マガジンのカバー画像

なんかスキ

155
よくわからないけど、スキだと直観的に感じた記事を集めてみた。  何がスキなのかは、集めているうちに気が付くかもしれない大笑。
運営しているクリエイター

#小説

借物の外套

 私は本屋のアルバイトだった。しがない本屋のしがない学生アルバイト。  大学でも地味でぱっとせず、人付き合いのいい方でもないから、当然彼氏はいないし、友だちも少ない。合コンに誘われることもない。マッチングアプリで一度男の人と会ってみたことがあるが、これがひどいマザコン男で、女は嫁で、子どもを産む装置で、労働力と考えているような、前時代的、という言葉が優しい響きに聞こえるほど化石的な思想をもった人物だった。  初対面で経験人数を訊かれたので、ぐーで殴って帰った。ぐーで。幸い男は

自分文庫

某SNSで、写真雑誌の表紙風テンプレートと自分で撮った写真を組み合わせて投稿する遊びが流行っている(あるいは、いた?)。 それはそれで興味深いとは思うものの、ぼくはお仕着せが嫌いな天邪鬼不羈独立の精神を重んじるクリエーターなので、何か別の自分なりの工夫ができないかな、と考えたのだった。 そして、ふと。 著作権の切れた小説の文庫本の表紙を勝手に作ってみてはどうだろう? 名づけて「自分文庫」。 次から次へ作れそうな気はするけど、とりあえず3点。 今回掲載した「自分文庫」の背

【フォト小説】たどりついたら猫の島

※この作品はフィクションです  私が三十八歳のときに、夫は三十九歳で他界した。  夫の遺品を整理している最中、免許証を見て、その本籍地が香川県の佐柳(さなぎ)という場所であることを思い出した。夫の父は佐柳島という瀬戸内海に浮かぶ小さな島の出身らしい。横浜生まれで横浜育ちの夫も、その父と同じく本籍地はだけは佐柳島になっているらしかった。  一周忌が終わった後で、私はその佐柳島へ行くことにした。夫の父親も若い頃に島を出ているわけだし、本籍地の住所に行っても何も無いことはわか

【読書日記】11/18 大人の階段のぼる。「十一月の扉/高楼方子」

十一月の扉 高楼方子 著 新潮文庫 十一月荘、と名づけられた白い壁に赤い屋根の洋館。 ずんぐりした鉛筆形の看板の下げられた「文房具ラピス」で見つけたドードー鳥の細密画が型押しされたノート。 これらの道具立ては、かつての児童文学愛好家の心をそわそわと騒がせます。 中学二年生の爽子は、十一月の初め、親の転勤が決まったものの二学期が終わるまで、との約束で「十一月荘」に下宿することになりました。 約二か月の下宿生活の中で、爽子は家庭と学校を中心とした閉じた世界から一歩出た外の

ゆうぐれあさひ~SIDEゲーテさん~

■前回のお話はこちら■本編 書店員の朝は早い。十時の開店に備えて、それまでにある程度の新刊を店に並べておかなければならないからだ。  正社員で朝の時間帯の責任者である僕は、出勤すると店舗裏手にあるスタッフ用の通用口の警備を解除し、鍵を開けて中に入る。このとき大体七時半頃だ。  ユニフォームに袖を通し、売上管理用の端末を立ち上げ、各種システムの電源を入れてスタンバイにすると、売り場に出る。  その日入荷の商品が風除室のコンテナに山積みされているので、それを書籍と雑誌に分けて、書

ゆうぐれあさひ

■あらすじ小説家志望の男と同棲する翠。しかし現実を直視しようとしない男に愛想がつき、自分自身を顧みたとき、職場の上司である「ゲーテさん」のことが気になるようになっていく。小学生の朝陽などに背中を押され、ゲーテさんから打診された小説家になるという道を考え始める翠。 ゲーテさんと翠の関係は緩やかに進展していくが、お互いがお互いを意識し合いながらも、なかなか踏み込むことができない。しかしゲーテさんの誕生日を契機に、関係は変化していく。 二人の「あさひ」は成長して同じ高校に通うように

コントな文学『すべてのホームシッカーに花束を』

コントな文学『すべてのホームシッカーに花束を』 上京して足立区の北千住で初めての一人暮らし。 俺はホームシックになった。 土曜日に引っ越してきて今日が水曜日で一人暮らし5日目。 土曜の夜は初めての一人暮らしに浮かれて楽しく過ごしたが、人生で初めて日曜日の夜に1人で晩ご飯を食べていたら涙が溢れてきた。 実家の居心地の良さ。 母ちゃんの温かくて美味しいご飯。 そして父ちゃんや妹やペットも含めて家族から与えられていた安心感や愛情に初めて気付いた。 しかし、ホームシックな

時雨はいざなう

1・時雨模様映画館内の待合室は、カンヌ国際映画祭受賞の日本映画が、上映されていることもあって、通常より多くの人が、館内で開始時間を待っていた。待ち椅子で広げるパンフレットの微かな紙音だけが、人の気配を感じさせた。 その静けさを破ったのは中年の女性の、「あ、来たわ、おはよう!」と叫んだ声であった。螺旋状の階段を上り切って、顔を覗かせた白髪の婦人を捉えての挨拶であった。 女性の隣に座っていた私は、その声に促されたかのように立ち上がり席をずらした。 老婦人は腰を下ろすやいなや

音の名前、文字の名前、捨てられた名前たち

 今回は、名前を付ける行為について、私の思うことをお話しします。最後に掌編小説も載せます。 ◆音の名前  ウラジーミル・ナボコフは、Lに誘惑され取り憑かれた人のように感じられます。Lolita という名前より、Lに取り憑かれている気がします。あの小説の冒頭のように、 l をばらばらしているからです。  つまり、Lolita を解(ほど)き、ばらばらにするのです。名前を身体の比喩と見なすとすれば、この行為は猟奇的だと言わざるをえません。  名前=身体を口の中に入れ、舌で転

乳母猫と生まれ変はり

或る人から、妻とのことで質問を受けた。 ちょっと話がエグイから、こっちで返事しようっと。 妻との出会ひが、一種のシンクロニシティなんぢゃないかといふ件。 シンクロニシティのことはよくわからなんですが、ちょっと気になってることはあります。 乳母猫が亡くなった年と妻が生れた年は近いか、重なってて。 これ、割合、最近気づいた。 さうなると、わたしは、乳母猫と結婚しちゃってることになります。 エディプス・コンプレックス(知らずに実の母親と結婚したオイディプスがお父さんを殺しち

わたしは男だと思った

 幼稚園の時くらいまで、わたしはよく女の子と間違えられるくらい可愛い子供だった。  引っ越し以来、どこにいったかわからなかった古い写真の束が、今日、出て来て、その中に、自分の幼稚園時代の写真があった。  その写真は、若い頃には何度も見返していた。けれども、中年になってからは自分の過去の写真、特に子供の頃の写真は見なくなった。そして、引っ越し以来、そういった過去の写真の存在すら忘れていた。  そして、今日、まさに忘れた頃に、自分の写真を手にしたのである。  この写真を撮って

自由人の自由詩

この記事を読んでコメントしたくなった内容。  あやのんさんは、自由詩は書かないんですか?  短歌は、まあ、形式詩ですよね。  形式詩は、わたしは、おおむね文語でないと成り立たないといふ気がしてます。  でも、一般に、最近の短歌は口語が多いですね。  あやのんさんの短歌、そして今後の日本の短歌が、どんなふうになっていくのか、楽しみにしてゐます。  形式主義者のわたしは短歌・長歌などが大好きですが、 自由人の自由詩って、読んでみたい気もします。  近代詩の場合、現代語、口

小説とは何か?

 noteを書くようになってしみじみ感じているのは、たいていの人との人間観の違いだ。  わたしは人間性の奥にはとんでもないものがあると思っている。   それは、端的に言って、わたしが自分の人間性の奥にとんでもないものを仕舞い込んでいるからだ。  そのとんでもないものが人間の人間性だと思うのは、それが自分には確実にあるからだというふうに循環するのだが、もし、たいていの人にそういうものが無いのなら、それを人間性と呼ぶのは単にわたしの思い違いかもしれない。  けれども、とんでもな

心理カウンセリング―ダムの理論

 ダムの理論。  心理カウンセリングや精神療法におけるダムの理論のことです。  書く前に「ダムの理論」でググってみたが、松下幸之助のダム式経営ばかりが出て来た。松下幸之助は大嫌いだ。「これはいいな」と思った電気製品でもパナソニックだったら、意地でも買わない。しないでいい損をしている。義兄がそこの技師だ。それもこれも、みんな、幸之助氏のせいだ。←関係ない話。  精神分析的な対話を重ねていると、ちょうどダムの水を汲みだすようなもので、その底に沈んだムラが現れる。  無意識を引