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何をアウトプットしても、インプットする人によって全ては変わるよね

こんばんは、音楽家の河野一之です。

今日はアウトプットの話。

もくじ

僕よりも若い世代の方々とお話しさせてもらう時には必ずと言っていいほど「アウトプット」をオススメしている。

自分の考えや体験を外に発信していくことでその身に宿る様々な可能性を誰かに知ってもらい、多くの機会に恵まれることもあるかもしれないし、何より自分自身がインプットしたことを再確認し、自分の中に落とし込むことができるからである。

しかし、多くの場合アウトプットした後の周りの反応や”失敗”の二文字に恐怖を感じ多くの人が二の足を踏んだり、継続ができてないようである。

今日はそんな方々へ送るエールと河野の体験談。

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自分の正解が誰かにとっては不正解である。

自分が感動したり、心を動かされたりしその内容を発信したとしよう。

ある人は共感してくれてポジティブな反応を返してくれる。でもその逆もあって自分が素晴らしいと思うものを全く反対のネガティブな印象を持つ人もいる。

これはきゅうりを愛する人もいるけれども、苦手な河野もいるのと同じ人の好みだ。

ここで一点例を出す。世の中というのはネガティブなコメントが目立ちやすい。例えば飲食店でもちょっとした内容でもクレームになってしまうこともあるけれども、ちょっとした店員の親切やファインプレイをわざわざ褒める人は少ない。

クレームを入れる人と褒める人で言えば今のこの世界は残念なことにクレームを入れる人の方が圧倒的に多い。なのでそういうネガティブなコメントの方が目立ってしまうのだ。

でもそこで発信を諦めるのではなくネガティブなものも来る可能性があるとしたらもう一点の可能性にも着目したい。それが

こちらの発信に関してポジティブに反応してくれる人の存在
更に言えばこちらの発信がお役に立ちその人の何かのためになること

これだ。どうしたってネガティブなコメントや反応の方が目立ちやすいけれどもその裏にはその数と同じくらい潜在的ポジティブな反応は隠れているはず。そこを信じて発信を続ける。

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インプットする側によって全ては変わる

僕の大好きな蒙古タンメン中本の激辛ラーメン

普段どれだけ大好きだとしても、もし風邪をひいていたり体調が悪い時であれば油分や塩分、そして辛さで気持ち悪くなってしまうだろう。

これと同じことで(?)、こちらがいくら素晴らしいアウトプットを行なっても、どれだけ陳腐で適当なアウトプットを行なっても

インプットする側、つまり受け取り側の受け取り方によって全て変わる

のである。

丹精込めて研究をし、時間をかけて作ったブログの1記事が全く評価されない時もあるし、逆に二日酔いの中絞り出すように書いたいつもよりも1/3の文字数の記事がバズる時だってある。

つまり発信、アウトプットを行なったが最後、そのアウトプットされた記事や内容は自分の手を離れている。あとは受け取り側、インプットする側に任せてしまえばいい。

それでネガティブな反応があれば「あなたはそう思ったんですね。」で終わればいい。

ポジティブな反応には「ありがとう!」で済む話だ。

納豆を嫌いな人もいれば好きな人もいる。納豆自身が納豆を嫌いな人のために変化することは不可能だ。でもその納豆がすでに好きな人のために存在し続けることは可能だ。

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まとめ

僕は人類70億人もいるわけだから、その中で誰かしらにわかってもらえればいいし、誰かの役に立てているのであれば大万歳だ。

でもきっと100人ポジティブな反応を持ってくれた人がいたとしたら、同じ数だけネガティブな反応を持つ人もいると思っておけばいい、その中でさらにこちらに興味を持ってくださった方がわざわざ「あなたの発信にネガティブな気持ちになりました!」と反応をしてくださっているだけだ。

なのでわざわざそれを”失敗”、”自分が悪かった”と定義づける必要はない。

そう感じた人がいるんだな

と知るだけで十分だ。

それを知り、自分の何かを変えるのか、はたまたすでに自分の発信にポジティブな反応をしてくださっている方々のために引き続きありのままの自分でいくのかも自分が決められる。

インプットする側の気持ちは絶対に変えられないけど、そのポジティブな100人、ネガティブな100人に対する自分の気持ちや対応を決められるのは自分自身だけだ。

なので僕は発信を、アウトプットを勧めるし僕自身継続している。

今日もいい日だった。

Thank you

Kazz


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