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永遠のみどり
原民喜さんの評伝を読みながら泣いてる。
自死や遺体の引き取り、葬儀を取り巻く文学者たちの衝撃と悲しみ。無口でぎこちなくて繊細で、析出した結晶のように佇まっていた原民喜さんが、文学仲間たちの存在そのものを根底から支えていたのだと知る。空気のように、ひっそりとしずやかに。
帰りがけに我々の前を九段から神保町に通う都電が鈍い音をたてて通過した。線路に火花が散った。その時、猫背で歩いていた原さんが突然、軀を震わすようにして立ちどまった。そしてあの怯えた眼で電車をじっと見つめた。
「原さん、どうしたの」
「いや」
彼は首をふった。(中略)
「ぼくはね」しばらくして彼は私に言った。「あの火花をみた時ね......原子爆弾の落ちた瞬間を聯想してね」
(遠藤周作「原民喜」より)
訥々とした言葉は、「あの日以来夕焼けが怖くなった」と語る被爆者のご婦人に重なる。そのことに、涙した。
原爆とその後を書き尽くした人として、すべてを俯瞰した特別な立ち位置にいるとの枠組みで読み進めてきたことに気づく。その前に、彼もひとりの被爆者だったのだ、との自明に、ようやくたどり着いた。
原民喜さんは、〈妻・貞恵さんの思い出〉と〈被爆〉という、書き残すべきふたつのものをはっきりと自覚し、辛うじて命をつなぎとめながら書き尽くし、何も責めず哀しみを抱きしめて、そのまま去っていった。若い頃からずっと、強迫観念に取り憑かれ怯えつづけた"轢死"に、吸い込まれるように。
それは、「透明のなかに 永遠のかなたに」(『悲歌』)魂を解き放つための、通過儀礼だったのかもしれない。結核ゆえの妻の死を、あんなに痛切に看取ったひとりの夫として。
『淡雪』で語られた夫婦の透明なるエロスを見るにつけ、同じひとつの死を死にたかった男性の孤独の淵はひたすらに深い。
そこへ折り重なっていった「これらは『死』ではない、このやうに慌しい無造作な死が『死』と云へるだらうか」(『夢と人生』)と言わしめた夥しい人間の末路。《ヒロシマ》に追いやられ引き寄せられた果ての、ある種の"処刑"だったのかとも思う。
私が小学校1年の時に学校で読まされた『ピカドン』の地獄絵図、10歳の原爆資料館...否、物心つく前からテレビで目にしてきたキノコ雲や変わり果てた姿―自分でも不可解なほどやるせなく、怯えながら悼み続けてきた《死者》たちの中に、そんな一生を生きた原民喜さんもいたのだ。
私がいかに憤嘆したところで核兵器はなくならない。それでも私は、微かな通奏低音のようにヒロシマの死者を悼んで生きてきたし、夏になるとその影が大きくなりすぎないように抑えるのにも苦慮してきた。
ひとりひとりに寄り添う想いで悼んできた中に、私の《憧れ》となった人が初めからいたのなら...報われたようで、重くなった瞼もハンカチもどこか清々しかった。
いま出会うために、ずっと心にかけてきたのかもしれないとさえ思うほどに。もちろん、これは感傷にすぎないのだろうけれど。
そして同時に、あの日から75年余り経ってもまだ地上から核兵器はなくならず、その使用を脅しのように口にしさえする指導者もいることに、原民喜さんが『氷花』で希望を託した《新しい人間》のひとりとして、いたたまれない思いだ。
その日私は、小さな男の子の手を引いて、広島の中心部を歩いていた。
3歳前後で、まだそれほどしゃべることのない年頃の子だった。
原爆ドームにさしかかる。私は敢えて何も言わずにいた。
いつも素直に手を引かれて歩くその子が、ふと足を止めた。見上げるばかりの廃墟は、明らかに異質だったのだろう。
無言のまま、無垢な瞳が崩れた壁や風雨の痕をただ見上げていた。
私は簡単に、ドームの由来を説明し、"せんそう"をするとこのようなことになる、と告げ、その子が見納めるのを待ってから目的地に向けて歩き始めた。
この小さな子もかつての私のように、ヒロシマに出会い、声なき死者たちに出会ったのだ...と思う。
立ち会えたその日のことを、私はきっと忘れないだろう。
私がこの世を去るのはまだずいぶん先のはずだけれど、もしかすると、自然の懐でも桃源郷でもなく、今後も住み続けるであろう《広島》に還るのかもしれない。ふと、そんな気がした。
本当はもっと遥かなところ、夢想のかなたに帰りたいのだけれど―。
「あとがき」より引用:
発言し、行動し、社会に働きかけていく―たしかにそれは、ペンを持つ人間のひとつの役割であろう。作家の自死を美化し、いたずらに持ち上げることも慎まなければならない。だが私は、本書を著すために原の生涯を追う中で、しゃにむに前に進もうとする終戦直後の社会にあって、悲しみのなかにとどまり続け、嘆きを手放さないことを自分に課し続けた原に、純粋さや美しさだけではなく、強さを感じるようになっていった。
現在の世相と安易に重ねることもまた慎むべきであろうが、悲しみを十分に悲しみつくさず、嘆きを置き去りにして前に進むことが、社会にも、個人の精神にも、ある空洞を生んでしまうことに、大きな震災をへて私たちはようやく気づきはじめているように思う。
私の《死者たち》に対する役割もまたそれに近いのだと思う。
本質的に、未来ではなく過去にまなざしを向けて生きているのも、そのあたりに源泉があるのかもしれない。
悲しみは、せめて悲しみ尽くしたいと念う。たとえ一生かかっても。
安らぎと慰めもまた、そのなかにこそ在るのだから。
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