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かくも長きビジネスライフ 

はじめに

 おもえば、憲法二十七条の「すべての国民は勤労を有し、義務を負う」を遵守したわけではないが、私の人生の75%(50年間)は就労に費やして来たことになる。

夫は仕事を持つ妻に非協力的な態度を見せ、諍いになることが多かったが、経済事情や将来の自立を考えると、主婦に専心する気にはならなかった。

その時期を見据えることで願望や自由は封印し、自虐的に仕事や養育に力を注ぐことに、私は美学を感じていたのかもしれない。

私には自らを窮地に追い込んで、這い上がることに満足を感じる変質的傾向があるようだ。

 自分に枷を掛けて得る自由とは、仕事や家庭の不満を捨て去った、狭隘な領域の行動を意味する。だが狭隘であればあるほど時間と行動は、無駄に出来ない独自の世界を創作する。

 生活のあらゆる場面で自分の無知に出会うと、あらましの知識を得ようとする。得た知識を咀嚼して自分の思考に落とし込んできたことが、コミュニケーションを形成する時に役立っていた。

 「思考を持つ」ということは、相手に臆することなく自分の考えを表現出来ることと考える。

Ⅰ 仕事と家庭のバランス

 仕事と家庭を完全に両立させることは難しい。だがその時期の重要度が何かを考え、納得した比重差をもって行動すれば、精神のバランスは保たれる。

入社時に描いた大学部(○○社内)の夢は結婚と同時に消え、子どもを優先とした勤め生活に専心した。

家庭のルーチン化した日常を、仕事によって変更のないようにして行った。

子どもとの時間は、子ども主体とするばかりでなく、自分との共存性を探し出した。

養育を親の義務とは気負わず、子どもの好奇心に並列しながら自分の知識を深めていくと楽しくなる。

 恐竜が子どもの好奇心の対象であれば、生物の進化・地学など派生するジャンルを探求して行くうちに、壮大な地球史に辿り着く。そこで過去・現在・未来の時系列が錯綜して想像が駆け巡り、地球の未来を危惧する意識までに到達する。

それはエゴから解放されたピユァな心を取り戻す瞬間でもあった。

 私は帰宅後の繁忙を考え、昼食時間に買い物を済ませる時間配分をした。夜会がある時は子ども同伴で出席し、時を見計って退座していた。当然ながら会に集中できないことは承知の上である。出席者からは「無理をして子供を巻き込まなくても」と、批判めいた声もあったが迷惑を最小限にしながらの行動であった。母親の仕事外に係るものが、何であるかを見てもらいたかったことと、子どもをひとに預ける厄介さを避けたい気持ちからである。また、「何々のために出来ません」と言い訳するのも好まず、ならば「やる」結論を持ってプロセスしたかった。

 この考えが、諸々の問題解決能力を高めることにもなったが、時間の浪費と体力は酷使していた。だが人への依存エネルギーが駆使されないことで、精神状態はシンプルでいられた。

私の偏向的思考は内発的動機発動のため、すべて自分に責任が課せられる。責任が自己対象であることは自分にシビアになる。

 サルトルは「自由な人間は自分の責任において物事を判断、選択する。だから自分に対してすべての責任を負わなければならない」と言った。私は「思考の自由を得るためには、まず自制をしなければならない。自制を課すことは行動の拠り所となる「正当な理由」付になり、誰憚ることなく自由思考を獲得出来る」と論理立てをした。

 私はサルトルの思想を不確かな捉え方をして、自らの「自由」を意味付けていたのかもしれない。だが哲学者の説く自由と比類させることは、「個人見解」の自由を定義するエビデンスとなった。

自分の人生観を持ち、ビジネスにも哲学がなければならないと考える。「自分はこのように考える」と云う哲学的思考や、経験が多様な問題に取り組む自分を作り上げた。

失敗があると落ち込みはするが、気持ちのチェンジを促す楽観的性格も自分を救っていた。

 経験と雑学は引き出しに収納され、PTOに合わせて問題を抱えた時に照合された。

 雑多な刺激を受けながらの経験・哲学によって、多角的なものの考え方が出来るようになりビジネス視点にも表れた。物事を寛容に捉える対人間スキルになったと思う。

 凡人の私のキャリアなどは、複雑多様な現代を生きるキャリアウーマンには、時代錯誤の違和感を覚えるかもしれない。

だがデジタル時代の最中、ビジネスルールや価値観そのものは変わって来ても、人間の感情世界は普遍的なものである。

 むしろ時代に逆行して、心の機微は複雑化し、感情は狡猾さを増しているような気がする。それがパワハラといわれる昨今の問題ではないだろうか。

不条理な社会のなかで、理不尽な扱いを受け生きる気力さえ、失くしている人がいる。

Ⅱ パワハラとの闘い

 30代の私は強風に逆らう意地が、自傷になってしまったこともあった。

痛手を負うことは自らを省み、人間としての未熟さを感じさせることにもなった。完璧ではない自分が解かると、人を批判することや、シャーデンフロイデはむしろ不快になっていた。ブレない信念があれば自分を支えることが出来る。

 平成になってまもなく、私の勤める東北K支店は業務拡大の前段として、界隈の情報や時勢をキャッチ出来る店舗をオープンさせた。

 女性管理者の育成に力を入れていた時期でもあり、既存の女性管理者が所長として任命された。その輩下に社内の企画室に籍を置いた4人の女性が配属され、私はその1人であった。

 新事業所はK支店のエントランスの一角に新設された。店内はJR切符、テレホンカード、外国のブランドカップ、ハーブポプリなどの商品を扱っていた。

 新事業運営のノウハウを習得しながら、地域と密着することで、K支店の活性化を計ることが目的でもあった。

 オープンして数ケ月経った頃、所感の代償として、我が身を針の筵に置くことになってしまった。

求人募集を兼ねたある広告紙に店のPRを載せることになりその原稿を私が任された。

 出来た原稿を所長に見てもらったところ、「このカット絵はいらないわね。もっとPRの文章を多くしてください」と返された。

その指摘に私は、「新聞に挟まれる広告は大衆相手となります。開いた瞬間目を引くのはイラスト入りの広告だと思います。文字の多い広告は、読む興味をなくしてしまうのではないでしょうか。」と反論してしまった。

その瞬間、眉を隠したショートボブヘアの所長の眼に険しさが走り、肩パットの入った大胆な花柄のスカートスーツの足は、組み換えられて斜に構えて言った。

「じゃ、これでいいから!」と、原稿を突き返してきた。当然ディベートされる原稿と思っていたが、黙って席に戻るしかなかった。所長の捨て台詞に渦巻く怒りを背中に感じながらも、そのまま原稿を広報課に上げてしまった。

 このやり取りにスタッフは、目を書類に張り付けたまま、耳だけが呼吸しているような静さを保っていた。

私は納得出来る仕事をしたいがための反論であり、それを傲慢というならば上司には「YES」の返答しかない。

新事業の存在意義は、社員の独創性を伸ばす事でもあったはずだ。上司は部下の意思を聴いた上で、ベターな仕事は何かをディペートする態度があって然りと考える。クリエイティブな仕事は上司の命令の一言で、進む仕事ではないと思う。

「たかが広告されど広告」と割り切れば、「YES」でこの場は収まるであろうが、「事なかれ主義」で仕事をする気にはならなかった。

 後日、広告はA2判チラシの多数の広告の中央に載り、新聞に挟まれて配布された。開けばイラスト入の広告は最初に目を引いた。

 あの日を境に、所長の私へのパワハラが始まった。

ミスの原因も確認せず叱責する態度や、報告や相談に冷ややかな口調で終始する。少人数のスタッフの中での私への差異は歴然としていた。   

所長のあからさまな個人感情と、上司の特権を振りかざして報復する態度に、私はおもねる気持ちはまったくなかった。

こんな虐めに屈してはならないと、構える私ではあったが、ランダムに出る態度の後、心が重かった。

 松下幸之助の名言を覆すわけではないが、私のように「出過ぎてしまった杭も打たれる場合もある」と、ひとこと申したい。

 私が所長に宣戦の感情を明らかにしたのは、あの日の出来事からである。

 K支店長がオフィスにやって来て所長と談話をしていた。支店長は時折、私にもにこやかな顔を向けていた。

 電話が鳴り出ると、「もしもし、○○ですが妻をお願いします」。私は「旦那様ですか、大変お世話になっております。ただいま所長と変わりますのでお待ちください!」と言って受話器を渡した。

K支店長がオフィスから退出するや否や、所長は烈火のごとく怒りを露わにした。「私は仕事とプライベートをはっきりと区別しているのだから、家からの電話は取り次がないで!。それもK支店長の前で誤解されるようなことはしないでください」。この叱責に私は唖然としてしまった。

所長の怒りは、「私は会社に家庭を持ち込まない主義で仕事に専念しているのに、あなたは支店長の前で恥をかかせた」とばかり、取り次いだ私を窮追してのことであった。

 事前の通達がなければ家族からの電話は取り次ぐのが常識である。それでなければ、「後でかけるからそう伝えて!」と指示すればよいのだ。私は「夫婦間での意思疎通がされていないこと事態が問題ではないですか!」と、言い返したかった。

だが「分かりました。これからは旦那様の電話はいっさい取り次ぎいたしません!」と 、アイロニックに答えた。

 以前、所長が自分の話をした事があった。結婚してから大学部に入りたくて、受験勉強を毎晩会社に残ってやったこと。在学の二年間は寮生活を送っていたこと。その間夫が家庭のことをやってくれたことなど。と

 今、こうして所長としてデスクに座っているのは、夫の協力があってこそといえる。そんな献身的な夫に、「その尊大な態度は、家庭ではもっと出しているのなだろう」と勘ぐってしまった。

Ⅲ 社内転勤の決意

それからもパワハラは続き、意を決した私は所長のデスクの前に立った。

「所長お聞きしますが、所長は私に個人的感情をお持ちになっているとしか思えません。」

すると以外にも「そう!私は持っていますよ」とストレートな答えが返って来た。私にはその一言で十分であった。「分かりました。失礼します」と言ってデスクに戻って仕事を続けた。

私の投げた直球を率直に返球した言葉に、理由を聞く必要はない。それは竹を一太刀したような明確さであった。切り口を見せた竹の残骸を置いておくわけにはいかない。

 審判不在のマウンドで、デットボールを当てられ続けた私の心身は疲弊していた。壊れる前にこのマウンドを去ることで決着をつけるしかない。それは他のグランドへの転属願いの意思を、公にすることで終えることが出来る。

 数日後、総務課長に直接転属の希望を願い出た。私の行動を所長は知ってか知らぬか態度に変化はなかった。それからの私は、所長の言動を「無視」することで、仕事に専念出来た。

 所長の私に対する人事評価は最低ランクから二番目のCであった。そのことで総務課長から呼び出しを受けた。

 総務課長は「あなたの仕事振りや姿勢は社内外の評価の声を考えると上司の評価は低く過ぎる。いろいろあってのことだろうが、直属の上司の下した評価を覆すことは出来ない。そこで部長とも相談して、希望している社内異動の発令を出すこととします」とのことであった。

心理的虐待は被害者の個人見解と片付けられることが多く、ヒエラルキー組織では上司の評価が揺るぎないものとなってしまう。

評価はどうあれ、幸いにも総務課の上司が私をおもんばかって、職場転勤を進めてくれた。

 私の異動は所長の排斥したい思惑が叶ったともいえるが、「部下への悪評価は上司としてマネージメントがされていない」と、自らの査定評価を下げていることにもなる。

 新事業所の施行は早くも二年で終了し、人材派遣事業が再スタートを切った。メンバーはそれぞれ希望先に転属して行った。

 私のパワハラ事件の後、この悲劇は喜劇映画を観るような結末を迎えた。所長はF支社に転勤し、大勢の女性職場の管理者となったが、彼女たちを配下に収めることは出来なかった。課長への反発が激しく、職場内が統制取れずにいたようだ。そのうちに「課長の威厳は失墜し辞表を公言した」との情報が耳に入った。

本人の送別会で「この職場で私は皆さんの協力がもらえず、辞職せざるを得ませんでした」と異例の挨拶をして、出席者の失笑を誘ったらしい。  

女性管理者の先駆けとして、有望視された人物が、素地なのかそれとも「驕り」が高じて権限使用を誤ったのか、因果応報のような結末が、何とも言いようがなかった。

 それにしても所長の挑発的なスピーチに、「相変わらず負けん気が強いな」と、ボブヘアの小さな身体を思い出した。

 役職の威厳はリタイアすれば消滅するのだが、世間も自分も「過去の肩書」を利用することがある。地域の役員選出などがそれだ。自分を紹介する時に、消費期限切れ名刺を切り札のように出す人がいる。そんな姿を見ると「過去の肩書で箔が付くの?」と、聞きたくなる。

 現実の辛さから逃げる自分があれば、次に遭遇した場面でも逃げる道筋を辿ってしまう。ならば自分をさらけ出して、辛さと向き合うことが、前に進むエネルギーと成り得る。

 パワハラは権威に縋る自分の弱さの隠れ蓑であると思う。

 私のパワハラの試練は、管理者になった自分の反面教師となった。自力・他力の相互協力があって、仕事は成り立つものであることを示してくれた。

 時というものは、悲劇と思われた事象を、喜劇に変えてしまう要素がある。思い込みが強く直情型の性格の私はこのパターンに嵌り易かった。

Ⅳ 営業の仕事

 その後私は通信事業の営業担当に配属された。バックグラウンドが大企業であっても、営業担当者個人の誠実な仕事が、会社への信頼となり、仕事を動かす核となる。

 営業の仕事は独自スタイルを出せる面白味があった。私の雑学は「自分を個性化」し、対人コミュニケ―ションに発揮された。

営業課では担当企業をエリア分けし、ニーズ情報・提案書が受注したもの・アフターフォローやご用達などが仕事である。

 訪問する際には、その会社の沿革や動向など情報を入手して行く。キーマンとコンタクトが取れたら、案内された社内の壁の掲示物に(会社理念、目標等)に目を向け、話の糸口とする。

 役員室には、特技や趣味などが個人の掲示物を見ることも多い。アポなし訪問には、自社の通信情報誌やノベルティを引っ提げて行く。

受注された仕事は大企業の通信システムの大がかりの工事となる。営業担当者は各部門へ発注するためのオーダーを作成する。職人気質の技術部門と、各部門との連携を付けるのが営業であり、気配りを必要とする。

工事に立ち合い、顧客と工事担当間のコンタクトを取りながら、システム構築の完了を見届ける。終了したこの瞬間が営業の醍醐味と言えた。

 営業の仕事だけを単なる行うのではなく、係る人の生き方、考え方を自分への「手土産」とする。その土産は人生の味つけになってくれた。

 ある日ファクシミリを売った自営業者から「調子が悪いから交換しろ」と苦情の電話があった。命令口調で新品機器の交換を言って来たらしい。このお客は○○組事務所の強面のお兄さんだということは知っていた。

 購入から日にちが経っていないこともあり、機器を交換することは難なく用意できた。 

 私が訪問すると開口一番、「俺は上の者をよこせと言ったが、どうしてあんた一人で来たんだ!」とドスを利かせた声で聞いて来た。

私は、「この度は大変ご迷惑をお掛けいたしました。ファクシミリを取り付けた私に責任があります。これから新品と交換したいのですがよろしいでしょうか?。どうしても上司を呼べとおっしゃるなら、一度帰らなければなりません」。すると「まあいいよ、やってくれ」と言葉を和らげた。

 新品を取り付け、送受信試験の確認を終えてから、「ご迷惑をお掛けしましたが、どのような故障だったのでしょうね」。と始めて尋ねた。初めに故障の原因追及をすると、お客の「非」を探ることになると判断しての逆行である。

このままお客の苦情を鵜呑みにして事を収めてしまうことは、原因の本質を不明のまま、「脅かし」に屈したとも誤解されかねない。それでは自分の仕事を軽んじた、短絡的な苦情処理にしまう。「苦情をいえば何でもやる」と、会社の評判にも関わってくる。

トラブルというマイナスをプラスに変えるのが、営業担当の力量でもある。

 故障の原因追及は、お客の取り扱いにも触れなければならない。だが苦情は早急を要する。速やかに交換したことが意に添ったのか、強面の兄さんが照れくさそうに、「ご苦労様でした」と変貌してくれた。

 社に戻ると課長に呼び出され、「お前、あそこは怖いお兄さんの事務所だと知っていたのか。苦情処理を女一人で行くのではない!上司を連れて行け」と説教された。

 どのような人であろうと人間的差別を根底に持つべきではない、との独りよがりがそうさせてしまった。担当した本人が責任を果たすべく最初に行動することが、真意を示す謝罪であると考える。肩書を持つ者が先んじて、事を収めようとすることが、社員のスキルを上げることとは思えない。

 あの時の心境は、白装束を纏って戦場に望む戦国武将の心持ちであった。過剰意識と笑い話になるが、「身を捨ててこそ、真意は伝わるもの」を持論としているため、このような気持ちになる。組織に属し得ない自分のポリシーがそうさせてしまっている。

 通信事業の最先端を行く自社も、社会の動向に違わず人員の合理化が図られた。

この時私は勤続30年を迎えてはいたが、残り10年は在職できた。

だが家屋・学資などの借金返済で、私一人の給料では生活に破綻をきたしていた状況であった。人生を世代10年の節ごとに、意識改革を図って来た私は、50代で新たな道を作ることにした。

Ⅴ 会社を変えて

  随処主となれば立所皆真なり

「どんなところであろうと、その場その場で自らが主体性を持って生きる」

 この言葉の解釈の捉え方は禅僧によって若干違いがあるが、私のビジネスの場での心構えであった。

 私にとって仕事は、お金を得るための手段であり、好きとか、生きがいとかを自問する余裕すらなかった。ただ仕事をするからには持てる力を発揮するという理念が自分を動かしていた。その結果、図らずとも禅の言葉のように実現していった

 自分の人生を考えて、「すべての義務から解放された老人は、果たして我欲を離れることが出来るのか否かを、見定める仕事に関わりたいと考えていた矢先でもあった。 

 退職金で借金を返済し心は軽くなったが、資格を取って就職した仕事の給料は半分になってしまった。借金はなくなったもの、大学生と専門学生と三人の子ども抱えての生活は相変わらず困窮していた。

 だが子ども達は、「金を無心すれば、“打ち出の小槌”のようにで出してくれる」昔話のように思っていたらしい。幼い頃の考えを引きずって現実を見ようとしなかった。

そのため子どもたちは、不自由のない感覚で生活をエンジョイしていた。それは私自身が、貧窮を匂わせたくない思いからでもあり「罪は母にあり」。水上のアヒルのごとく」、姿は悠然としているが水面下は足掻いていた。

それは没落した貴族が、現実を見ず優雅に生活しているかのようで、「貧乏貴族」と揶揄して独り嘆いていた。

 三年後、私はK事業所長の役職から本社○○課長となって転勤した。

 ある日の役員会議の最中、部長が「課長の異例の昇進を部下たちに語ってもらいたいですね。本人が努力すれば課長のように管理者になれるように、わが社は「努力すれば夢は叶う会社」であるイメージをPRになると思いますが」。

高卒女性が一社員からハイスピードで管理職についた、つまり「○○会社ドリーム」を、自ら公表して会社の広告塔になれと言うわけである。

 部長の言葉に私は、「私は課長になることを目標にしたわけではありません。会社からの昇進辞令をお受けいたしましたまでです。仕事に真摯に取り組んで来たことは自負しています。おこがましいかもしれませんが、管理者になりたい一心が実現したと、思われている部長の意図と、私の本意とは異なります」と言ってしまった。その言葉に部長は「大変失礼なことを言いました」と言って二度と口にしなかった。

 会社第一主義で官僚気質の部長とは意見が噛み合わず、部長室で侃々諤々と度々議論していた私ではあった。役職の上下を越えた議論に部長も私も、心にわだかまる何ものも残すことはなかった。

 私は部下からの要望は多数の意見と見なした時 、同種事業所の状況をデーター化し「提案書」として役員会に図った。その結果、ボトムダウンとなるもの、検討を踏むもの、合意を得た提案は会社側から「お知らせ」として周知を願った。

 管理者とは、労使間のパイプ詰まりをなくし流れを良くする職務と考える。流れが詰まれば透明度はなくなり猜疑心が生まれる。

 それには現場が分からなければ、詰まりの原因を把握できない。直下の部下の報告を密に受ければいいというが、そこには主観が入った報告になりがちである。直接現場を知ることで現実が見える。

 そこで私は現場業務に入る機会を定期的に設けた。それがいつの間にか、困難事例の仕事や従業員の穴埋め、土日の人員補充に自らを置いてしまった。それが現場を熟知し、従業員と率直に問答することになった。現場改善や運営の効率化など提言出来た。現場を知るゆえに説明に戸惑うことがない。

 柔軟性のある会社だからこそ遠慮なく意見が言えたが、「自分を律してこそ言える」と心得てはいた。

 各部門で退職者が多く、人員不足による在職者の不満が噴出していることが、役員会議に出された。

 私は「退職者が多い原因を解決しなければ、人手不足による在職者の不満は溜まる一方です。この問題はループ状になっていますのでそれを断ち切る一案として申します。

毎月求人募集のチラシに高額費用を使っていますが、効果があまりないことは現在の職員不足で表れています。我が社は特異性のある部門も、すべて賃金がプールで設定されていています。求人募集広告にかかる多額の費用を、それぞれの部門別に○○手当として特別に付ければ、少額であっても“会社は考えてくれた”と思うのではないでしょうか。

在職者を囲い込むことを、まずは考えるべきです。

また新入社員をOJTするベテラン社員の実務に影響が出て来ることも考えなければならないと思います。

会社方針への不満が離職の原因ならば、膿を出し切らなければ問題は解決できないのではないでしょうか。」

 すると「課長!問題点を膿とは言わないでください。会社が悪いイメージに捉えられます。またお金では解決にはならないでしょう」と注意を受けた。討論するに言葉を修飾する必要はないと、「膿」に譬えた私の言い方は、トップには耐えがたかったかもしれない。

「でも頻繁に求人募集を出すこと自体、イメージダウンになると思いますが」と食い下がってしまった。

この意見に他の役員から「求人募集を数多くやっていると、当たりくじのような人材が来るときありますよ。」との声が聞こえた。

「あなたはそこに賭けているのか!」と、討論を続ける気持ちは萎えてしまった。

 「意見や諌言はすべき」のポリシーがロートルの管理者の存するところと恐れない私ではあった。私の直言にトップは一喝することなく、聞く耳を持ってくれたことは有難かった。

 良質な仕事は信念に裏打ちされるものであり、マジョリティに括られるものではないとの考えを貫きたかった。

おわりに

 歳を重ねるうちに、折り合いという便利さを身に着けて事を治める時間差を作ることが、一概に悪いことではないのだと考えるようになっていた。

 仕事を生きがいとしなくても、自分の価値観があれば仕事は付いてくると思う。

現代は多くの正反対のものを併せ持っている。ゆえに置かれた状況によっては、本音と建前を使い自己矛盾が起きるかもしれない。

でもそれもあっていいと思う。「そこで考える自分がいる」ことが徐々に自分を強くしていくと考える。

 私の生き方は損得を考えれば損と言わざるを得ない。

だが損な生き方は、我欲をあまり持たないこともあって、不穏な感情に悩むこともない。信念に沿った自分でいたがため、卑屈になる何ものもない。

いつ、どこで、どんな人と出会っても笑顔で言葉を交わし合える、その事実が生き様の表れと思う。

 かくも長きビジネスの世界に身を置いた、名もなき私の吐露する文には、ビジネス本を逸脱する行為が綴られていると思う。

 だが主体性を持って仕事をして来たことだけは確かである。

 信念を持ち続けて生きて来たことに、一抹の後悔も未練もない穏やかさが心地よい。

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