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よもやま独語

はじめに

 冬は澄み切った夜空を仰ぎ、星と心通わせるひとときがいい。冷気のなかで南の天空に際立つペテルギウス、リゲル、三ツ星のオリオンの星座を捉える。ペテルギウスを始点に、おおいぬ座のシリウス、天の川を挟んで子いぬ座のプロキオンを見つければ大三角点が描かれる。
 天空に展開される星たちの壮大な物語に、想いを馳せるときの至福感は何とも言えない気分である。果てしない藍色の空に意識が引き込まれ、無数の星と共に輝いている自分がいる。
 眠りを忘れた長い夜は、種々雑多な想いが流れ星のように去来する。打つ心音に耳を澄ませながら、流れ星の落としていった記憶を集め、よもやまな話を書き綴りたくなる。

I 「すばる」の六つ星

 数十年前、車メーカーのスバルのエンブレムに素朴な疑問を持ったことがあった。
星のすばるは、本の説明から肉眼で見える明るい七つの星の固まりと記憶していた。
 オリオン座の肩上に位置するのはおうし座である。おうし座にはプレアデス星団があり、和名は「すばる」と名付けられていることは知っていた。すばるとは「一つに集まっている」という意味である。
 この青白い美しく輝く星の集団は、古代から多くの人々を魅了し、数々の多くの書物に書かれている。
 プレアデスの神話は各民族の星座神話があるが、その中の一つを選び出したものである。
 プレアデス星団のプレアデスは、ギリシャ神話に登場する七人姉妹の女神たちにちなんで名付けられた。
 七人姉妹の一人であるメロペは、カミュの随筆に登場する「シーシュポスの岩」のシーシュポスの妻である。神を欺いて神々の怒りをかった夫の行為を恥じたメロペは、星の姉妹の七番目である存在を自ら消した。
 そのためにプレアデスの星が六つになったとの物語である。
 1950年、GHQ指令により財団解体で富士産業は十数社に分社されたが、のちに富士重工業が設立され、分社で出資した5社が合併吸収となった。
 スバルのエンブレムの大きな星は富士重工業、小さな星は吸収された五つの分社。この六個が星団を表現して、「スバル」と命名された。
 私の疑問であったスバル車のエンブレムが何故六つの星なのか納得した。
 ギリシャ神話から導き出された私は、現在のSUBARUの沿革まで知ることとなった。
 加速と移動追及の科学技術の競り合う時代であっても、ギリシャ神話はいろいろなジャンルで大きな影響を与えている。
 神は超越した力を持ち、崇高な座に位置付けされているが、神々が織りなす権力闘争と愛憎劇は、神が作った創造物の人間と何ら変わりはない。
不老である神々は苦難を永遠とするため、人間の限りある生命にほっとしたものだ。 
 ギリシャ神話を紐解けば神々が個性的で確かに面白い。この面白さと神の超越した力が、現代までも様々な芸術や文化に影響を与えているのであろう。
 科学がどれほど進歩しても、人類はギリシャ神話という異世界のロマンに憧れ、精神的な拠り所としてきたかは窺い知れる。

II 極限の生物は小さい

 環境の極限でも生きる生物は、どのように適応して来たか知りたかった。
 海の熱水が噴出する場所に生息する生物は、発生する毒ガスがエネルギー源となっていると、生物学者は答える。(チュームワームなどの生物)
 クマムシは乾燥保存の出来る動物である。海、山、熱帯、南極とあらゆる場所に棲み、池や道路脇のコケの中にもいる。
 水生動物なのに泳げず、水中をゆっくりと歩く。いつも水の中にいるので、乾燥に耐えられる能力がない。
 ところが陸生のクマムシは、過酷な環境に耐えるしくみを備えている。水のない場所では「乾眠」と呼ばれる脱水した仮眠状態となり、全ての代謝をストップさせる。ワイン樽のような形を成して乾燥する。
 驚くことに、-273℃の低温、120℃の高温、またレントゲンX線を1日浴び、UV殺菌ランプの中に6時間いても生命は保たれる。大気圧百万倍の高圧にも耐久性があり、宇宙空間でも生存が確認されたという。
 地球生物が絶滅したとしても、生存可能な恐るべきムシである。だが寿命は6ヶ月で、動いている時にお湯をかけられたら死んでしまう脆さもある。
 近年クマムシ特有の乾燥耐性に関わる遺伝子セットが備わっていることが解明された。このクマムシの生態が人間に適用され、私たちも古代エジプトファラ王のようにミイラとなって、地球の危機を免れた後、蘇生する可能性もあるかも?と想像を逞しくしてしまった。
 地球史を学ぶと突然変異の小さな生物が生き延びている。人類も突然変異から人間の経路を辿っているといわれる。
 人間は60兆の細胞を持ち、原始時代から100兆のバクテリアと共存し維持している。それを考えればヒトの生命力は、バクテリアの過度な排除を望んではいない。もっと生命力内部にあるものを、知るべきではないかと。
 「清潔感を苦慮することは体に必要なバクテリアを排除し過ぎている。抵抗体を弱体化させないにも見直す必要がある」と、ある生物学者は語る。この言葉にわたしは共感するところがある。
 私たちの身体の自然免疫力を高める方法の情報は溢れている。
 だがそこに幼児期の土いじりが、土壌中に存在する多様な微生物を体内に取り入れことで、免疫システムが鍛えられるなどは、積極的に公言されていないのではないかと思う。
 感染すると自然免疫が働く。と同時に獲得免疫が出来ることから、条件の許す限りウィルスと闘う機会を作るべきと、考えるは浅慮であろうか。

III 坂口安吾の「ふるさと」

 柄谷行人の文学論集に、坂口安吾の「文学のふるさと」からの文章が載せてあった。
 私たちのいう「ふるさと」とは、私たちを温かく包み込み、安らぎを与えてくれるものと考える。
 行人は安吾のいう「ふるさと」とは、「逃げるにも逃げようのない。それに気付いた時は組み敷かれずにいられない性質のようなものだ。宿命などというよりも、もっと重たい感じがするのっぴきならないもの。つまりモラルがないとか、突き放すものだ。我々の生きる道は、どうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこにはモラルがないということ自体、モラルなのだ」と。そして安吾はこの突き放すような感覚を「ふるさと」という。
 安吾の「ふるさと」とは透明な切なさの中にあり、抽象的でインパーソナルな無機質な世界にあるのだと。
 この文章から安吾の言う「ふるさと」は解らすとも一瞬、松本清張の「砂の器」を思い出した。あの小説に描かれた「ふるさと」が、どこか類似しているのではと。
 作中の親子はふるさとを追われ流浪の旅を続けた。成長した子どもの感じる「ふるさと」とは、突き放されていながら逃げるにも逃げようのない、重いものであったに違いない。
 この小説の主題は「宿命」であるが、安吾の思考はもっと深いところに蠢いている。だが私は「宿命」も内包していると思う。
 安吾が「芥川龍之介の遺稿」を読み、自らの考える「ふるさと」と比した文を書いた内容から、おおよその解釈ができた。
 芥川の遺稿とはこんな文であった。
 「晩年の芥川の家に農民作家が原稿を持ってやって来た。それはある百姓が貧困のため、生まれた赤ん坊を殺し、石油缶に入れてしまうという筋書きであった。芥川はこれを読んで、“いったいこんな事が本当にあるのかね”と聞いたところ、農民作家は“それは俺がしたがね!”と言う。芥川があまりのことにぼんやりしていると、“そんなに悪いことだと思うかね”とぶっきら棒に言い放つ。
 どんな事柄にも敏速に応答しうる芥川が、何も答えられないでいた。
 農民作家が立ち去ると、彼は突然“突き放されたような気がした”と言う。
 この突き放された気分を考えると、子殺しの話が、モラルを超えているという意味ではなく、芥川の想像も出来ないような事実であり、大地に根を下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのであろう。それは彼自身が根を下りていないためだったかもしれない」と安吾は言った。
 安吾は、「芥川のこの遺稿に自分が農民の生きている現実に、ショックを受けてというなら、注目はするはずがない」と。
 生活(ライフ)の語はもともと西欧語で生(ライフ)の意味が根源だ。生活とは個性によるものであり、元来独自なものであるはずである。
 安吾の「ふるさと」は、「生き死に」を問われる深いところであり、ノスタルジックなものではないと、語っているのかと思えた。
 私は芥川の遺稿随筆文から「ふるさと」を読み取る安吾、そこから独自の「ふるさと」論を語る安吾。安吾の思考を受けて、行人の感性が捉える。
 この三人の作家が追及する一連の文を読み、それぞれ独自の持つ深い思考に憧れを覚えた。
 私にとって安吾の究極の「ふるさと」は、掴めそうで掴めない歯がゆい気持ちが、今だに燻り続けている。

おわりに

 私はまだまだ眠りにつきそうもない。
最近まで眠ることへの欲求が強かったのに、十分な睡眠の取れる環境になり、望まなくても永遠の眠りを与えられる年齢になって、眠る時間が惜しくなったのか、眠りを忘れてしまっている。
 ならばこの時間がもったいない、とばかりに本を読みだした。
 夜明けは近い。

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