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学校の成績が低い=バカ?ダメ人間?

おはようございます。河野企画代表、チューバ奏者、指揮者、金管バンド専門家の河野一之です。

僕は小中高校と学校の成績は真ん中ぐらい、特に悪いわけでもなく良いわけでもない。得意な科目は強いけれど、それで弱点を補っているかのようなある意味分かりやすい人間だった。

そんな中僕の親友の一人は全く学校の勉強に興味が無かったようで成績はとても低く、一緒に行こうと誘った学校のレベルにも合わなかったので一人だけ彼に合う高校に行き、もう一人はとても要領の良い奴で勉強をしようと思えばできるけどこのぐらいで良いかなと僕と同じレベルの学校へ行った。

彼らとの会話の中で、冗談半分で普通科の学生だった時の成績の悪さをからかい合う時もあるけれども、本気で馬鹿にしあう事はない。それは今ではそれぞれが自分の適正に合った専門的な職業についているからだ。

僕も音楽家で言うなれば技術職、手に職を持った職人のような職業であるが、他二人も全くそうで、彼らにしかできない仕事があるためその責務を任されている。

こうした時に、いつも思うのが、学校の成績が低い=バカ、ダメ人間という訳では決してなさそうだ、というのが僕の結論。

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学校の成績

小中高で学べる内容は過去に生きていた人たちが世の中の仕組みを解き明かしたり記録したりしたものを説明され、暗記し、どれだけそれを覚えていたかで成績がつく。(かなり大雑把、生活態度とかは別物とする)

なので記号の暗記など、ただそのものをコピーするかのような暗記が大の苦手な僕は数学、英語、理科、社会がとても苦手であった。なので成績もそんなにふるわなかった。

逆に国語や現代文、社会の中でも歴史、理科の中でも実験などの実働を伴うもの、実技が伴う音楽は”物語”を見出したり、”意味”が理解しやすかったり今生きている現実世界との関わりが深いものが多かったので僕にとってはすんなり入ってきて成績は良かった。

国語や現代文なんて小説を読むように読んでいたし、歴史の教科書も自分が暮らしているこの世界で実際に過去に起きた事、祖父母や祖先たちが生きてきた物語が載っているので興味が湧くし、理科の実験だって日々の生活に応用されているものも数多い、音楽は完全に感性が合った。

教えてくれる教師との相性、自分の特性、運というのも大いにあると思うが、こういう風にそれぞれが本来は個性を持って受ける授業、テスト

その結果次第で一人の人間の価値がバカ、ダメ人間、良い人間、天才という風に小学生だったらたかが数年、中学高校であれば10数年生きているだけの人間に烙印を押すのはかなり無理やりだ。人間70年生きたとしてそのうちの小中高で12年間つまり1/6しかない、かなり無理がある。

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特性

なので好成績というのは

この国の指導法に合わせられ、教師たちやそれぞれの学校の教育方針にも合致し、家庭環境もそれらに合い、教育資金も潤沢にあり、同級生や友人たちとの相性やいじめなどの天災にもあわないというかなりの低確率な人のみ得られることとなってしまう。

学校の成績が”絶対的”な力を持つと、この低確率なウルトラ狭き門を通れたもののみが社会に迎合され認められるような錯覚に”その教育機関の中にいると”感じられるようになる”だろう、なぜならそれがその時の全てだから。

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では僕たちは?

最初に書いた通り、それぞれ学校に合わせられた人、合わせる努力はできるけどしんどい人、合わせられない人と3人それぞれだった僕たちだけれども、家庭環境かそれぞれが生き抜いてきた環境か今現在ではそれぞれ手に職を持った技術者、芸能者として生きている。

個性が強いからか、個性を認められてきたからかわからないけど、一般職と呼ばれるような職には誰一人付いていない

でも今だに会っては酒を交わし、笑いながら話している。つまり幸せな生活をしている。

学校に合わせることができた一人を除いて、他の二人合わせるのがしんどい人と合わせられない人、それにより学校の成績が良く無かった人たちはダメ人間なのか、馬鹿(知能が低い、役に立たない)な人なのか

僕はそうは思わない、なぜなら僕の印象では学校の成績が良い=
この国の指導法に合わせられ、教師たちやそれぞれの学校の教育方針にも合致しているということだからだ。

さらにこれらを滞りなく済ますには家庭環境もそれらに合い、教育資金も潤沢にあり、同級生や友人たちとの相性やいじめなどの天災にもあわないという条件付きである。

かなりの高難易度だ。

もちろん社会で生きていくにはそれぞれの組織や団体に所属する必要も多くある。そうした場合その組織が提示する条件に合致した能力を提示する必要があるので”決められたことをやる”という能力は必要だ。

しかし、そればっかりでは今すでに進んでいるが機械がやればいいという話になってしまう。

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まとめ

これこそ今のやり方からの方向転換がかなり難しいと思うが、小中の義務教育期間、そして社会全てが

それぞれの人の個性を活かし、認め合い、大事にできる世界

になる必要が本当にある。

たまたま僕たち3人は家族のおかげで個性を大事に自分の生きる道を歩んで何を言われてもここまで歩いてこられたがそうでない人たちは認めてもらえる場所も無くただ学校の成績で全てを決められる人もいるかもしれない。

もしその狭き価値観しかない学校や家庭環境にいた場合、まるで海でしか生きられない魚が淡水の川に入れられのと同じ状態になるだろう。

英語の成績が5段階で1や2だったとしても留学はできるようになるし、仕事で英語を使うようにもなれる。

海でならのびのびと自分の能力を活かせるのに、同じ水中、魚というだけで淡水に入れられたばっかりに呼吸もしずらく、浮力も違い身体がうまく動かせず、その淡水の中で繰り広げられる比較にさらされ”馬鹿”、”ダメ魚”という烙印を押される。

今現在小中高校生のご指導をさせてもらう機会も多いが多くの子達は
・問題が分からなくても分からないと言ったら怒られると思い沈黙する。さらに質問が来ることに恐怖を感じている
・レッスン中に水を飲むor鼻をかむのでさえ自分から言い出せず、喉が乾いた状態、鼻水が詰まった状態で頑張ってやり続ける。
・言われた通りにやらなくてはならないと身体が緊張している
etc

とどこで習ったのか緊張+楽しくない状態で僕の所に音楽を習いに来る。

・言われたことをやる、できるようにする=正解なのか
・自分で考える能力を育てる=正解なのか

僕は子供たちがそれぞれの個性のもと、自分で考えその時その瞬間どうしたら良いのか成功と実験の元繰り返せる自由な環境をせめて学校で教育を受けている時点では用意したい

その学校にいる時点で自由を奪い、考える力を無くさせ、失敗に恐怖を感じさせたら、それは辛いし動けなくなるよね

今日はそんな話

Thank you

Kazz






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