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戸羽れい
2022年10月14日 16:12
先夜、市内の神社仏閣での屋外アートとライトアップの催事に行ってきました。日中は来る人を浄め癒す神社仏閣も、夜は門を閉ざし、また閉ざさないまでも、立ち入るのを拒むような気に充たされる空間になります。それはそうした場が、夜には、現世のものではないものにとっての空間となるからでしょうか。ただ、祭りの日は、人間とカミが、そして生者と死者が行き交い、出会う場となるのでしょう。私は、あの日から
2022年3月29日 19:15
夕焼黒姫山と妙高山の間に日はしずむその時みかん色の雲がすうっとわたしの目の前を通る一日の出来ごとをのせて雲は動くわたしが学校で勉強していたのは見ているだろうかこれは、上田閑照が『場所―二重世界内存在』のなかで引用した当時長野県野尻湖小学校4年生だった小学生の詩です。なぜ、この詩が紹介されたのでしょうか。今このとき「すうっと目の前を通る」みかん色の雲。それは「一日の出来ごとをのせ
2022年3月24日 21:47
昨年末、一人暮らしの母がホームに入居したので、結婚してからこのかた30年住んでいた横浜を去って、実家のある福岡に帰ってきました。自分がこれまで生きてきたなかで、一番時を過ごしてきた横浜。私の大好きな横浜。自分の出身地にもかかわらず、語尾もアクセントも福岡弁に戻ってきつつあり(帰省した時には、しばらくいると戻ってはいましたが)、食べ物の安さ、おいしさ、魚介類の安さ、新鮮さに幸せ~と思いながらも、
2022年3月24日 21:20
わたしたちが、自己というとき、その定義は大体において、デカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り(cogito ergo sum コギト エルゴ スム)」を前提としています。この「思う」とは、フランス人であったデカルトの言葉を借りるならば、penserで、日本語では「考える」という意味になります。それは、デカルトが感覚も知性も想像力も、夢か幻かもしれないと疑ってみても、疑う「私」が在らねばならな
2022年3月24日 21:10
夫が亡くなって10年経ちました。この間、夫がいない空虚さを抱えながら、それにどんな意味があるのか、問い続けてきました。その問いは、まだ続いています。幸い、夫が亡くなる前から大学院で哲学を学んできたこともあり、その問いを哲学とリンクさせながら考え続けていくことができ、今思えば、それが私の生きる支えになっていたようにも思います。私の体験を通じて哲学から、大切な方を亡くされた方々へ、何か少しでも気持