バイトが終わった後は遊びに行き(と言ってもファミレスに長居しながら食事

          大学1年

          1998年(平成10年)の春、大学進学の為に上京し神奈川県内のアパートで一人暮らしがスタートしました。 大学は東京23区内だったのですが、家賃を極力抑える為に自宅外通学にしては長距離通学と言うスタイルになりました。 築浅ワンルームアパートでバストイレ&室内洗濯機置き場付き1階角部屋で家賃4万円と言う、当時としては破格でした。 もっとも郊外の駅からも結構歩く距離だったりと、立地面を犠牲にした事により実現した価格でした。 都心から遠く離れた場所だった事が大学生活や社会人生活で不

          浪人時代

          1997年(平成9年)の春、札幌市内の大学受験予備校に入学しました。 この1年は人生を変えた1年と言えそうです。 かなりの大躍進をとげ、現役時代では考えられなかったレベルの大学に合格と言う結果が出ました。 入学した予備校は『自由』が特徴の予備校でした。 放任主義でもあり自己責任でもあるような雰囲気でした。 際限なく遊びに走ろうと思えば遊びに走れる一方で、強制される訳でもないのに必死に勉強する人も結構いる……何と言うか、発達障害当事者には実に相性の良い環境でした。 クラス

          高校3年

          幼稚園時代に加配的な先生が付いたり療育を受けていた幼稚園児が、月日が流れて高校3年生になっていました。 とりあえず普通学級に在籍はしていますが、決してそれは発達障害で無くなった訳ではなく、普通を装っていただけでもあります。 3年に進級し、主として私立文系大学の受験を想定したコースを選択しました。 もっとも大学受験をする生徒の方が少数派で、大学進学以外の進路だが『数学の授業が全くない』と言う一番軽いコースだから選択している人が多数のようでした。 この頃になると、いよい

          高校2年

          1995年(平成7年)の春、高校2年に進級しました。 戦後50年だった平成7年……日本社会では前代未聞のテロ事件などが発生し、また日本経済も低空飛行路線がいよいよ濃厚になるなどした1年でもありました。 高2になると、ある程度科目選択が可能になりました。 自分はとにかく理数系科目を最小限に押さえると言う履修形式としました。 理数系科目の負担が激減した効果は絶大でしたが、今度は苦手科目の英語をどうしようかと言う問題も浮上してきました。 文系科目重視の履修形式だったので、全体

          高校1年

          1994年(平成6年)の春、北海道のある地方の公立普通科高校に入学しました。 一応大学受験を目指すカリキュラムで運営されている高校でした。 何とか高校には入学したのですが……中学校に引き続き『集団生活は合わない』の一言でした。 学校生活に支障が出ない程度に周囲と交流できれば御の字ぐらいのスタンスだったので、積極的に友人を作ろうなどと言う意識はありませんでした。 その辺はASD当事者なので必然なのかもしれません。 もし、そのあたりが上手く行っていれば、ASD傾向はあって

          中学3年

          1993年(平成5年)春に中3に進級しました。 バブル経済も崩壊し、不景気が当たり前的な世の中になってきていました。 とりあえず『高校だけは出ておきたい』と言う一点のみで中学校には通学していました。 中学3年間のストレスの元凶だったのは内申点制度だと思います。 動作凹タイプなので実技教科は振るわず、また5教科も凸凹があったので、既にいわゆる進学校と言える高校への進学は不可能となっていました。(当時の北海道は中1から内申点カウントの為、中2終了段階で大半は確定するシステムだった

          中学1年後半~中学2年

          中1の夏、北海道内のとある地方の公立中学校に転入しました。 中学校2校目で4回目の転校です。 あまりネガティブな事は避けたいので詳しくは書きませんが、この転校は大失敗でした。 札幌の中学校とは校風がかなり異なり自分には全く合いませんでした。 また前の中学校が全力を挙げて支援体制等を検討して頂いた件は、こちらの中学校にも申し送りされたようですが、2校目の中学校がとったのは『不作為』と言うスタイルでした。 公立中学校と言っても玉石混淆だと痛感しました。 ある地方の郊外に引っ越し

          中学1年後半~中学2年

          中学1年前半

          1991年(平成3年)の春、札幌市内の公立中学校に入学しました。 学業に力を入れようと思いつつ、何故か某運動部にも入部しました。 この判断は結果的に失敗だったようです。 また夜には学習塾にも通い、1週間が授業・部活・塾で終わると言うASD当事者らしからぬ中学校生活がスタートしました。 真新しい学ランを着用し、これから少しだけ大人の世界に足を踏み入れる……そのような予想は外れ、少しだけどころか結構な大人?の世界が展開されていました。 昔から荒れている事で割と有名な中学校だっ

          中学1年前半

          小学6年

          1990年(平成2年)の春、横浜から北海道札幌市の小学校に転校しました。 小学校4校目です。 この転校回数の多さは発達障害由来の困り感を更に加速させた可能性もありそうです。 今回の小学校は若い女性教諭が担任のクラスになりました。 諸事情から男女比が1:2と言う実にアンバランスな構成で、男子は比較的大人しめな児童中心でしたが女子はその逆でした。 この構成が後々様々な問題の火種となったようですが、ここでは深入りはしません。 男子は少数派だった事もあり、全体的には割と仲は良好で

          小学5年

          平成元年の春、小学5年に進級しました。 クラス替えとなり、前年とは雰囲気が違うクラスとなりました。 運動関係には消極的なタイプでしたが、何故か流れで小学校の特設サッカークラブに入部する事になりました。 これは授業内のクラブ活動とは別で、男子はサッカー部・女子はバスケット部の1択であった中学&高校の部活動的なものでした。 毎朝の朝練とたまに土曜日に弁当持参で午後練と言う活動内容でした。 大した活躍はしませんでしたが、脱落する事なく1年間やり通したのは奇跡的とも言えそうです。

          小学3年後半~小学4年

          1987年(昭和62年)の夏、親の転勤に伴い北海道の地方都市から神奈川県横浜市某区に転居しました。 地方からバブル絶頂期の横浜の小学校に転入……小学校も3校目となりました。 いきなり大都会の地下鉄駅近くの中層マンションが自宅となりました。 集合住宅とはいえ、エレベーターが付いている建物に居住と言うのはかなりの別世界に来た感覚でした。 小学校も北海道とは色々と勝手が違い、小3のうちは慣れるのに苦労しました。 この地域は中学受験熱がかなり高く、クラスの結構な人数が中学受験に

          小学3年後半~小学4年