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中学3年

1993年(平成5年)春に中3に進級しました。 バブル経済も崩壊し、不景気が当たり前的な世の中になってきていました。 とりあえず『高校だけは出ておきたい』と言う一点のみで中学校には通学していました。 中学3年間のストレスの元凶だったのは内申点制度だと思います。 動作凹タイプなので実技教科は振るわず、また5教科も凸凹があったので、既にいわゆる進学校と言える高校への進学は不可能となっていました。(当時の北海道は中1から内申点カウントの為、中2終了段階で大半は確定するシステムだった)   公立中学校の内申書制度は発達障害……特にASD当事者とは相性が極めて悪いように思います。


中3も相変わらず学校では浮いていました。 校舎の構造上、自分のクラスだけ他のクラスと離れた場所にあったので尚更そう思えます。 とりあえず学校には通学し、学習塾に通うと言うルーチンはこなして生活していました。 この頃になるとテレビゲーム(スーパーファミコン)にも飽きていました。  特に熱中していたと言う訳でもないですが、深夜に何となくラジオを聞く事が習慣になりました。 インターネットが無かった時代……音声だけとは言え、たまにキー局からの放送が聞こえてくると何となく東京を意識するようになりました。 将来は上京したいと言う漠然とした願望が生じたのもこの頃だったと思います。


中3の途中ぐらいから学業成績が低下して行きました。 高校受験が近付いてきた訳ですが、ここで学区の公立普通科高校・職業科高校・札幌の私立高校の3タイプの学校が志望校としての最終候補に浮上してきました。 この頃の学業成績はかなり微妙なもので、大学進学を目指せるか否かと言った危機的状況でもありました。 大学進学自体が非現実的と言う見方もありましたし、学校と言う空間自体がとにかく合わないと言う意識も強かったので、職業科進学も現実的に検討していました。(体験入学にも行った) 


『君の学力では大学受験対応のカリキュラムをとっている高校は危険だから止めた方が良い』と担任の先生&塾の室長先生にも真剣に忠告されたりもしました。 正直な所、授業を受けて勉強するよりも独学の方が向いている自覚もあったので、その意見も一理あるかと思いましたが、『合わない中学校生活をここまで我慢してきたのだから、駄目元で公立普通科高校を強行受験する』と言う判断をしました。 自分自身がもし大学生になれる可能性があるのならば、その可能性は放棄したくないと言うのも大きな理由です。


2校目の中学校では社会性を養う場所としての学校機能は全く享受しまいまま、高校受験となり卒業となりました。 入試本番で史上最高得点を叩き出し、挑戦校扱いだった学区の中堅公立普通科高校に合格しました。  これだけ書けば美談に聞こえそうですが、いざ入学してみると序盤から校風が全く合わなかったのに加え学業成績もかなり低迷してしまったので、必ずしも上昇志向で攻めるのが良いとも限らないようです。 またふとした事から高校卒業間際に『得意科目と不得意科目の落差が激し過ぎる→何らかの障害がある可能性が高そうだから、できれば不合格にしたかった』なる事を学校側から聞かされたので、偏差値や進学実績だけでなく、校風や相性も含めた学校選びが大切だと思いました。  ちなみに公立高校入試で得意科目の社会は満点だったらしいです。 さすがに満点の科目がある生徒は落とせなかったと推測しております。

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