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グリーフ哲学をー悲しみのうちに

夫が亡くなって10年経ちました。この間、夫がいない空虚さを抱えながら、それにどんな意味があるのか、問い続けてきました。その問いは、まだ続いています。

幸い、夫が亡くなる前から大学院で哲学を学んできたこともあり、その問いを哲学とリンクさせながら考え続けていくことができ、今思えば、それが私の生きる支えになっていたようにも思います。私の体験を通じて哲学から、大切な方を亡くされた方々へ、何か少しでも気持ちをお届けできればと思っています。

それまで、夫は共に歩む人生のパートナーで、時には戦友のようなものでした。言葉を交わさずとも、そばにいてくれるだけでよかったのに。彼が逝ってしまい、大切な人を亡くすということは、自分の一部を失くすことなのだ、とそのとき初めて知りました。

「最も近いもの」は、足で達し、手でつかみ、眼がとどきうる平均的な範囲のうちでは遠ざかっているもののうちに、ひそんでいるのである。現存在は遠ざかりの奪取という在り方において本質上空間的であるゆえ、・・・・われわれは、距離ということから言えば「最も近いもの」を、さしあたってはつねに聞きすごし見すごしてしまう。
(M.ハイデガー『存在と時間』第23節、原佑・渡邊二郎訳、中公クラッシックス)

私たちが事物を見ているとき、自分から距離のあるものを自分のもとに近づけようとしているわけです。こうした遠ざかりの奪取という在り方によって、私たちは「今、ここに」在ると言えるのです。ですから、遠ざけられない限り、「最も近いもの」には気づかない。

自分にとってもっとも身近でかけがえのないものは、あまりに自分に近すぎて気づかないものなのです。

夫の死後、彼のことを、彼の生前以上にいろいろと思い、悲しみ、苦しみ苛まれましたが、それは死によって隔てられた彼との距離を縮めようとする営みであり、それによって、自分もまた今ここに在ることを実感しているのかな、と思います。

それがたとえ辛い実感であろうとも。




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