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【掌編】あめゆじゆとてちてけんじや

宮沢賢治を分かりたかった。
中学二年。
僕はどこにでもいるポンコツなガキだった。

クラスに直也といういじめられっ子がいた。
背が低く、小太りで、ずんぐりとした樽体型の彼は見た目通りの鈍臭さを身にまとっていた。更にワキガだったので、夏場の教室にちょっとしたざわめきをいつも巻き起こしていた。

直也は目が悪く、嘘みたいな牛乳瓶メガネを掛けていた(当時はまだコンタクトが一般的に流行する前だった)。頭部にアトピーがあるらしく、しょっちゅう頭を掻きむしるせいか、Yシャツの肩口によく髪の毛がついていた。僕の席は直也の真後ろだったので、それが人よりよく見えた。

いじめっ子たちが直也のもとに集まりそうな気配を察し、直也はすごすごと教室を出ていこうとした。いじめられっ子というのは、そういうアンテナが限りなく敏感に発達してしまう宿命なのかもしれない。

直也が教室のドアを通り抜けようとしたとき、少し吊り目の、前髪ぱっつんの黒髪女子が、直也の肩をとんとんと叩いた。ビクッとして直也が振り返ると、その子は「ごめん、何でもない」と言って、すっと自分の席に着き、本を読み始めた。ちらりと見えた表紙に宮沢賢治という文字が見えた。直也は数瞬、戸惑ったあとトイレに逃げ込んだようだった。

チャイムが鳴り、先生が入ってくるのと同時くらいに直也が席に戻ってくる。(いじめっ子たちのカウンターを怖れて編み出した直也のいつもの作戦だ)その肩口に髪の毛が付いていなかった。あの時だ、と思った。黒髪女子が直也に気付かれないように髪の毛を払ったんだ。トイレの鏡では肩の後ろの髪の毛に気付けるわけがない。

それから、僕はその黒髪女子――藤堂貴和子のことを意識するようになった。

彼女への思いが決定的になったのは、北国らしく、しんしんと雪が降り積もる静かな日だった。

その日、いじめっ子たちはストーブの周りに集まり、(当時はまだストーブが各教室に備え付けられていた)鉄の蓋の上に雪玉を乗せ、雪玉がジュージューと音を立てて溶けていく様を見てはしゃいでいた。雪玉を置くと、その瞬間あまりの温度差に雪玉が驚くのか、鉄の蓋の上を跳び跳ねるように転げ回りながら溶けていく。

メンバーの一人がそれに飽きたのか、直也に視線をやると「おい、直也の背中に雪入れてやろうぜ!」と言い出した。全員が伝染したようにニヤニヤし始めた。風雲急を告げるとはこのことか、途端に教室内に不穏な空気が醸され、僕はひたすらドキドキしながら何も出来なかった。

いじめっ子たちが笑いながら固めた雪玉を持って来て直也を囲むと「うわ、きったねーなー!」と直也の肩口を見て次々と叫び出した。「直也、おめえちゃんと風呂入ってんのかよ! 臭えし、肩に雪降り積もってんだよ!  頭が冬かよマジで!」

僕が確認するまでもなく、直也の肩口には白いフケがたくさん落ちていた。頭がアトピーで痒いため、掻きむしるたび皮膚が剥がれ落ち、まるで万年雪の如く真っ黒な学ランの肩に降り積もるのだ。

直也の背中がぎゅっと縮こまるのがわかった。
「ったく!  せっかく雪玉入れて涼しくしてやろうと思ったのに!  汚くて触れねえじゃねえか!」
一人が直也の腿の辺りを蹴った。
直也が「やめて」をするように両手を前に突きだし、引きつり笑いをしながら小刻みに震え出した。

ガタッ!

いじめっ子たちのヤジが掻き消えるくらい、椅子が大きく弾む音が教室に響いた。黒髪女子が立ち上がっていた。バレエでも習っているのか、あんなに背筋がピンと美しく伸びている人を僕は見たことがなかった。

その子はつかつかと直也の席に向かい、いじめっ子たちを「どいて」と押し出すと、直也のフケを自分の手で直接払った。
「な、なんだよお前いきなり!」
場を崩され、いきりたったいじめっ子たちがわめき出す。
彼女はキッと彼らを睨み付けた。元々の吊り目が更に鋭さを増していた。冷たく硬い声だった。
「最低。あなた達は正真正銘のクズよ」
「っ……!」
いじめっ子達は彼女の空気に飲まれたのか、何も言い返せないでいた。大人と子供に見えた。すると彼女が直也に向き直り「シャンプーを変えてみたり、専門の皮膚科に診てもらったり、出来ることは試してみてもいいんじゃない」と言って、すっと自分の席に戻り、何事もなかったような顔で本を読み出した。宮沢賢治の詩集だった。

いじめっ子たちはしらけてしまったのか、あるいは教室に居づらくなったのか、全員タバコを吸いに教室を出ていった。僕はただ心臓をバクバクさせながらずっと緊張していた。ただ、もしも僕が女性を好きになることがあるとしたら彼女――貴和子しかいない、という確信を抱くようになっていた。

彼女には友達らしい友達もいない。中三に上がってもクラス替えはない。もしかするとワンチャンあるんじゃないか?  僕は微かな希望を握りしめ、一人別な意味でわなないていた。

※※※

時というのは無情で残酷だ。あっという間に卒業が間近に迫った。なのに僕のへっぴり腰ときたら相も変わらず根雪の如く健在で、未だ告白すら出来ないままでいた。それどころか、ポンコツわかめなこの僕は、なんとそのまま卒業してしまった。彼女は頭が良かったので僕とは全然違う高校に進学していった。

更に5年の月日が瞬く間に流れ、出不精の僕には珍しく、思いきって出席してみた同窓会で彼女の噂を耳にした。その後彼女は見事に志望大学に受かり、キャンパスライフを楽しむはずだったらしい。ところが父親の会社が倒産し、莫大な借金を抱えてしまったために大学どころではなくなってしまったという。

ここからの話は嘘か本当か分からない。
いや、できれば嘘であって欲しかった。彼女は家の借金を返すために風俗業界に入り、アダルトビデオにも出演したらしい。彼女のことだから「私が絶対どうにかする」とか言い出して、自分が犠牲になることで家族を守れるならと、身を切る可能性は確かにある。借金をきっちり返し、学費も貯めて、大学に行き直したいと希望していたというのも彼女らしいと言えば彼女らしい気もした。その話を聞いているだけで僕はかなり青ざめていたと思う。なんなら少し、泣いていた。

「嘘だろ? さすがにそれは話盛り過ぎ――」
僕の言葉を遮るように直也が言った。
「本当だよ。俺、貴和子のビデオ何本か持ってるし」
「……っ!」
「でも、もう新作は出せないだろうね」
「……?」
「彼女、電車に飛び込んで死んじゃったから」

絶句。信じられない。信じたくない。信じられるわけがない。嘘だ。絶対に嘘。そんなはずない。
だって……だって、彼女は、強い。
そう、彼女はとても強い。
僕がずっと憧れてきた、強い人だ……

「嘘じゃないよ。遺書はなかったけど日記が残ってったんだって。“私こそ本当のクズ”って書いてあったらしい――」

その後の記憶はない。
僕は泣き崩れ、パニックになり、「お前それ全部知ってて、彼女に何にもしてやらなかったのかよ!」と直也に掴みかかり、押し倒したらしい。すぐに周りに止められ、羽交い締めにされながらタクシーに放り込まれたと、のちに別の同級生から聞いた。

人間の強さとは何だろう。 
人生とは何だろう。
僕には分からない。分かるわけがない。
でも今、やるべきことは分かっている。
彼女に会いに行かなくちゃいけない。
僕がずっと告げようとして、告げられなかったこと、それを言わなきゃいけない。
無論、今、石の下で静かに眠り続ける彼女にそれを告げたところで何かが変わるわけでもない。
でも言わなきゃいけない。どうしても。


貴和子、
遅くなってごめん……
宮沢賢治の詩集、買ってみたよ。
正直、読んでも、よく分からなかったけど。
君と違って頭があまり良くないからさ。

……話すこと、たくさん考えてきたはずなのに、実際来てみると、もう世間話も出てこないや。
本当にどんだけポンコツなんだろうな……。

なあ、貴和子……
僕に君の勇気の千分の一でもあれば、もっと早く、告げられていたかもしれないことがあるんだ。
でもずっとそう出来なかった。そうしなかった。
知っての通り、僕は臆病で、まるで意気地というものがなかった。
今でも無い。
ほら、見て、指が震えてる。

あのな、貴和子……
僕……
僕は……君のことがずっと好きだった。
ずっとずっと、好きだった。
今でも好きだ。
もっと、君の近くに居られる人生を歩みたかった。
君はきっと断るだろうけど、それでも諦めずに、君に向かって行きたかった。

なあ、貴和子……
君は知らないだろう。
今でも君は、僕の背中を押し続けてるんだ。
苦しい時、
悲しい時、
惨めな時、
怒りに震える時、
貴和子ならどうするだろう?
貴和子ならこんな時なんて言うんだろう?
ずっと君の、あの時の“いのち”を思い出して、
握りしめて、僕はこの人生に立っているんだ。
君のお陰で、今、立っていられるんだよ。
生きていられるんだよ……
だから君はけっして、たとえどんなことがあっても、クズなんかじゃない。絶対に。

もしも、僕が道を踏み外しそうになった時は、教室がしーんと静まり返るくらい大きな音でガタッと立ち上がって、あの惚れ惚れするくらい美しい背筋をピンと伸ばしてさ、そのままつかつかっと僕のもとに来て、説教の一つもしてくれないか? 
なあ、貴和子……

返事はなかった。
ただ濡れた御影石の上に
しんしんと白い雪が降り続けた。

あめゆじゆとてちてけんじや

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (*あめゆじゆとてちてけんじや)

うすあかくいつそう陰惨いんざんな雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)

青い蓴菜じゆんさいのもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀たうわんに
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)

※「あめゆきとつてきてください」の意

宮沢賢治 「永訣の朝」
(『心象スケッチ 春と修羅』より)

【了】

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水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。