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20代後半

大学を卒業後、神奈川県内に借りていたアパートで一人暮らしを継続しながら、東京or神奈川でいくつかの仕事を転々とし、気がつけば20代も後半になっていました。 この間に関しては守秘義務や個人情報その他もあるので詳細は控えますが、何とか生活を維持するのがやっとだったと言えそうです。



前職を辞めたある年の夏、自宅アパートから自転車で通勤できる場所にあった物流関係の仕事で当座の生計をつなぎながら、次の策を練る事になりました。  どうにも人と接する仕事は合わないと強く自覚するようになっていたので、裏方の業務をやる事にしました。 冷蔵倉庫内で食料品の仕分け作業と言う業務内容でした。 



時給は安くフルタイムでシフトに入ってようやく一人暮らしの生計がギリギリ維持できる水準でしたが、妙な気苦労はなく、また猛暑の夏だった為、北国出身で暑いのは苦手な自分には素晴らしい環境でした。  勤務時間帯が午後から深夜にかけてだった為、午前中の時間も活用できましたし、平日休みは当時の状況では好都合でもありました。  また入る時にあれこれと詮索されずに面接後に即決採用と言うのも好都合でした。  



もう普通の会社員はこりごりだと思えていましたが、それでもそうは言ってられないとも考えていたので、出勤前の午前中にハローワークに通い、平日週2日の非番日には求人情報誌の求人も合わせて面接を入れまくると言う転職活動も並行する事になりました。 ピーク時には週5フルタイムで就労しながら1週間に7社面接を受けた週もありました。(午前・午後・夕方・夜と1日4社受けた日もある)  なかなか節操のない転職活動だった為、結果的に半年もの間、フルタイム就労しながら履歴書を書き面接を受ける日々となりました。  


この時の職場はある意味では人生で一番気苦労が少なかったかもしれません。  入社してみるとスタッフの3分の1ぐらいが外国人でした。  ある南国から来た陽気な人達と何故か仲良くなり、休憩時間や業務中の手待ち時間に談笑できたのは予想外の収穫でした。  中1段階から英語に苦手意識を持った為、将来は英語を使うような仕事は絶対にしない(と言うよりもできない)と考えていました。   彼らは日本語は多少は話せますが万全ではなく、時折ジェスチャーなども交えての交流となりました。  彼らの母国語はマイナー言語でしたが、第2言語として英語は結構話せるようです。  しかし、自分の英語力はとても大学卒業とは思えない悲惨なものでした。   別に英語など話せなくて良いと開き直っていましたが、この時ほど『きちんと英語を勉強しておくべきだった』と思えた事はありません。


転職活動が控えめな時は、昼前に起床して自転車で通勤し、午後から深夜までただひたすら商品の仕分けをしていました。  休憩時間にはカップ麺を食べたりした後は、缶コーヒー片手に喫煙所に籠城して談笑していました。 生活はギリギリでしたが、1日1日完結型の仕事で得た給料で生計を立てていると言う実感がある感じが何とも言えず良かった記憶があります。 深夜に退勤すると、帰りは真夜中の道路を自転車で帰りました。  途中で遅い夕食をとり帰宅するのはいつも午前様……素早くシャワーに入り、その後は明け方までインターネットを見るか深夜番組をダラダラ観るかと言った生活パターンでしたが、この生活は自分には結構合っていました。ただし、その日暮らし感は否めませんでした。


秋が深まりつつあったある日の深夜、仕事終わりに深夜営業のラーメン店に立ち寄りました。  店内は湯気が立ち込め、AMラジオが24時になった事を教えてくれました。 店を出てベンチでひと休みする事にしました。  星空を眺めながら煙草を何本か吸いました。 『一体、この人生はどこにつながっているのだろう……』『自分には普通の会社員は全く向いていないのではないか。  別の道に進んだほうが良いのではないか』  上京してから結構な年月が流れていましたが、職を転々として根無し草のような人生になっていました。  この時の情景は若者から中年になった現在でも折に触れ思い出します。  おそらく走馬灯にも出てくると予想しています。


結局、半年強働いたこの職場も給料面で厳しかったので退職する事にしました。  もう普通の会社員以外の道を模索しようと考え、もう少し給料の良いバイトか契約社員の仕事をしながら次の手をじっくり練る予定でした。  そんな時たまたま気になったとある法人営業の仕事の面接を試しに受けた所、まさかの内定が出ました。 多少の不安感はあったのですが、『もしかしたら、普通の会社員的な仕事に就けるのはラストチャンスかもしれない』と思い、入社する事にしてみました。  結果的に過労からメンタルその他にかなりの支障が出て、精神科受診(心療内科と言う耳触りが良い診療科も併記されていた)に至り、2次障害以前に『大人の発達障害』であると告げられました。   まさかの宣告でしたが、それまでの人生であった様々な不可解な事にきちんと理由があったと言う事に妙な安心感があったのも確かな事実でした。  ちなみにこの会社に関しては見切りをつけて、この後すぐ退社しました。

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