藤田 凛

noteに投稿をはじめて、早4年経ちました。私にとってnoteは、薄らいでいく記憶を呼…

藤田 凛

noteに投稿をはじめて、早4年経ちました。私にとってnoteは、薄らいでいく記憶を呼び戻す 場であり、新たに息づかせてくれました。日々、感ずる何かがあったとき『noteを活用している皆さんに 問いかけてみよう』と、ペンを走らせるのが楽しみでした。これからも宜しくお願いします。

最近の記事

気になる男

1. 私は45歳の映像クリエイター。 クリエイターの仕事は、クライアントの要望をくみ取り、要求に応じて映像を作り上げる高いスキルが要求される。そのためには広い知識や、様々な芸術的センスを磨く日頃の心がけを意識しなければならない。 わが社の映像部門は、営業、企画から撮影、編集までのワンストップの利便性を持つ。そのために、各担当スタッフには高い専門技術が要求される。 担当スタッフが、仕事に行き詰って相談して来ることが多々あり、そのとき私は「あなた自身はどんな映像を作りたいの

    • 時雨はいざなう

      1・時雨模様映画館内の待合室は、カンヌ国際映画祭受賞の日本映画が、上映されていることもあって、通常より多くの人が、館内で開始時間を待っていた。待ち椅子で広げるパンフレットの微かな紙音だけが、人の気配を感じさせた。 その静けさを破ったのは中年の女性の、「あ、来たわ、おはよう!」と叫んだ声であった。螺旋状の階段を上り切って、顔を覗かせた白髪の婦人を捉えての挨拶であった。 女性の隣に座っていた私は、その声に促されたかのように立ち上がり席をずらした。 老婦人は腰を下ろすやいなや

      • かくも長きビジネスライフ 

        はじめに おもえば、憲法二十七条の「すべての国民は勤労を有し、義務を負う」を遵守したわけではないが、私の人生の75%(50年間)は就労に費やして来たことになる。 夫は仕事を持つ妻に非協力的な態度を見せ、諍いになることが多かったが、経済事情や将来の自立を考えると、主婦に専心する気にはならなかった。 その時期を見据えることで願望や自由は封印し、自虐的に仕事や養育に力を注ぐことに、私は美学を感じていたのかもしれない。 私には自らを窮地に追い込んで、這い上がることに満足を感じる

        • 80日間病の旅 

          I 救急センター  「おう!意識はしっかりいているね」  救急センターの手術室のドアが開き、私を乗せたストレッチャーが入ると一声が響いた。私はその声に頷き、僅かに開いた虚ろな目で声主を見た。体の大きな悠々しい姿の執刀医が看護師たちを従えて整然と立っていた。 目だけを残した青一色の様相は医療ドラマのワンシーンを彷彿させたが、私を注視している複数の目は病態の緊急性を現実化していた。  淡い水色の粛然とした手術室は、天井から下がる円盤状の「無影灯」そのものがスポットライトを浴びてい

        気になる男

          罠のある森

          はしがき 薄霧の中の春の山は、薄く色を重ねた水彩画のように穏やかな静けさに包まれ、潤いある大気は生命の息吹を促していた。  濃淡の緑色の葉は、零れる光をやさしく受け豊かな森を育んでいる。山はその懐に入ると高尚な魂を呼び起こしてくれる。 自然に存する山には畏敬を感じながらも、人が踏み込めば林業として経済を担う「属」となる。  昔、山が包含する豊かな資源を悪用した男のため、二人の男が殺害されていた。  犯人の刑は死刑判決から19年後の1993年に執行された。その時を迎え、遺族は長

          罠のある森

          よもやま独語

          はじめに 冬は澄み切った夜空を仰ぎ、星と心通わせるひとときがいい。冷気のなかで南の天空に際立つペテルギウス、リゲル、三ツ星のオリオンの星座を捉える。ペテルギウスを始点に、おおいぬ座のシリウス、天の川を挟んで子いぬ座のプロキオンを見つければ大三角点が描かれる。  天空に展開される星たちの壮大な物語に、想いを馳せるときの至福感は何とも言えない気分である。果てしない藍色の空に意識が引き込まれ、無数の星と共に輝いている自分がいる。  眠りを忘れた長い夜は、種々雑多な想いが流れ星のよう

          よもやま独語

          トランスされた悲しみ

          I あの日私は意識の果てにトランスされ、無意識の世界で悲しみと闘う羽目になってしまった。 私は左人工股関節全置換手術の二週間の入院生活を終えて、帰途につくところであった。  娘親子の退院祝いと称した昼食の合流地点へ車を走らせていた。 食事中、私は犬のゴンの様態が気になってはいたが、お互い話題としなかった。  その気持ちが帰宅を急かせ、杖をついての足に苛立ちを覚えながら歩行を早めていた。  「私の車に乗って」と、娘の声掛けに後座席に腰を下ろした。ところが娘はエンジンをかけたまま

          トランスされた悲しみ

          老いてなお迷走

          まえがき 「哲学をすることは死を学ぶことである」 古来より多くの哲学者のことばである。死を学ぶことは同時に、生きることを学ぶことでもある。生命の本質が「死」によって成り立つと前提すれば、おのずと生の意味を深く考えることになる。  私が哲学を好む理由は、人間の本質や反社会的なものを曝け出し、「何故、何々なのか?」と論及するところにある。その問いに考え抜いて、自分なりの納得を見出すと生きる力となる。私は哲学によって、常に死に向き合う態度を修練してきたといえる。  今、まさに老年期

          老いてなお迷走

          愉しき哉、幼年時代

          はじめに 幼年時代の愉しかった思い出を記憶から呼び戻そうとすると、過去から現在の長い年月の中で、事実なのか空想なのか判断に迷うことがある。だが体験という情報が脳に入力されて記憶となっていたことには違いない。 現代の子供達の有様を憂慮して、「昔はこうだった」と引き合いに出して諫めるつもりはない。時代がどうあれ幼児期のあらゆる経験が、自己形成に繋がるということは普遍性なものである。 1. 懐かしい町 私が生まれ育った町は、東西方向に高さ50mほどの丘陵を挟んで南北に分断されてい

          愉しき哉、幼年時代

          わたしのシネマレビューノート

          はじめに 「我がシネマヒストリー」の作品から1年経った。あれからも映画へのオマージュはますます強くなり、今も30km先の映画館通いが続いている。上映初日に鑑賞したいとの思いは、「初日観客として映画と対面したい!」という私なりのこだわりからである。 映画はフィクションとして真実を描いていることを私たちは理解し、その真実と自らの思考を相乗させることで、深い意義を持つと考える。 日々、直面する現実への不満や解決不能に陥った時こそ映画館に飛び込む。スクリーンに見入っているうちに、思考

          わたしのシネマレビューノート

          泡沫(うたかた)の凝(こご)り

           私たちの日々は、川の澱みに浮かぶ泡沫のように、過去を作っては消え、留まることのない時の流れが、人生の筋書きを残していく。  だがこの泡沫も、社会に漂う懸濁な不条理な「もの」を吸収してしまえば、さまざまな汚れを吸収した消えぬ泡となって存在し続けるであろう。 不条理の感性との出会いは日常生活に起こる。これまで何の疑問を持たず過ごして来た機械的な日常のことが色を失う。 ある日、ふと「何故?」が頭を翳め、そこからどっぷりと倦怠感に漬かっていた自分の意識に目覚める。  色を失

          泡沫(うたかた)の凝(こご)り

          近未来を彷徨う

          まえがき  新型コロナウィルス感染症の終息のつかぬ現在、過去を鑑みながら近未来の世の有様を考えることが多くなった。  70歳の私は、近未来を見届けることは難しいかもしれない。だが混沌とした思考を浮遊したままでは、時代の流れを傍観しているだけの存在となってしまう。  「機械は人間のようになっていき、人間は機械のようになっていく」と、コメントしたロドニー・ブルックスの言葉を真剣に思索する時期に来たのだと思う。  まずは、点で記憶していた浅薄っぺらな近未来の知識を、レイ・カー

          近未来を彷徨う

          能の美に惹かれて

          はじめに  その昔(四十数年前)、祝日にはラヂオから謡曲が流れ、日常生活の中で何気なく耳にしていた。わたしは、厳かな響きある声が心地よく、居室が俄か舞台となって「高砂」の翁のように箒を持ち、摺り足で掃除を楽しんだものだった。  能は謡曲と舞踊による特殊な劇であり、謡(うたい)は能の歌詞(能の台本)を声楽としたものである。  婚礼の席で謡を嗜んだ年配者が、祝曲を緊張した面持ちで披露し、式を厳粛な雰囲気にさせてくれた。  このように舞も伴奏もない声楽だけで、能の内容を表現し

          能の美に惹かれて

          妄想の行方

          1. A子との出会い  74歳のA子は3.11東日本大震災の原発被害により転居を何度か繰り返し、現在は汚染地域から100km離れた、O村の仮設住宅に住んでいる。 山里を整地したこの仮設住宅は、2LDKの息子との二人暮らしをするには、住み易く十分な広さであった。買い物するにも車で15分のところに大型スーパーがあり山里とはいえ、日常生活にそれほど不便さはなかった。 人生の流転を余儀なくされたA子は、行政の勧めるままに、50歳の息子と共に見知らぬこの地に牽引されてきた。息子は隣

          妄想の行方

          我がシネマヒストリー

          まえがき シネマを語るなど、大それたことは出来ない。ただ私は映画が好きだ。単純な映画好きが映画を衒いなく語りたかった。 映画が私の人生の句読点に、どのように刺激を与えて記憶を重ねて来たか、70歳のシネマヒストリーを辿りたいと思う。 Ⅰ 我が家 我が家の玄関ドアを開けると、ゴッホの名作「ひまわり」の複製画と、大きな2枚の映画ポスターが眼に入る。1枚は甲冑を身に付けた三船敏郎がクローズアップされた「七人の侍」もう一枚はヌーヴェルヴァーグの中心的旗手といわれるゴダール監督の各作

          我がシネマヒストリー

          犬たちの挽歌

          まえがき私のベット頭上の棚には、犬たちの骨壺が並べられていた。納骨された錦織の袋は格調高く、高貴な風情をなしていた。 犬たちは骨壺という有形を借りて、25年経た今もなお息継ぎ、私たち家族の生きざまを俯瞰していた。 ペット霊園の合同納骨堂塔に葬るか、霊園の集合納骨棚に安置するかの二択を選ばず、わが家で供養することとした。日常の生活空間に彼らの存在を、意識したかったからである。これらの骨壺が消える時は、私の骨の行先と共にすることを、子供達には明言している。 わたしは犬への後

          犬たちの挽歌