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罠のある森

はしがき

 薄霧の中の春の山は、薄く色を重ねた水彩画のように穏やかな静けさに包まれ、潤いある大気は生命の息吹を促していた。
 濃淡の緑色の葉は、零れる光をやさしく受け豊かな森を育んでいる。山はその懐に入ると高尚な魂を呼び起こしてくれる。
自然に存する山には畏敬を感じながらも、人が踏み込めば林業として経済を担う「属」となる。
 昔、山が包含する豊かな資源を悪用した男のため、二人の男が殺害されていた。
 犯人の刑は死刑判決から19年後の1993年に執行された。その時を迎え、遺族は長い年月の遺恨から解放されたに違いなかった。

1 

 近藤佐吉(33歳)は、共犯者安藤武と共謀して1970年の7月、保険金騙取目的で知人の雑貨商(42歳)を殺害した。事件は解決の糸口が掴めず、未解決事件とされていた。
 その事件から10ヶ月後の1971年5月、近藤は単独で知人である同村の山林仲介業、笹川孝義(44歳)に虚偽の山林売買を持ち掛けて呼び出し、これを殺害して300万円を強取した後、死体を所有の水田に遺棄していた。
 笹川孝義は「ナゾの失踪」として捜索されていたが、4日後に同村の山近くの田地の中から他殺死体となって発見された。
 警察はそれまでの笹川の移動した経路を辿ると、近藤の行動に行きつくことから、近藤を重要参考人として任意同行し、家宅捜査をしたところ、自宅の畳下から奪われた300万円の一部と見られる現金250万円を発見した。笹川が奪われた現金は300万円のため、消えた50万円の使途を追及したところ、借金返済に使ったことが残された領収書から判明した。
 警察はこれを動かぬ証拠とし、近藤を山林仲介者強盗殺人・死体遺棄容疑で逮捕した。
 笹川の死体が見つかったのは、県道から農道に50m入ると左側に並ぶ近藤所有の田地からである。
 死体は1m程掘られた穴の中に、体を仰向けにして脚を折られた格好で、下着姿で投げ込まれていた。右側頭部に鈍器で殴られたような陥没があり、右耳からの流血で明らかに他殺とわかる状態だった。
 孝義の死体の上には、ワラ、土、ワラを被せられていた。それは一見、田起こしのまま放置された外観であった。この時期の田は、水を張って代掻きされているのが通常の田園風景である。
 近辺の田を持つ人たちは、いっこうに代掻きする気配のない近藤の田を見て、「どうしたのだろう、今年はコメを作らないのかね?」と不思議がっていた。
 この話を耳にした警察は不審に思い、偽装の疑いがあると睨んだ。
 それまで警察は全署員を動員して聞き込み捜査する一方、地元消防団員の応援で80人が笹川の山狩りを行ったが、見つけだすことが出来なかった。
 だが同村内で笹川の足取りがプッツリ切れていることから、強盗殺人の疑いを濃くしていた。
 警察は家族と関係者の供述に食い違いが多いことから、捜査が遅々として進まなかった。
 近藤は「笹川さんに自動車売却の話は持ち掛けたが、山林売買の話はした覚えがない」と頑強に否認していたが、警察はこの事件の発生当初、笹川の妻の話から極めて犯人に近いとして近藤のマークを緩めなかった。
 また死体発見現場付近で、近藤がワラを燃やす素振りをしながらその陰で、何かを燃やしているのを付近の人に目撃されていた。
 その目撃者は、近藤の火の後始末が気掛かりになって、焼却していた現場に行き、「燃えカスの上に砂を掛けて来た」と証言した。
 これが功を奏して、燃えきれなかったチャックと衣類の一部を燃え跡から発見出来た。
 燃え残りの衣類の一部を鑑識すると、近藤が着衣していた血痕の付いた衣類の一部であることが判明した。
 警察は「殺害現場はそう遠くはない」とその付近の森まで捜索を広げると、長さ1m、直径7cmの凶器らしきこん棒と、さらに土中から笹川の衣類の一部が見つかった。
 これらのことから警察は死体発見と同時に近藤の自宅を家宅捜査に踏み切ったのだった。
 その後、笹川の軽四輪車がK駅前で発見された。あたかも笹川が車を乗り捨て、金を持って蒸発したかのように思わせた偽装行為である。
 警察はT町の愛人の裕子の家にいた近藤を任意の取り調べを行った。
 「俺はあの日の夜はこの家にいた」と、アリバイを主張した。
裕子は、近藤が珍しくタクシーで来たので、ふと時計を見ると11時40分を指していたと供述した。
 それでもシラを切る近藤に、調べ官が「6時頃山から下りて来た近藤さんと、言葉を交わした」と語るダム工事作業員の証言を突き付けると、「俺は山には行っていない!」、声を荒げて否定するふてぶてしさを見せていた。
 その場で愛人宅を捜索すると、犯行時に使用したと思われる長靴、汚れた衣類が発見されて動かぬ証拠となった。
 近藤はこれまで土工、砕石請負業、車や山林ブローカーと転々と職を変え、近藤を取り巻く仲間もたびたび問題を起こし警察の取り調べを受けたことがあった。
そんな時も近藤の態度は大胆悪辣で反省心の欠片も見せなかったため、村民からも悪評の高い男であった。
 最近は家でブラブラしていることが多く、それでいながら愛人を持つという乱脈を見せ、家庭にも帰らない日が多く、妻との諍いが絶えなかったという。

 笹川孝義は4月25日の朝、「近藤から“例の物件のことで契約したいからお金を用意して、K駅に4時まで来てくれ”と電話があった。これから銀行に行って、その足でK駅まで行ってくる」と妻に伝えた。
 孝義はカーキ色のジャンバーを着ると、取引する時に現金入れにしている巾着袋と風呂敷をタンスから取り出した。テーブルに腰を下ろすやいなや、妻の淹れたお茶を一気に飲み干した。
 「じゃあ行ってくる!」と、足早に軽四輪車に乗り込んだ姿が夫を見た最期であった。

 孝義は35歳からゲタの製造を生業として来た。
 最近はゲタの需要も減り、桐材が不足してきたこともあって5年前からほとんど製造を止め、知人の勧める山林の売買・仲介を本業に切り替えていた。山林の価格は、土地と立木をそれぞれ別に査定される。孝義は立木を査定して材木を専門業者に売買するのが主としていた。
 その頃、建築資材需要の動向により、マンション造作等に用いる木材加工が求められていることから、山林仲介業の仕事は将来まで見込めると判断しての選択であった。

 殺害されるⅠ年前、ダムに続く山道を仕事に見合う山林を物色しながら走らせていた。
 木々を眺めていると、木材用途として有用な杉やヒノキ等の針葉樹が立ち並ぶ森を見つけた。
 地番の公図を元に謄本を取得すると、その山は同村のE所有の山林であった。
 早速、笹川はE宅を訪問し山林売買の話を持ち掛けた。
Eは「500万円なら手放しても良いが」と予想外の値踏みを出し、売る気のない態度をありありと見せた。
 従来の孝義の取引高は100万円程度であったがこの取引は200万円の買値を想定していたが、予想外の高い値踏みに気持ちが萎えてしまい、折衝もせず諦めて帰ってしまった。
 孝義が山林仲介の仕事に従事して5年が経っていた。懸命に仕事をして来た甲斐あって、業者から信用を得るようになり、口コミで仕事が入って来た。
 男の40代、仕事の安定期を迎えた今、でかい仕事をして自分の力を示したい顕示欲が膨らむのは当然である。妻には頼もしい夫であり子どもが自慢できる父親、世間に認められるには大きな仕事を残すことであった。
 孝義は何か見えないものが自分を突き動かしているのを感じていた。

 孝義は顔立ちが良く、素直でやさしい性格な男の子と近所で評判であった。
 7人兄弟の次男の孝義に、子どものいない他家のSから養子縁組の話が持ちあがった。孝義は親が納得したこともあり、高校を卒業するとS家の跡継ぎとして養子に入った。
 「4人息子の1人ぐらい、経済基盤のしっかりした家の養子になることは、息子も幸せだろう」と考えるも親の愛情ではあった。
 S家は農業とゲタ作りを兼ねていた。
 養父と養母・養母の12歳年下の実妹の3人家族だった。
 養父は温厚な人柄で、勝気な性格の義母が家を切り盛りしていた。離婚した義姉は、親代わりであった長姉の義母が同居を勧め、農業の手伝いをさせていた。孝義は農業の傍ら、養父のゲタ作りを手伝い、技術を身に付けて行った。

 平穏な孝義の生活が一変したのは嫁を貰ってからのことである。
 養母は教師をしていた嫁の栄子のモノ申す態度が気に入らなかったのか、たびたび言い争うことがあった。その都度無口な養父が、養母をたしなめて事を納めていた。
 ある日養父が桐材の加工中脳出血で倒れ、2日間意識不明のまま死んでしまった。
 養父の初七日を終え弔問者も途絶えた夜、養母は居間にいた孝義夫婦の前に立ちはだかり、いきなり「二人ともこの家から出て行ってもらいたい!」と険しい顔で言葉を投げつけた。それは養子縁組の解消を踏まえた一方的な戦線布告だった。
 我慢の限界を訴える養母の声が響く中で、義姉は下を向いたまま、一言も発しなかった。
 孝義は養母の思いがけない態度が理解できずただ唖然としていた。
 妻の栄子が、「私だってお義母さんの態度に我慢して来たのに、それを自分だけの言い分をまくしたてているなんて。私たちはこの家のために一生懸命働いて来たじゃないですか!」
「あんた達にこの家を任せるわけにはいかないんだよ!」と義母が止めを刺す言葉を吐いた。
 妻は「そうですか!こんな家欲しくもない。こちらから喜んで出て行ってやる!」
 妻の慟哭する姿にようやく我に返った孝義は、「10年間この家の息子としておふくろに従って来たのに、なにがそんなに気に入らないのか!」となじったが、女たちの怒号の中で言葉はかき消されてしまった。
 栄子は、険悪な空気が流れるこの部屋を逃げ出すように、孝義の腕を引っ張って家の外へ飛び出した。

 養子として実家を捨てた孝義には、こんな結末で実家に泣きつけないプライドがあった。
 栄子に対しても、妻にする時教師の仕事を強引に辞めさせ、閉鎖的な家に埋没させてしまった悔恨が孝義の心を重くした。
 翌朝、騒ぎを聞いて親戚が取り成すも、養母も嫁も頑として自分の意思を通し、拗れるばかりであった。養母はどうやら末妹を跡継ぎにさせるため、養子縁組を決めたようだ
 日頃から何かと癇に障る嫁と、所詮血の繋がりのない他人の孝義ともども、老後を託すことは出来ないと判断したのであろう。
 舅が姑嫁の諍いに妻の自分だけを諫めていたことも、嫁への憎しみを増長させたかもしれない
 友人は裸同然で家を出た孝義夫婦の窮地を見かね、廃屋と化した実家を提供してくれた。財布を握っていた養母から渡されていた「小遣い」と称するお金では、貯金する余裕はなかった。
 親戚に頭を下げて借金することを考えていた矢先、雨風凌げる家をタダで貸してくれる友人の温情は、明日の暮らしに繋げられる、安心を得た心地であった。

 S家騒動はあっという間に村中に広まった。「そこまでされるには何か原因があったのだろう」と、様々な憶測を招いた。
 だが夫婦の住まいを訪れた親戚は、ワラを布団代わりにしている生活を目の当たりにし、「S家のあまりの理不尽なやり方に驚愕した」と語っていた。一瞬、戦時中の貧困生活にタイムスリップした錯覚に陥ったらしい。
 この夫婦の立場は、崖っぷちに立たされた状況を物語っていた。
 それからの孝義夫婦は、どん底の辛酸を味わった惨めさがバネとなり、また「生まれた息子のため」にどんな仕事でも懸命に働いた。
 その甲斐あって人並みの生活を取り戻し、多少の蓄えも出来た。
 廃れた家も器用な孝義の手で修理され、借地代を払う余裕も生まれた。       
 心の余裕は憎しみを払拭してくれた。
家を追い出されたあの時の惨めさと辛さは薄れ、ゲタ作りを教えてくれた養父を懐かしく思い出されていた。
 そんな思いからゲタ作りを本職にしょうと決意した。
養父の下で覚えた木材の目利きや、丁寧な仕事の仕方は、履物問屋にも気に入られ注文が来るようになった。
 それからの数年はゲタ製造で安定した収入を得ていたが、履物は変革の時代を迎え年々ゲタ需要が減り製造を止めざるを得なくなって来た。

 孝義はE所有の山林を見つけた時の高揚感も薄れ、目の前の仕事を堅実にこなすことに没頭して1年が過ぎた。
 ある日、孝義の家に同村の自動車と山林ブローカーをしている近藤が訪ねて来た。
近藤の用件は、孝義が諦めたE所有の山を売りたいので買う人を捜しているという、思いがけない話を持ってきたのである。
 近藤が言うには「久々にEさん宅に行ったら山の話が出てね。“急にまとまったお金が入り用になって、山を売ろうかと考えている”と持ち掛けられた。俺がEさんに“そうは言ってもすぐには見つからないと思うよ!”
“まあ、売る値によって買う人もあるだろうけど”と値踏みすると、Eさんは“即金で払ってくれるなら、300万円で手放してもいいが”と自分から値を出してきた。
 家に帰る途中、孝義さんが去年、Eさんに山の売買を交渉したことを仲間から聞いていたことを思い出し、孝義さんに先に話をするのが筋だとこうして来たわけ」と笑いながら言った。
 話を聞いた孝義は、「へぇ!俺が交渉した時、Eさんは500万円以下では手放す気はない“とけんもほろろだったのに、200万円も値を下げるとは!」と、内心半信半疑でいた。
 近藤は、「Eさんの家ではなにか切羽詰まった事情が出来たらしいよ。内輪の事情だからそれ以上は聞かなかったけど。
 孝義さんが交渉した頃は、Eさんも“先祖の残した財産を自分の代で売ったなどと、世間に言われたくない”という思いがあったのだろうね。だからと言って、高い利子を払って借金するなんてバカげたことはしないだろうよ。借金を作れば結局は子どもたちに迷惑をかけるわけだからね。
 Eさんだって歳をとれば山の管理は出来なくなって、山をほったらかしにするのが目に見えているしね」
 近藤はここまで話すと自分の説明に満足するかのように顔を上げ、煙草の煙を吹き上げた。    
 「とにかく、自分の都合で手放す山は買うほうが有利だからね。他の人に声掛けしないうちに決めたほうがいいと思うよ。
俺が買いたいくらいだがこのところ車の仕事が忙しくてね。金も手も回らないのに手を上げるわけにはいかないよ」と、いかにも残念そうに口を曲げた。その瞬間、孝義の顔に表れた喜びの表情を近藤は見逃さなかった。
 近藤の返事を急かせる強気な言葉が、孝義の理性を曇らせてしまった。孝義は所有者のEと一言も交わすことなく、近藤の虚偽に踊らされたまま事件の日を向かえてしまった。

10

 笹川孝義は歌舞伎顔のようなすっきりした顔立ちの、やさしい性格の男であった。
そんな男にありがちな優柔不断なところはなく、酒、煙草、賭け事や女の誘惑にも一切乗らない生真面目な男であった。
それが時には男からは「付き合いの悪い奴」、女からは「面白くない男」と揶揄されることがあるが、そんな夫を妻は信頼し自慢でもあった。
 栄子はいまだ勝手、無断で外泊したことのない夫の帰りを、一晩中待ち続け朝を迎えてしまった。
 「もしかして何らかの事情で戻れなかったのかもしれない」と、自分に言い聞かせ、帰宅するはずの夫へ「電話をください」と書置きをして勤めに出かけた。
 だが昼を過ぎても孝義からの電話はなかった。心配した栄子は会社を早退し、夫が利用している県商工信用組合を訪れた。
 行員は「昨日確かに旦那さんが来ましたよ。融資額の200万円をお渡ししました」と語った。
 栄子は大金を借りた夫が消息を絶ってしまったことに不安を覚え、村の駐在所に駆け込みS警察署に捜索願を出した。
 警察が孝義の足取りを追ったところ、県商工信用組合から200万円借りた後、農協の窓口で現金95万円を通帳から引き出したことが分かった。
 農協のカウンターで、手持ち金の5万円をたした300万円の札を巾着袋に入れ、それを風呂敷に包み自分の腰にしっかり結び付けたのを行員は見ていた。大金を肌身離さないために巾着袋と風呂敷を使用したと考えられる。
その格好で孝義が軽四輪車に乗り、K駅方面に走らせて行ったのを確認されていた。
 同署では関係者一人ひとり事情を聞いた。
 山林所有のEは「笹川さんに一年前山を売ってほしいと言われ、その時500万円の値を付けたものを、300万円まで値を下げて売らなければならない事情など何もない」と、一切の接触がなかったことを証言した。
 近藤は「孝義さんと話はしたが、山林売買の話を持ち掛けたことはない。電話もしていない。前に普通乗用車を勧めたことはあったがそれだけだ。あの日確かにK駅で孝義さんを見かけ声を掛けたが、俺も仕事中だったのですぐに別れた」
 だが聞き込みにより、E所有の山方面に向かう孝義と近藤の姿を目撃されていた。

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 雑貨商の松田正一と土木業を営む安藤武とは、村の商工会の集まりで親しくなった。
 安藤は松田より5歳ほど年上だが二人は妙に馬が合い、遊び馴れた安藤が松田を引き連れるように飲み歩くことが度々あった。松田にとって元やくざの組員である安藤と行動を共にすることは、強い後ろ盾を得たようで心強かったに違いなかった。
 1971年の7月、松田は山の麓を流れる川で死体となって発見された。
 状況から注文の雑貨品を届けた帰り道、バイクで川に架かる橋を渡る途中、ハンドルを誤って欄干に衝突し川へ転落死したと思われた。
 死体発見者によれば「早朝、橋の上を歩いていたら横倒しになったバイクがあった。不思議に思い橋の下を覗くと、川の浅瀬に人が倒れていたので驚いて河原に降りた。その人はもう死んでいたのが分かったので、すぐに家に戻り110番した」と説明した。
 現場の状況は欄干には擦り傷があったことから、バイクが欄干に衝突した際身体が飛ばされ川に転落したかのように見えた。
 だが警察が不審に思ったのは、倒れていたバイクがエンジンのかかったONの状態ではなく、停止状態のOFFになっていたことだった。その時間人は通らず、発見者はバイクに一切触れてはいないと証言した。
 警察は「事故死」と「他殺」の二つの線で捜査を進めると、松田には500万円の保険が掛けられ、その受取人が「安藤武」になっていることが判明した。
 赤の他人の安藤が、何故保険金受取人になっているのか安藤に問うと「貸した金をいつまでも返さないから催促したところ、松田は”もうちょっと待ってくれ“と言い”その代わり、返すという保証の担保として保険金の受取りを安藤さんにするから”と懇願されてね。“そこまでしてくれる気持ちがあるなら待ってやる”と言った。
 すると保険屋を電話で呼び出し、目の前で契約書を書いた。これがそうだが」
確かに「松田正一」自筆の契約書がそこにあった。
 保険会社の担当者の証言と安藤の話が合致したことや、当夜、安藤が土木業者の会合に出席していたアリバイがあったことから容疑者から外された。
 だが松田の死には謎が残されたため、「事故死」と「他殺」の二つの線が絞れぬまま、未解決事件となっていた。そのため保険金は未払いのまま、保険会社も独自の調査を続行していた。

12

 この事件が村の話題から消えかかって来た頃、山林仲介殺人犯の近藤から思わぬ言葉が綻び出た。近藤の供述調書を取っている時のことである。
 笹川孝義殺害は金の強奪が目的ではあったが供述中に「俺だって前にやった仕事の約束の金を貰えば、孝義さんを殺さないで済んだものを」と、不可解なことを言い始めた。
取り調べ官が「何の仕事をして金が貰えなかったのかね?」と誘導すると、近藤は「俺はうまくやったのに。奴に約束の金を催促すると“保険屋が調査中だと言って出すのを渋っている”とあいまいにした。
いつ貰えるか分からない金を待つわけにはいかないから、俺単独で金を強奪しょうとやった結果がこのざまだ。
俺はこうして殺人犯で捕まって刑をくらうが、保険金を奪う計画を立て殺害を俺にさせた奴が、のうのうと生きていやがる。奴のほうが悪いと思わないか!」と取り調べ官に毒づいた。
 警察は近藤のこの話から保険金が絡む未解決事件ではないかと調査すると、一年前の松田正一の転落死事件が浮上して来た。
 それからの近藤は、被害者意識で安藤の悪辣を罵った挙句、共謀して松田さんを殺害した全貌をベラベラと自供し始めた。
 安藤は松田正一に貸した金の返済を迫り、
保険金の騙し取り目的で殺害を計画し、自分の容疑をカムフラージュするために近藤を利用した。
 安藤が初対面の近藤に200万円で殺害を持ち掛けると、悪がどっぷり染みついている近藤はいとも簡単に犯行を引き受けた。
そこで安藤は近藤に犯行を実行させるため、松田に「7時にあの橋で待っているから」と告げたのであろう。
 橋で松田を待ち構えていた近藤は、「安藤さんから頼まれたのだが」と呼び止めた。
松田がエンジンを止めバイクから降りようと体を曲げて足を上げた瞬間、松田の体を思い切り持ち上げて転落死させたと自供した。
 安藤と近藤、近藤と松田、それぞれ二人だけの接点は捜査上には浮上しなかった。三人の頂点に位置する安藤によって見えぬ線が引かれていたのである。
 安藤の罪状は松田正一保険金殺人教唆罪で無期懲役の実刑を言い渡された。
 保険金騙取殺人犯が逮捕されていれば、山林仲介業の第二の殺人は起きなかったことは事実である。
 社会が多様化すればするほど犯罪も複雑になっていき、犯行も奇妙に組み込まれ、第二、第三の犯罪を誘発してしまうのではないかいう危惧意識を抱いてしまう。

あとがき

 これは今から53年前にN村で実際に起きた殺人事件をモチーフとした小説である。
 殺害された山林仲介業の笹川孝義は、義父とはいとこ同士であった。
 夫の親族がおぞましい殺人事件の被害者であったことはいままで知る由もなかった。
 それを知る親族も亡くなっていることもあり、事件は記憶の底に沈んでしまったように語られなかった。
 私は孝義が「評判の悪い近藤の虚偽を、何故信用しきってしまったのか」しばらくこの疑問から離れなかった。
 今となれば、事件は風化され事実を知るすべがない。事件内容を知らなければ、疑問は解決できない。
そこで私は、図書館に保存されていた当時の新聞の記事を調べた。
 だがそれだけの調べでは疑問は疑問のまま。ならば私の構想をもとに、事実をモチーフとして笹川孝義の心の内を探ってみるしかないと考えた。 
 彼は正直者で、その性格にありがちな何事も真に受けやすいことは推測できる。
 その真面目な孝義が、養子縁組を解消され家を追い出されたショックは大きかったに違いない。どん底の貧乏生活から這い上がるための苦労も想像できる。
 この二つの軸が孝義のそれからの人生に影響を与え、自分が認められる機会を探っていたに違いない。
 悪行を重ねて来た近藤には、孝義の心の動きが視えていたかと思われる。
 だが犯罪の手口があまりにも稚拙な事件であるがゆえに悔しさが残る。
 社会は目まぐるしく変容しているが、人間の業の深さは変わらず脈々と息づいている。 
 私たちは、人を信じる大切さ、素直な性格、正直に生きることを望み願い、そんな人間でありたいと思いつつ、傷づくことや、悪の企てに巻き込まれる危険度も高くなるのが現実である。
 人間社会は善・悪の二項対比が不変的存在ならば、善に潜む悪を見抜く眼を持つことの必要性が迫られている。


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