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#RTした人の小説を読みに行く をやってみた【第1回総評】

「書評・批評がそれ自体独立したコンテンツとして楽しめるように」をテーマとしてはじめた、「#RTした人の小説を読みに行く をやってみた」は、ひとまずイキりすぎて炎上することなく、無事に10人の作者の10作の小説についてレビューをつけることができた。
 これはひとえに応援してくださっている方々と力作を惜しみなく寄せてくださる実作者のみなさまおかげで、また文学好きの方々をはじめ、作家・編集者・書店員・校正などいろんな立場から「本」に携わっていらっしゃる方々が何らかの肯定的なリアクションをくれることが大きな励みになっている。本当にありがとうございます。

 先週末にはじめたばかりだけれど、最初は複数の友だちから「お前そんなやって大丈夫か!?」「下手な小説を読むとじぶんまで下手になりそうじゃない?」などの意見も(裏で)実はあった。たしかに、失礼を承知でいうことになってしまうのが、ご紹介いただいた小説は必ずしも「技量が高い」とはいえない。むしろ、「下手」とおもうものが大半だ。
 しかし、だからこそじぶんの実作をいろんな角度から見つめ直すきっかけもたくさん生まれているのもまた事実だ。「下手な小説」とは言え、やはりそれなりのまとまった分量を書くことができるというのは一種の才能でもあるし、未熟だからこその無邪気な初期衝動のエネルギーもある。町屋良平「1R1分34秒」の書評でも触れたこうした無邪気な「初期衝動」は小説を書けば書くほど減衰していく運命にある。これがもたらすエネルギーに対し、実作における技術や分析がどう関われるか、どう共存できるか──そういうことを考えるのはある意味で「初心に戻る」という意味合いも強く、読むたびにかつて考えたことが浮上したり、かつて考えられなかったことが姿を見せたりする。

 Twitterの「#びんたの小説感想集」というタグでまとめているけれど、さすがに雑然としているので、10作読んだら総評としてnoteにまとめて行こうとおもう。
 しかし、ただ総評としてまとめるのもあまりおもしろくはないので、お付き合いいただいているみなさんと「遊べる」ようにしたい。「批評」を大事にしたいけれど、あまりハードになりすぎず「ラジオのハガキ投稿」みたいな気軽さで楽しめるコンテンツでありたい。

 そこで、今回は試験的にレビュー対象となった10作から「大滝瓶太奨励賞」なるものを選出してみた。

 ただでさえ高度10,000メートルから見下ろすようなスーパー上から目線なのに、自らの名前を冠した文学賞を創設するなどイキりオタクLv.99かよ!的なツッコミもあるかもしれないが、あくまでも余興として楽しんでいただければ……とおもう。
 もちろんやや強引なのは承知の上だ。
 あえて相対的に「評価」してみたが、その評価軸は雑多にある。そのため、「どう印象に残ったか」という主観的な立場からで申し訳ないが総評(選評)のようなものをやってみた。

 まずは対象10作のレビューを紹介する(作者名は敬称略)。レビューについて、ぼくが論点としたことをピックアップしタイトルとした。

※諸事情により、1作品のレビューを取り下げました

泥にピアスsae】詩情と抽象・具体

 初々しい文章だな、とおもいました。小説の構築においていま・ここに世界が物質的な手触りをもって存在しているというよりは、印象として弱く儚く存在しているという感触がありました。
 こうした作品づくりの方向性についてはカラーであるとおもいます。しかし、(比喩的な言い回しになりますが)ご自身で書かれたこの小説を立体としてとらえたとき、その陰影への配慮がまだ足らないかな、いいかえれば、全体的に靄がかかっているような見通しの悪い視界なのですが、そうした世界のみえかたに対してあまり自覚的ではないのかな、という印象を受けました。
 見通しの悪さや、どこかピントの合わない情景を描写することにより、小説を知覚する視力を読者から奪うことができます。それゆえに世界は抽象の様相を帯び、ことばが作る詩情が鮮明化されるという風にぼくは考えます。しかし、「詩的な」表現をつくりあげるにおいて、情景のディティールをそぎ落として抽象化させることに頼りすぎな印象があります。
 千原ジュニアは、
「お笑いの分析は困難だ。たとえば板尾創路が仁王立ちしているだけで異様におもろい。これをどう説明したらよいかわからない」
 といったのですが、「おもろい」という詩情に対し、ここには「板尾創路がここにいる」という徹底した具体性しかありません。なぜ・どうして詩情が生まれるのか、それがたとえ表面上の詩的表現がなくても生まれうる……そうした可能性に目配せをしながら文章を書くと、より実作がおもしろくなるのではないかとおもいました。

インド水塔オカワダアキナ】象徴化を拒否する

 世界のなかに配置されながらも、その世界との相互的なつながりを持てずにいることで生じる「孤独」のありように現代的なものをかんじました。
テクノロジーと存在論を結びつける作品として、今回芥川賞を受賞した上田岳弘『ニムロッド』が挙げられます。
「取引台帳を全体で共有することにより、概念的なものの存在を承認するというビットコインの仕組みを拡張させた認識世界を描いた」この作品において、その対極となる「世界のだれにも存在を認知されていないが、物質として物理的に存在しているもの」への信頼へのまなざしが、懐古的で郷愁に満ちた感覚をともないながらも未来的な意思をもって提示されています。
 御作品『インド水塔』にもそうした構造をぼくは感じ取りました。砂粒(の影)、いじめ、靴、TikTok、インド水塔は、どれも男の子との相互的な関係性を持ってはいません。それぞれがそれぞれのありようを物質的、物理現象的にただ示しているだけであり、その相対化不能のまなざしによって男の子自身もまた「世界のだれにも存在を認知されていないが、物質として物理的に存在しているもの」とした郷愁にも似た孤独な存在を獲得しています。わずか10枚ほどの掌編でこれだけのギミックをたくみに編集し、それを浮上させた技量は高いとおもいます。
 総じておもしろく読みましたが、欲を言えば「孤独」というイメージそのものの解体まで至って欲しかった気持ちもあります。田中慎弥のデビュー作『冷たい水の羊』でもいじめが主たるモチーフになっていますが、いじめを受ける主人公はみずからに起こる物事をいじめと認識することを拒み、他者との相互的な関係性を築くことない生活のなかに「孤独」とは似て非なる感覚を見出すことに成功しています。『インド水塔』では個人の存在を複数のギミックを用いて象徴化することで小説として閉じるように設計されているという印象を受けましたが、その象徴化を拒み、より遅延させることで新たな認識を想像する作品へと飛躍するのではないか、と思いました。

さかなろぐ君はスター】フィクションたる想像力

 御作品を拝読し「フィクションとしての虚構性をどのように導入するか」ということをおもいました。もっとも、こう切り出してしまうと「フィクションとはなにか」というでかい話になりそうなのですが、たとえ現実に起きたことや実際に経験したことではない「作り話」を書いたとしても、それはおそらく「フィクションたる想像力」には直結しないとおもっています。むしろ、現実に起きたことや実際に経験したことを書いたとしても、散文表現としていかにまとめあげるか次第で「フィクションたる想像力」を得ることはできると、ぼくは考えています。
「君はスター」では、小学生による悪意未満の悪意を、それが生起し増殖するコミュニティの内部と外部の境界に立つストレンジャーの「僕」が目撃するというお話だと読みました。この立ち位置には妙があり、読み物として成立させるのがむずかしい小学生的ユーモアや「くだらなさ」を斜めから叙述することを可能にし、「盛大にスベる」ことを回避することができています。しかしながら、全体的に小学生時代のエピソードトークの域を出ておらず、最後にオチをつけることによって、この小説で起こっている微かなグロテスクが毒抜きされてしまっているように感じました。「フィクション」というよりも、「気の利いた小話」になっています。
 ぼくはオカワダアキナさん「インド水塔」の感想で、「ギミックの処理の巧みさゆえに、小説の象徴化が小説を小さくしている」という旨を書きました。「君はスター」ではひるがえってむしろギミックの積極的な構造化と象徴化を行うことで、想像力を発揮することができるようにかんじられました。
[五年一組の朝の会はとつぜん裁判になった。]
 という書き出しはとてもよいです。子どもたちが悪意として認識していなかった事象が、「朝の会」という裁きの場により悪意として認識させられてしまうという、見方によっては暴力性も孕んだ認識変化がここで生じます。この微かだけど水面下にひそむ暗いものを白昼に曝す場として「裁判」というイメージはより強調してもよかった気がします。このことばを軸とした運動を過剰にしていくと、後半のエピソードが一種のパンデミックじみた狂気を帯び、「あるあるネタ」から迫力のある短編になったとかんじました。
象徴として機能することばの背後に回り、それをふくらませ、構造化させる習作をいくつか書いてみると「エピソードを編集する」という感覚、そしてその手つきにある小説的な想像力の感触をつかむことができるんじゃないか、とおもいました。

楓双葉らぶりつください】「制作的空間」の発見

 冒頭で渋谷ハロウィン仮装の自撮り、Twitterの「らぶりつ」によるどこか空疎な承認欲求の提示に、「虚飾」というイメージが浮かびました。そこにあるのは「SNS上のアカウント」と「中のひと」の乖離であり、この小説で「愛」を求める登場人物(麻衣、優奈、陸)は、その人格を一致させた状態での承認を「愛」とみなそうとした、というふうに読みました。
「作られた私」と「生身の私」がアカウント名と本名で区別され、また、TwitterとLINEの微妙だけど重要な使い分けが両者の距離の伸縮をうまくあらわしていることにおもしろさを感じました。TwitterとLINEの中間にあるのは「虚飾をまといながらそれを脱ごうとする私」という中間的であり、「先の2つの私のどちらでもない私」という第3の人格です。
 上妻世海「制作へ」ではミメーシスにより生じる「制作的空間」というものが論じられています。ざっくりといえば、なにかを行おうとする人物はその「何か」に擬態することで、私でありながら私でない、しかしたしかに私であるというものへと変貌する……という議論がなされているのですが、メイクにより制作された「私」がその虚飾を脱ごうとする行為もまた、「私ならざる私が私を擬態する」という行為であるとみなすこともできるかもしれません。そうした複数化された私が複雑に絡み合う「SNSから現実への移行」がこの小説で提示された「愛」という多様であり一言では言い表すことのできない対象に散文表現として迫る可能性をもっている、と感じました。やや象徴的な言い方をすらば、「愛の制作」というものになるかもしれません。
 以上を踏まえると、短い尺の作品を群像劇にしたことにより「わかりやすくなりすぎた」と感じました。群像劇により複数人が「愛」を中心として錯綜するようすが描かれていますが、「作られた私」と「生身の私」の線引きが明確化しすぎたかもしれません。そうした二元論では至ることのできない「そのどちらでもない領域」へ向かうには、短編であれば麻衣ひとりの物語に注力したほうがむしろ作品の迫力が出たとおもいます。
「わかりやすさ」の重要性はもちろんですが、楓さんは「わかりにくいこと」をわからないままに考えながら書くといいのではないか、とおもいました。

作家の稚魚極夜】「下手な小説」はおもしろいか?

 個人的にはかなり衝撃的な作品でした。この小説をひとことでいうなら「とてつもなく下手くそ」です。もちろん、御作をけなしたいがためにこのようなことばを使っているわけではありません。
「極夜」は両性具有である主人公のウメコの身体の中にしかリアリティが存在せず、その外部にあるもののディティールの一切が排除され、描写と呼び得るものもない。それによってこの物語は「両性具有」という語り手の虚構性の高い想像力でつくられた身体だけにリアリティが与えられ、逆に世界のほうがリアリティを喪失するという「リアリズムの奇妙な逆転」が生じています。
「虚構性の高いリアル」が世界を改変していくかのように物語は突如としてB級ホラーの様相を帯び、「両性具有」というイメージが歓喜するジェンダー論的な存在論をおきざりにするかのように物語は支離滅裂に進行し、読めば読むほどこの小説に現代社会的な意味などもとめることがバカバカしくなるような、そうしたたくましい想像力を感じました。この小説のすべてがダメダメでも、この一点だけは信じてみたい……と感じるひとがいても不思議ではありません。
 冒頭で述べた「下手さ」なのですが、圧倒的なディティールの欠如、そもそも描写しようとする意思すらない開き直ったかのような態度、シーンの見せ方や展開をまったく考慮せずめのまえの事象にしか興味を示さない行き当たりばったりの筆致など、「小説をおもしろくしようとする技巧」の不在を意味しています。じっさいにこの小説で中心に据えられた「両性具有」という主題は、フェミニズムやLGBTに関する議論が活発化している昨今を鑑みれば、そこに焦点を合わせてウェルメイドに仕上げることは「かんたん」です。そうすることでヴァージニア・ウルフや、現代作家では藤野可織、古谷田奈月、チママンダ・アディーチェなどがアプローチしている問題へと正攻法で立ち向かえた気がします。
 しかし、そうしたものに関心を示さずに、欲望のままに一行空きを挟むことなく小説を書いている瞬間にしか現れないような即興的なインスピレーションだけで絵巻物のように書ききったことに強い魅力を感じました。
 ただ、このままではさすがに読めたものではない、という気持ちも同時に抱きました。ちゃんとした小説であろうとする気持ちが、どこかご自身の想像力の枷となってしまっているような感触がありました。そのため即興的な想像力だけを武器に小説を書ききった吉村萬壱「クチュクチュバーン」やエイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」に比べるとやはり何段階も劣っている印象が拭えません。一度、この2作や、こうした想像力の暴走をメタ化してあざ笑うかのような作品としてジェシー・ケラーマン「駄作」を読んでみるといいかもしれません。とにかく、ご自身が持っている想像力が、すでに世にある小説とどれだけ張り合えるかを読書によって試して欲しいとおもいました。
 この作は文藝賞3次選考通過ということですが、もし「もっと上にどうしていけないのか」など新人賞の結果を気にされているなら、(むずかしいことですが)それはいったん忘れてしまったほうがいいとおもいます。
 個人的に変に小説が上手くなって「ふつうにおもしろいつまんない作家」にはなって欲しくないという気持ちがあり、実作を中心に考えたとき、どうか本当に向き合うべきもの間違えないで欲しい……とかんじました。期待しています。

Kengo MatsuoAutocracy Idea】SF的想像力とはなにか?

 ぼく自身もSFに類する小説をよく書くのですが、その際にいつもおもうのは「SF的な想像力とはなにか」ということです。
SFという表現では自然科学においてなんらかの「虚構」が生じるわけですが、特に大事なのは自然科学におけるどのフェーズでこれを配置するかということだとおもいます。ここで自然科学を上流にいくほど「原理的なもの」、下流にいくほど「プラクティカルなもの」というふうにとらえることにします。自然科学が自然科学たる厳然さを有するのはその確固たる因果律にあります。
 これを踏まえてたとえば「グレッグ・イーガンがどんなSFを書いているか」を考えると話はわかりやすくなるかとおもいます。かれのSFでは「宇宙やばいから別の宇宙をつくろう!」みたいなことを平気でやるわけですが、それができてしまうのは自然科学におけるかなり上流のところ、ぼくたちがほぼ無批判に使用している物理法則を独自の想像力で改変しているからです。イーガンはその核となる部分「だけ」を虚構とし、その虚構から導き出される物理現象を厳密に描写・説明します。たったひとつの「嘘」で、ぼくらが到底想像もつかない因果律を構築してしまっているわけです。
 話を戻すと、フィクションとして自然科学のどの「フェーズで嘘をつくか」によって、その小説固有の因果律が決定的に特徴付けられます。ぼくはの小説固有の自然科学的因果律を「SF的想像力」とみなしていて、自然科学の上流に「虚構」が配置されるほど、SF的想像力という固有の因果律の規模は大きくなります。
 御作品「Autocracy Idea」をSF作品とみたとき、「どこで」「どのような」嘘をつき、「どんな因果律」を作れているかをご自身で確認してみるとよいのではないか、と思いました。「アンドロイド」や「心」といったものはもはやSFとしての記号ではあっても、想像力たるオリジナリティは有していません。そうした現代SFの文脈のなかで、実質的になにを借用し、なにを独自に作ったのかをまずは自覚することがSFの実作の第一歩ではないか、と感じました。
 現状では、SFの記号や物語のプロットに振り回され、「小説に書かされている」ような不自由さが目立ちます。
 また、戦闘を含むSFでは見せ場となるアクションシーンについて、おそらくご自身では映像がありありと浮かんでいたのだろうな……という風には感じるのですが、文章表現としては擬音と勢いに頼りすぎていたと思います。
 映像作品からインスピレーションを受けることは良いことだとおもいますが、映像と言語表現での根本的なちがいを念頭において参考にすると、より豊かな文章表現の世界をたのしめるのではないか……と思いました。

相沢招人/サイコパスな父親のサイコパスな息子がサイコパスを生み出そうとしている件について】作者を超える知性を書く

 小説世界の構築において細かいことを言い出せばその数は途方もなくあるのですが、そのすべては「作者が作者よりも高い知性を描けていない」というひとつの理由に収束するとかんじました。ある意味でこの小説の意味として掲げられたことが、その制作の次元において重大な問題になっているともいうことができるかもしれません。
「じぶんより賢い存在をいかに書くか」という問題を考えるとき、まず浮かぶのがボルヘスの存在です。ボルヘスの詩人としての業績は途方もないですが、そのうちぼくが特にこの詩人にかんじるすばらしさは「書かれていないことをすべて書くことができた唯一の実作者」であったことだとおもっています。ボルヘスの文章は、テクストとしてそこに書かれていないすべての事象に向かって放たれており、それゆえに文章を書き、所有するものが存在してしまうことで生じてしまう「天井」を軽々と超えて跳躍します。ボルヘスを読まなければボルヘスの世界は立ち上がりませんが、そこにボルヘスの世界が書かれているというわけでもありません。そうしたありかたを実現する詩情が、作者をはるかに超えた知性に届きうるのです。
 こうした詩情が小説実作における実践的なものとして扱われているのが、スタニスワフ・レムによる架空の本の書評集である「完全な真空」や実在しない本の序文集「虚数」です。これらはともに「実在しない本」という架空の知性に向かう想像力が発揮されているのですが、提示されるテクストはその想像力の中心にあるもの(=本そのもの)ではなく、その周辺です。この想像力とテクストの位置関係によりボルヘス的な詩情が生じていると考えることが「じぶんより賢い存在を書く」ことのおおきなヒントになるとおもいました。
 また、過度に虚構性の高い設定を扱うためにはディティールがかなり足りていないと感じました。ディティールの役割については、おなじくサイコパスを扱った貴志祐介「悪の教典」が参考になるかとおもいます。この小説は上下巻ありますが、最大の虚構である「クラス全員を一夜で殺害」というシチュエーションを実現するための舞台設定、犯行を行う蓮見の「サイコパス」たる人格の構築を、全体の7割近い分量を割いて緻密に行なっています。こうした細部の構築はそれじたいが持つ情報以上に、雑多な情報が非線形的に作用するような現象を引き起こします。
 ボルヘスは著書のなかで、
「偶然と言うものは存在しない、私たちが偶然と呼んでいるのは因果関係の複雑な仕組みに対する私たちの無知である。」
 と述べています。小説におけるリアリズムとは展開のベタさではなく、実のところは事象の複雑さを言っているにすぎないのかもしれません。そしてこの複雑さを織り成す細部にこそ、神たる知性が宿っているようにぼくは感じました。

吉田タツヤ鳥居を抜けたら……】「表現媒体の差異」と「小説へのエンコード」

 バック・トゥ・ザ・フューチャーをkey作品風に仕立てた作品とかんじました。しかしどこか小説としての味わいが薄く、特定のストーリーテクストだけを抜き取った美少女ゲームの劣化版といった印象も同時に持ちました。ちょっと小高い町から離れた場所がもたらす感傷、タイムパラドクスを含む恋愛といった、いわゆる「泣きゲー」の記号が強調されていますが、そうしたものが持つイメージの解体・更新意識が見られず、わかりやすくやさしい「良い話」に徹しているとはいえ、読んでいて常に既視感が拭えません。
 アニメやゲーム、映像作品からの影響を小説に持ち込むこと自体は自然なことだとおもいますが、別の表現媒体のインスピレーションを持ち込む際は、小説という表現媒体への「エンコード」に注意するのがよいとおもいます。たとえば冒頭では、
「では、今からみんなの楽しみにしている通知表を返すことにする。名前を呼ばれたら順番に取りに来なさい。じゃあ、一番、相沢高志……」
 というセリフがありますが、小説という表現において「どのように聞こえるのか」という配慮が欠けているかもしれません。
 アニメなど映像作品ではこういったモブキャラのセリフが物語の幕開けで挿入されることはよくあります。しかしギリギリのところで陳腐さを回避できているのは、声優の演技やアニメ制作における編集といった表立っては見えない技巧によるところが大きいからです。こうした声は背景的なもので、このセリフ自体には物語的意味はふくまれず、よくある情景を読者のなつかしさに「音」して触れることで作品舞台の立ち上げという機能を果たします。そのためアニメ作品などでよくある情景のセリフだけをべたっと配置しただけでは、「声」が存在感と意味を持ちすぎてしまい、淡く壊れやすい感傷を扱うには繊細さに欠けるかとおもいます。
 このように、ご自身でお持ちの映像的イメージを文章表現に落とし込むにあたっての「エンコード」がされていない表現が「」や()で書かれるセリフや思考、描写に散見され、痩せた小説にしてしまっていると感じました。
 また、タイムリープを扱う作品にしては時間の処理がかなりあまいとも思われます。主人公とヒロインの生きる時空の差を、夏休みという限られた期間内に圧縮したことで「悲恋(切なさ)」のイメージが増幅されている構造を持っているにもかかわらず、時間の経過を「それから何日たったのだろう」という表現で適当に処理している箇所が随所にみられています。
 声の聞こえかた、時間の処理、小説だからできること、そうしたものに注目しながら実作にとりくんでみると、よりご自身でもこの小説をたのしめるようになるとおもいます。
 朝吹真理子「流跡」「きことわ」「TIMELESS」を読むと、ここで述べたことを具体的な感触として楽しめるのではないか、と感じました。

水野洸也叛逆する乙女たち】神話と現実、そして「軽さ」

 素朴で滑稽なユーモアにユニコーンを掛け合わせることで作り出した個性的な神話的情景と、それが根付いていながらもどこか相容れない日常のコントラストが光る掌編小説と読みました。「み」に関する神話はそれ自体が強い独自性をもった想像力であるため、小説全体に大きな重力を発生させてしまうものですが、それをカジュアルな物語の背景として後ろに回り込ませることで重くなりすぎりことを回避し、(フィクション的な)強い想像力世界と非想像力的世界のバランスをとりながら、ちょうどよい距離を保った相対化が実現しています。このバランス感覚がこの小説の白眉であると感じました。
 小説の「軽さ」について、神話・民話の重要性を主張したイタロ・カルヴィーノの「アメリカ講義」内でも述べられています。文学として存在しようとするテクストはそれが積み重ねられることによって、想像力と現実をはじめとする雑多な対立構造を自発的にその内に抱えることになります。あくまでもぼくの解釈ですが、そうしてもたらされる複雑な存在や意味の重さから飛翔し、かつその重さを讃えたままに自由さを保つ術として、カルヴィーノは小説に「軽さ」を求めたのだろうとかんがえています。
 カルヴィーノは「軽さ」について「アメリカ講義」内でイタリアの詩人カヴァルカンティを例とし、以下の3つを提示しています。
1:言葉の軽さを目ざすこと──これによって意味は、重さを失ったかのように織りなされる言葉の上を運ばれてゆき、ついにはまさに希薄になってゆきながら、しかも堅固な存在を帯びるにいたるのです。
2:微細で知覚しがたい要素が作用している推理、もしくは心理的な過程の叙述、あるいは高度な抽象化を伴う描写。
3:象徴的な価値を帯びるような、軽さの表象的なイメージ──ボッカッチョの物語(ノヴェラ)では、ほっそりした脚で墓石をひらりと飛び越えるカヴァルカンティのように。
 本作「叛逆する乙女たち」はまだ「重さ」が拭えないところがあり、それは「み」の神話や少女たちの記述が、説明的になりすぎて詩情がスポイルされているところにあると感じました。もちろん、「説明」が悪いという立場を取るつもりはなくて、この10枚程度の掌編を伝記的に圧縮して叙述するならば、「説明」がもたらす強固な存在や重力はむしろ武器になったとおもいます。しかし、この小説に形成されたあまやかさや色艶といったものは、方法意識が徹底されていない説明がもたらす「重力」によって潰れてしまったような印象があります。
 これらについてはまだまだ検討の余地があり、よりこの小説に軽さと自由さをもたらすことができたはずです。ご紹介いただいた文章を読む限り筆力・批評性ともに高いポテンシャルをお持ちだと察しており、おそらくぼくがいうまでもないだろうと薄々おもっているのですが、詩情にも方法論にもストイックに実作と批評を続けたカルヴィーノは水野さんの作風の強度を高めるうえできわめて重要な先行作家になるとおもいます。
 総じて良い掌編だとかんじ、おもしろく読ませていただきました。

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