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扉は開けたい派?閉めたい派? から価値観の違いを深読む。

同じ文化で育った人同士でも、「え、それそうする!?」みたいな小さな違いって、たくさんあると思うんです。育った家庭の影響が大きいんだと思いますが、私は、そんな小さな「〇〇派」の裏にある価値観とかを、勝手に深読みするのが結構好きです。笑

今日は「扉は開けておきたい派と、閉めておきたい派」について。

扉は開けておきたい派の私。対して、ベルギーで育った夫は閉めておきたい派。これはもう国とか関係ないかもしれないのですが。

私は、寝室の扉、書斎の扉…トイレの扉はさすがに閉めますが笑、とにかく扉は開けておきたい。あと、チャンスがあれば窓も開けておきたい。

そんな私の「開けっ放し」を不思議な目で見ながら、そっと閉めていく夫。笑

この違いを発見してから、「なんで私は閉めたくないんだろう」と自問するようになりました。「何か心理的な背景があるのか…?」と。

そんな考察の中で、現時点で考えているのは、

座敷で育った私にとって、「家」っておおきな一つの空間として認識していて、必要に応じてフスマで区切りはするけれど、基本的には一つの部屋、みたいな感覚があるんじゃないかということ。だから、ノブ付きの扉で、一つの部屋であるはずの一画に、完全に空気が断たれてしまった別の空間を作ることに違和感があるんじゃないかと。…そんな深読みをしてみて楽しんでいるわけです。笑

これってお寺を訪れる時の感覚と似てるな、とも思ったんですね。お寺って「外と内との境目が曖昧」と思うんです。だいたい開けっ放されているし、お寺の中から目に入る自然こそがお寺の一部であったり、外の自然と一体となってることこそがお寺が清いと感じられる所以であったり。

対して閉めたい派の夫は、扉は空間を仕切るために存在してるんだから、閉めなければそこに扉がある意味がない=扉は、閉めることで扉としての存在意義を果たす、という感覚があるのかもしれません。確かにそっちの方が論理的に筋が通ってますねー。

そしてカトリックの教会も、今考えるとやっぱり外から完全に遮断された空間なんですね、あれ。それこそ石の壁と開かない窓(ステンドグラスの)で囲まれ、扉は2重3重になってる。外と遮断されているからこそ尊い、という感覚が、どこかにある。

ということで、扉の派閥の裏には、実は宗教的(文化的)背景が隠されている…!という深読みでした。

日本人同士でも、この「開けておきたい派」と「閉めておきたい派」って、別れるもんなんでしょうか。いや、別れるはず。ちょっといろんな人に聞いてみたいな、と思い始めた今日なのでした。

富山の漁村からフランス留学・就労→日本で就労→ベルギー移住。プレゼンクリエーターをしていましたが現在移住先のベルギーでの新しい生活で俄然人生もがき中。ここでは「留学」「語学」「海外移住」「ベルギー」を中心に日々の考えを振り返るために書いていこうと思ってます。