見出し画像

トランスされた悲しみ

I

 あの日私は意識の果てにトランスされ、無意識の世界で悲しみと闘う羽目になってしまった。
私は左人工股関節全置換手術の二週間の入院生活を終えて、帰途につくところであった。
 娘親子の退院祝いと称した昼食の合流地点へ車を走らせていた。
食事中、私は犬のゴンの様態が気になってはいたが、お互い話題としなかった。
 その気持ちが帰宅を急かせ、杖をついての足に苛立ちを覚えながら歩行を早めていた。
 「私の車に乗って」と、娘の声掛けに後座席に腰を下ろした。ところが娘はエンジンをかけたままいっこうに走ろうとしなかった。ようやく私に顔を向け、「あのね、お母さん!話があるの」と重い口調で語り始めた。
 「ゴンがね、だめだったの」。突然、ゴンの死の告知であった。数秒の沈黙の後、「うぁー!」と慟哭する私の声が車内に響き渡っていた。すると私の泣く声が悲しみの渦の中に吸い込まれ、意識の全てが闇の奥へ消えて行った。
 それからの5時間は、意識不在の私に何が起こったかはまるで記憶がない。
 この空白の説明は、私の意識が回帰した後、家族がドキュメント映像を再生するように語ってくれた。
 それはいまだ見聞きしたことのない不思議な現象であり、当の本人よりも家族を驚愕させ不安に陥らせてしまったようだ。
 日頃の私は、物事に動じることなく鷹揚な対処をする母であるのだが、その時は豹変したとしか言いようのない姿を見せたらしい。この現実を目の当たりにし、家族の狼狽振りはいかばかりであっただろう。
 無意識に存在する記憶には、忘れたい、認めたくないと願っているような、辛い記憶や不快な感情があり、それが何らかのきっかけで引き起こされるのである。
 私の無意識を表出させた原因を明らかにするには、ゴンと私の関わりを遡って語らなければならない。

 犬の「ゴン」との出会いは、100㎞の山道を通ったWの自宅であった。
 ある日、出迎えたWの腕には茶色の長い毛をした子犬が抱かれていた。そのポメラニアンとチワワの混合犬は、茶の木の種のような黒い大きな目をしていた。うねりある柔らかい毛で包み込まれた小さな体は、庇い守らなければという私の母性を呼び起こしてしまった。
 「名前は何というの?」と私の問いに「まだ決めてはいないんだ」。Wの返事に、間髪を入れず「ゴンがいいわ。童話の「「ごんぎつね」」のあのゴンよ。きつねの童話ではあるが、子犬を見て咄嗟に閃いた名前であった。
「とにかくペットの名前は、短くて呼びやすいのが一番よ。ゴン!ほら反応した。この響きもいいなぁ。」Wは、私のこの独断的論理に文句も言わず、賛成してくれた。
 ゴンはどういうわけか飼い主よりも私に懐き、何をするにも追いかけて来た。
 Wに逢うために長い山道を往復していた私であったはずが、ゴンに会える気持ちが山越えの強いられていた緊張を、解放させてくれた。

 数年経つ間に、Wの身辺に様々な災難が降りかかった。震災による仮設住まいから戻ることが出来、ようやく腰を据えたかと思った矢先、Wは心臓病の治療のため入院を余儀なくされた。
 「ゴンはどうするの?子どもさん達に預けることが出来るのでしょう?」「いや!まだ返事が・・・。」
「なら、私が預かる!ゴンもそのほうが嬉しいと思うよ!」。「確かにゴンは俺よりお前さんに懐いているからなあ」。と、Wも私の申し出に胸を撫で下ろしていた。明日からゴンとの生活が始まるかと思うと、私の心は躍った。
 こうして六歳のゴンは我が家の居候となった。
 わが家には、一歳になる柴犬の「銀」がいた。この犬は犬らしかぬ寡黙?な犬で、若いながら無駄な動きをせず銅像のようであった。
居候のゴンはその日のうちに新しい環境に馴染んで、はしゃぎ回っていた。
 自在に動き自分に近づく見慣れぬ犬を、先住の銀は深海色した切れ長の目で眺めていた。 そのニヒルな雰囲気を持つ銀が、猟犬のごとく庭を疾走しているときがある。敵(侵入した猫や虫など)の射程を捉えたスナイパーのように逃さず、追いかけるその姿はまるで「ゴルゴ13」である。
 冷徹な雰囲気の銀と、愛らしさ満載のゴンは、「静と動」の対称が相乗効果を高め、バランスのとれた癒しを私に与えてくれた。
 ゴンはこの家に来てますます私から離れなかった。
 私が風呂やトイレに入れば、そのドアの前で待ち、庭に出れば追いかけて来る。誰かが
私に触れたりすれば、防衛表現なのか牙をむいて威嚇する。
私がシャンプーや初夏に向けてのカッティング、歯磨きのため口に指を入れても、されるがままの従順な態度でいた。
 ゴンが居候して半年が経ち、Wが退院することになった。自宅静養をしなければならないWは、いままでのような独居生活は難しく、しばらく家族の介護が必要となった。
Wと私は、価値観や性格の類似性から話合える良き関係を保っていた。だが彼の家庭事情を機に、私の一方的な判断で連絡を絶つことした。ゴンと別れる気持ちは毛頭なかった。
 私は人間の愛の成り行きに執着はしないが、ペットへの愛は略奪行為さえ躊躇わない一途さが行動となる。

 ゴンは17歳になっていた。可愛らしさは健在だが、階段や側溝の網蓋の前で立ち往生する姿が多くなり、散歩の距離も短くなった。
 私自身も下肢の痛みが強くなり、歩行が辛くなっていた。医師からは人工骨置換手術で痛みは緩和するとの所見であったが、ゴンの老化の進捗が気掛かりで手術を決めかねていた。
 人間の一年の経過が犬にとっては四年間の速さの老化現象を危惧すれば、いままでのように見ているだけには行かなかった。
 そこで私は自らの老化を鑑みて、ゴンの老化への対処策を講じた。
ゴンの夜間の尿意を予知し、起こすことで庭に排尿させた。ゴンは排尿が済むと安心からか、朝までぐっすり眠っていた。
 この夜間行動で私の足が悲鳴を上げていた。
寝ていても疼き、起床してゴンを抱えての階段の上がり下りは激痛が走った。この状態が続けば、いつ階段を踏みはずすかもしれない。その危険を払拭するためにも、早々に手術の段取りをつけた。
 私の入院中に、ゴンの老衰が早まらないための体力の保持を実行することにした。
 まずは障害物の撤去と水飲台の底上げや踏み台の増設。
 食欲が無くれば死の足音が聞こえてくる。今の食欲を維持させるため、柔らかく煮た肉や野菜を小鉢ですり潰し、ペースト状にしたものを小さく丸めスープで湿らしてから、ゴンの舌に乗せ飲み込ませた。
 食事の工夫が功を奏したのか、食欲の日内変化はあっても少しでも、口に入れてくれる気力を示してくれた。
 ヒトもペットも老衰という自然死に抗わず全うさせることを信念として来た私ではあったが、ゴンの老衰の先延ばしにかくも必死になるのは、最期を看取りたい思いからである。十数年前に逝ってしまった三匹の犬たちも、私の手の中で体の温もりが失うまで看届けた。ゴンの末期だけ異端の別れにはさせたくなかった。

 手術前日の15時に病室に入った。
 昨夜は何故か胸騒ぎがして、眠れぬ手術の朝を迎えた。その心配からゴンを託した元夫に連絡し、早急の動物病院への診察を懇願した。
 手術を終えた翌晩、入ったメールを確認すると、ゴンは点滴で少し元気を取り戻したとのことであった。
 それからの着信メールは、ゴンの頑張る様子を知らせてくれるもので安堵していた。
 子ども達からメールは、術後容態を懸念するだけであった。ゴンの報告には「よかったね」の一言。
 予定通り退院を迎え、早くゴンの世話をしたい一心が、リハビリを懸命にさせた。
 ゴンの死は手術日の早朝だったらしい。
昨夜から容態が悪くなり、翌朝の散歩を銀だけ連れて行った後のことだった。
 家族は、ゴンの死という事実を私に伝えるべきか否か迷いに迷っての結論は、死は伏せ嘘をつき通すとことに意識合わせをしたとのことだ。
 理由は、知らせて手術を控えている母を動揺させる訳にはいかない。手術後知ったとしても、退院を早めて帰ろうとする無鉄砲な母の性格が去来し、退院まで嘘をつき通すことで話が一致したらしい。
 それからは家族の涙ぐましい嘘の努力が始まり、誰かの嘘が見抜かれはしないかと戦々恐々したらしい。

 車中で喪失した私の記憶は、5時間余り経って、何事もなかったように意識を回復した。
あくまでも本人の意識は、食事を終えて車に乗り込んだ以前と現時点の意識に繋がれる。
 ここで、異常な母とやり取りをした家族たちの告白を書かねばならない。
 娘の話
 車で泣いていた母が、「私、何かおかしい」と言い出した。家に着くと門扉の前で「ゴンはソフアに寝ているのかな?」と、家の中を覗く仕草をした。母の言葉を不思議に感じながらも家に入り、ゴンの祭壇の前に母を座らせた。ゴンの死を認めさせるため、骨壺に母の手を触れさせ、「ゴンも精一杯頑張ったからね!」と伝えると、母は「そう、ゴンは死んじゃったの」と泣くが、また「ゴンはどこにいるの?と聞く。「お母さんが手術した日、ゴンは死んだのよ」「えっ!手術って誰が?私がする訳ないでしょう。」と否定する。「足が悪くて手術したでしょう?ほらここに手術した傷があるから見て!」
 娘が私の下着を下ろし手術跡を見せると、傷口を触りながらも他人事のように「誰がしたというの?」と繰り返えすばかりであった。
そのうちゴンばかりでなく、十数年前に死んでいる犬のチャンプやモコの名前を呼んで、姿を探し始めた。
 娘は、母との異常な応酬のやり取りに為す術をなくし、東京に住む兄弟に「お母さんがおかしくなっちゃった!」と泣きながら訴えた。
 息子たちは交互に出て話をしたが、会話が成り立たず困り果ててしまった。
 「おっ母は足の手術のため二週間入院して、今日家に帰って来たんだよ」と何度も説明するが「ふうん。そうなの。いったい誰が入院したの、どうしての?」と繰り返し、また「ゴンが死んじゃった」と泣く。話を替えて「今日寿司屋に行ったよね」すると「行くわけでしょう!」。「家に誰かいるよね」「何、言っているの!私一人よ」とすぐ傍にいる夫と銀の存在すら消されていた。
 嚙み合わない会話はえんえんと続きループ状態であった。
 家族は、母の症状が2~3日過ぎても回復しなければ、M病院の心療内科に診せることで話がつき、このエンドレス会話を収めた。
日没が過ぎて辺りが暗くなってから、私はごく自然に意識が戻り始めていた。夫の探るような言葉かけに、会話成立となった結果をもって、子ども達に意識回復の電話連絡をした。
それから、子ども達が空白となっていた私の時間を説明してくれた。

 私の症状は、一過性健忘症という一時的に記憶を失う病気だったようだ。
 記憶、思考、感情、知覚、行動が一時的に失われ解離性健忘症の類と云われる。
 本来、心的外傷を処理するための防衛として用いられる正常過程であるらしい。
 これらの心理障害は、不安や葛藤、ショック体験など無意識下に抑圧することが症状表出に繋がると説明される。定期間の記憶のみを忘れてしまうが、大半はやがて回復する。
 頭部CT,MRIで検査しても脳の異常を否定する。
 疾患発症後の新しい出来事が記憶出来ない前向性健忘症と、疾患発症前に起った出来事を思い出せない逆向性健忘症の二種類がある。私の場合は両方の症状が現われたと云える。
 予後の繰り返しの割合は8%で、人口五万人の都市で年に1~3%起こる病気とされる。

 それまでの自分は、悪状況の中でも逃げ出さず解決するためのモチベーションはあると自負していた。だが、今回のことで精神の関わる度合いによっては、意志の強さも危うくなり脆い自分、シャドウの意識を知ることが出来た。
 ゴンは私の入院を見届けて、手術日の早朝死んでしまった潔さが、私には堪らなく悲しかった。偶然の為せることと考えるか否かは、 
 その人の長年生成したこころのあり方であろう。
 脳の働きは、悲しんだりする「心」も、命令によるものとされている。
 だがどのように脳と心が結びついているのか専門的な説明を受けても、理解しがたい。
 ニューロンによって脳に伝達され、解釈され、命令を出す回路がヒートアップしてネットワークを放棄したことによる記憶喪失。これは私の想像である。
 私はまだまだゴンを看取れなかった悔やみと悲しみを引きずり続けるであろう。
 そんな悲しみの積み重ねが、他人の気持ちを自分に置き換えて考える共感能力を強めていくのかもしれない。
 それが万物に対し、慈しみのフィルターをかけて見る優しさをもつことができる。

この記事が参加している募集

私のイチオシ

読んでいただきまして幸せです。ありがとうございます。