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能の美に惹かれて

はじめに

 その昔(四十数年前)、祝日にはラヂオから謡曲が流れ、日常生活の中で何気なく耳にしていた。わたしは、厳かな響きある声が心地よく、居室が俄か舞台となって「高砂」の翁のように箒を持ち、摺り足で掃除を楽しんだものだった。

 能は謡曲と舞踊による特殊な劇であり、謡(うたい)は能の歌詞(能の台本)を声楽としたものである。

 婚礼の席で謡を嗜んだ年配者が、祝曲を緊張した面持ちで披露し、式を厳粛な雰囲気にさせてくれた。

 このように舞も伴奏もない声楽だけで、能の内容を表現して楽しむ謡は、庶民の生活の中で特別な歌として歌い継がれてきたと思われる。

 その頃、わたしは自分の行き所のない感傷を、叙情に変換できる表現方法(詩、短歌、絵etc.)を模索していた。

Ⅰ 「焔」との出会い

 上村松園の画集を眺めていた時のことである。「焔」のページを開いた瞬間、背筋に悪寒が走る衝撃を受けた。

 源氏物語「葵の巻」を読み、能楽作品としての「葵上」も知ってはいた。

 謡曲「葵上」の六条御息所を取材とした「焔」は、振り向いたその表情と姿は美しくも底知れぬ恐ろしさが沁みるように迫って来た。
白い頬に掛かる髪を噛み、纏めた美しい長い髪は怨念のうねりとなって足元へ流れて消えていた。
愛人の六条御息所は源氏の愛を失い、諦めと車争いの恥辱から無力感を懊悩し、燃え上がる嫉妬の焔を制御できないまま、生霊となって葵上をいたぶるのである。
教養深く高貴な女人であるが故に、己の執念に悩み苦しむが、嫉妬の青い焔はさらに燃え上がり、ついには葵上を呪い殺す。
着物の文様となっている蜘蛛の糸は、六条御息所の心を暗示しているかのようだ。
蜘蛛の糸に藤の花を絡み垂らしたことで、怨念の姿に哀しい気品さが放たれてある。

 能面で動きを抑え姿態の構図など、どこを切り取っても六条御息所の内面表現が感じられた。
狂気をぎりぎりに包み込んだ凄艶さと、それに抗う心の葛藤が、女人の業の渦の中で高貴な美しさとなっている。

 女の心の極限を表わしたこの「焔」の画が、わたしのあいまいとしていた能への興味を確かなものにした。

Ⅱ 能は総合芸術

 能は史実、平家物語、源氏物語、死、仏教、古今集、自然、哲学とすべてのジャンルを網羅している総合芸術である。文学好きのわたしは、カテゴリーの中をあっちこっちと触手を動かしながら、「能」の世界へ入り込んでいった。

その1  敦盛 
 平家物語の「敦盛の最期」では、一の谷の合戦で熊谷次郎直実が、平氏の16歳の公達平敦盛を討ちとる際に、自らの源氏の武将としての立場と、戦で負傷した我が子と同じ年頃の誇り高き敦盛を、討たなければならない葛藤の末、弔いを約束して討ち取る。

 能の「敦盛」は、それからの直実が世の無常を感じ出家して蓮生と名乗り、一の谷古戦場に赴き弔いをしていると、現れた敦盛の亡霊と問答の末、亡霊は成仏して消えていく物語である。

 この二人の武将の背中に背負った母衣に見立てた草花「アツモリ草」と、「クマガイ草」がある。アツモリ草は華やかで繊細な花であり、クマガイ草は強く育てるのが容易な花である。このような違いも名前の由来となっている。平家物語の二人の悲話を語り伝えるかのように、今尚自然の中に名を残しわたしたちと生き続いている。

 史実に基づく物語だけに留めず、植物に感性を繋ぐ日本人の心のありかたが、「草木国土悉皆成仏」の仏教の教えを思い出させた。

その2  武将と能 
 能には勝ち戦を描く作品がほとんどない。「修羅物」のとして平家物語を題材にした。生前の戦いの罪によって死後、修羅道に落ちて受ける苦しみをテーマに、滅びのロマンを謡い上げ戦の非情を見つめた。

 群雄割拠の戦国時代に能は広く普及された。厳しく辛い精神状態に追い込まれるこの時代には、能舞こそストレス解消法であり、能によって「静の精神」を得て「動の身体」への切り替わる刹那のときではなかったかと思いを馳せる。

 信長が桶狭間の決戦を前にして、幸若舞(曲舞)の「敦盛」の一節の「人間五十年下天のうちを比らぶれば~夢幻の如く也~」、を唄い舞うは、戦に臨む恐怖心の払しょくと、猛る緊張感を鎮めるためのものであったであろうし、死の覚悟を見定める空間でもあったとも思える。
武将が能の観劇を催すは、権力の掌握を確信し、他の武将に誇示する場面としての、パフォーマンスでもあったのではないか。

 こうして能は、武家階級をサポートしながら、武士の嗜む芸能として確立していったとわたしは解釈している。

その3  利休とお吟さま 
 利休の娘「お吟さま」が島田左近との悲恋のなか、秀吉に見染められ城に召される前夜、自害を決意する娘に利休は「四海波に~、静かにて国も治まる時津風~」と祝謡を贈るのである。時の権力者に抗する娘の姿に、利休自身に忍び寄る暗雲をも予期し、先の我が身を透視したのかもしれなかった。その夜の親子には潔い静謐な強さが感じられた。

 これは映画「お吟さま」のワンシーンだが、「死へ向かう」に対して「祝謡」というパラドックスが、わたしに静かな感動を残したため、書かずにはいられなかった。

 そんな能の削ぎ落された緊張感と静寂な世界が私の情感に相通ずるものがあった。 

 能が分かりにくい原因の一つは、謡が場景描写をしていることと言われる。
そこでわたしは、あらかじめ謡本の話の筋を理解し観能したところ、演者の動きを追いながら、自分の感性を引っ張り出せた。

 知識と体験(観能)を重ねる事で少しずつ解り、観終えるとあらゆる美意識が散華された気分になった。

Ⅲ 能面の魅力

 能面はかける、はずすという。
演者は選択された能面と対峙し、無人格となった心を能面に注ぎ、汲み上げられた生命によって人格を得、その面は舞台に生きるという。
もちろん、わたしは能面の心を己のものには到底出来ないが、面(おもて)に惹かれ、面の魂に引きずり込まれていった。

 能面は能のテーマをリードし、演出を統括していると云われる。本来の面目は能を観てこそ能面を知る流れなのであろう。 確かにかけた面(おもて)が、能の「幽玄の世界と美」をわたしに実感させた。

 能面は「あの人は能面のように無表情だ」と例えられるが、無表情ではなくすべての含みを持っているのだ。面の角度を少し変えただけで様々な表情が生まれる。この言葉がわたしに向けられたとしたら、わたしは「内面に多様性を持つ神秘性を感じさせる人」と解釈して喜んでしまう。揶揄をもじっての言葉であるなら、その人の思惑を裏切ることになってしまうであろう。

 能面は人間の顔の写実を超えて雰囲気が醸し出すように工夫されている。そのため完成された女面は、異様なほど極めた様式美となっている。その様式美が見る人の情感を誘うのである。

 それは芸術に共通する「実のなかに虚を」「虚のなかに実を」盛り込んだものといわれる。

Ⅳ 小面を打つ

 短期間ではあったが能面教室に通い「小面」を打つことが出来た。彩色を残すのみの素面が出来る頃には、面に己の魂が見えてくる。

 面打ち師の指導のもとに打った面ではあったが、仕上がった面は神性な笑みをたたえ、作者のわたしを傅かせた。

 面をかけると自分の内側に自分が入り込む感覚になる。そして一瞬、意識は日常的な世界から超越した境地へ運ばれる

 わたしたちの顔は左右対称ではない。それを計算した上の面の打ち方である。鼻筋を微妙にずらして仕上げることにより、観客に多面的な表情効果となる。左右の目が少し段違いにすることで年のいった深さがでる。

Ⅴ 泥眼と錯覚

 目を金泥に施す泥眼の面は、舞台背景により目尻の涙にも見え、面を激しく切ることで執心がキラリと光る。泥眼は怖いだけではなく品格も備わっている。「焔」の六条御息所の目には、この金泥が施されているため、気品ある恨みの表情を創り出している。

 小面などは肌が微かに黒ずんでいる。

 こうした色味を古色という。これは時代を経たものを真似るという意味で用いたものではなく、能面の奥深さを表現するたに用いるのである。観客に得体の知れない夢幻の世界へ導くための、容易に計り知ることの出来ない存在を、古色という色の錯覚で表している。

 このように能面に「無限の表情」を生み出し、観客を幽玄の世界へ誘う錯覚で成り立つ芸能とも云える。

Ⅵ 般若

 能の「葵上」での前シテ(主人公)では「泥眼」の面をかけて生霊を演じ、後シテでは執心や恨みはあっても、上品な美しさのある白般若の面をかけて演じる。

 能は女性美を追求し最高のものとする一方、女性の心に潜む暗い情念、怨念の恐怖心を面の推移で表している。

 鬼女面は演じるシテに使い分けられる。生成(なまなり)は女性の骨格を残しながら鬼への変貌の見られる「鉄輪」のような面。わたしなど激しい怒りが爆発したとき、恐ろしい形相の自分に気づき「ああ!鉄輪になってしまった」と眉間の皺を広げることがある。そして中成(なかなり)の般若は、執念や怨霊といった感性を表現し、本成(ほんなり)は女の怨念の最たるのが蛇である。面に耳もなくなっているのは、「聞く耳をもたない」蛇と化した姿である。

 怨霊から般若の変身は、敵愾心の芸術化として最高の表現といわれている。
般若面は怖さよりも、女の悲しみと怒りが共存した骨頂の面だと思う。

 現代においても酒席で「女房が角を出して待っているからお先に!」と早足で帰る男性の言葉は、妻の嫉妬と怒りの形相を般若の角を直喩した表現であろう。

 「小面の裏に般若あり」馬場あき子の言葉と記憶している。「美しい女性の内面には恐ろしい鬼の性が棲んでいる」と解釈される。

Ⅶ 世阿弥の能楽論

その1  離見の見
 世阿弥の能楽論の「花鏡」にある言葉である。
「あらゆる観客の目の位置に自分の心の目、つまり無数のミニターカメラを置いてチェックせよ」と言っている。

 「離見の見」理論を私なりの捉え方で、「自分を第三者の立場に自分を置いて、客観的に自分を見る目を養うことが大事」と意識してきた。

その2  花とは
 世阿弥は風姿花伝の中で稽古の目指すものが「花」とした。花が何であるか比喩をもって説明した。

 「花は咲くべき「時」を得て咲くゆえに、新鮮であり珍しがられ、賞翫される。また散ってしまうゆえに花は咲くのが賞でられる。
老骨に残りし花とは、老いの身の残った幽玄の味わいこそ、まことの花というべきものだと説いている。

 長寿社会の現代においてわたしたちは、世阿弥の説く「老いの花」を考える場面が多いと思う。

 世阿弥は芸の老いて失われない「まことの花」とは何かをこう答えている。
技術的巧緻をねらわず、初歩的基本を失わず、「まことに得たりし花」(身にしっかりと培った芸力)が「老木に咲く花」という。それは厳しい研鑽と老いの花の工夫によって保たれたものである。

 若さの特権に溺れず、研鑽を重ねてくれば、老後の生き方に「枯れ木に花を咲かせる」ことが出来ると、現代も継がれた老後の生き方ではないだろうか。

その3  秘すれば花
  秘すれば花なり、
      秘せずば花なるべからず
(秘めたるからこそ、花になる。秘めねば花の価値は失せてしまう)
600年前の世阿弥の理論書は、今でも人生論哲学として説得力がある。

その4  夢幻能
 世阿弥は夢幻能を能の本道とした。
夢幻能は、前場と後場にわかれ、前場は化身である主役が登場して身の上を語り、いったん退場する(中入りという)。後場でその正体(鬼姿)を現し、生前の事や出来事を語る。
面と装束の選択も、ドラマで変わってくる。

 あの世からの訴えばかりでなく、能ほど異次元の世界が登場する演劇はまれであり、それを可能にしたのは面である。

あとがき

 限りなく能を語りたい思いがあるが、謡や仕舞いを嗜んでいるわけでもなく、ただ好きなサビの部分を自分流に諳んじていた。

 能の下地を作る環境もないため、独りよがりの持論なっていると思う。

 能の動きを極限まで凝縮し、限りなく無に近づけたブラックホールのような演技の重さと、人生の深淵を視つめた冷徹さが、理屈なしで惹かれる所以である。

 能面は、情念の象徴であり、女面は嫉妬を中心に動いていく。男面は怒りを本質に現わしたもの。

 わたしが女面を愛おしく思うのは、嫉妬の燻りさえもしない情念の希薄な人間であるからだ。一度は燃えるような嫉妬心で我が身を焦がす苦しみを味わいたいと思ったが、若年より人の心の移ろいに諦観している自分があるため、叶わぬ願いであった。

 せめて能舞台で能姿の素晴らしさで幽玄の極致を感触し、自作の面をかけて舞う夢幻に浸りたいと思う。

能作品 加工

▲自作:女系  小面(こおもて)

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