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我がシネマヒストリー

まえがき

シネマを語るなど、大それたことは出来ない。ただ私は映画が好きだ。単純な映画好きが映画を衒いなく語りたかった。

映画が私の人生の句読点に、どのように刺激を与えて記憶を重ねて来たか、70歳のシネマヒストリーを辿りたいと思う。

Ⅰ 我が家

我が家の玄関ドアを開けると、ゴッホの名作「ひまわり」の複製画と、大きな2枚の映画ポスターが眼に入る。1枚は甲冑を身に付けた三船敏郎がクローズアップされた「七人の侍」もう一枚はヌーヴェルヴァーグの中心的旗手といわれるゴダール監督の各作品のワンカットを、1枚ポスターに構成されたものである。

狭い玄関の壁に掲げられた、これらのポスターに迎えられる訪問者は、場違いの雰囲気に一瞬の戸惑いを感じるかもしれない。同時に、「何故こんな所にポスターが?」と訝るであろう。それを掲げた本人の思惑は、ポスターを見ることで仕事の疲労感を戸口で払しょくし、映画の仮想の世界へ往来したいとの思いからである。ポスターを見た後は家庭の現実に戻るエネルギーを少しばかり貰えた。なんとも理解しがたい屈曲した心の表れである。それを30年も外すことなく見続けているのは、私の映画に対するオマージュでもある。

このポスターは映画館主にお願いし、作品を選ばず譲り受けたである。

Ⅱ 映画全盛期

私の生まれ育った1950年~60年代は、映画が娯楽の全盛期だった。人口が3万も満たないこの町にも、映画館が二つあった。 

映画館はいつも満席で、館内の通路に立ち見している人で溢れていた。ラッシュ時の電車のように身動きが取れない状態で垣間観るスクリーンは、欠けたパズルを嵌め込むように観たものだった。視覚の不足は聴覚の音声と想像の感覚がストーリーを繋ぎ合わせ、如何にか理解出来た。

この時代、邦画は3本立ての上映であった。1本の映画が終わると空席が出来始め、立ち見した人達の席取り合戦が始まる。一回目の上映が終了しても、入退場の入れ替えが寛容なため、そのまま居座って次回の上映を再度観る人もあった。また初めから弁当持参の1日がかりを決め込む人もいた。上映途中で入退場する人もいて、暗がりの中をシルエットが蠢いていた。一度外に出てしまえば再入場はできないが、観客は好き勝手な観方で映画を楽しんでいたのではと思われる。

客の需要が多く、映画館主は供給を満たすという運営姿勢なのか、観客がどうしても映画を観たい渇望に、応えた無理強いが詰め込みとなったかは不明である。

人々は映画を観たいがために、捻出した大事な時間を惜しみ、入場することに必死な思いだったのかもしれない。

とにかく、人々には映画タイムを何よりも楽しもうとする姿があり、活気に溢れた社会現象だったと思えた。

館内環境が不備なら、自分たちが観方を工夫することで解決を計ったため、不満の声や諍いにもなかったようだ。

そこにはこの映画という最高娯楽を共有し、同じ行動をしているという群集心理が、人々を満足させていたのかもしれない。

また、当時の映画館の在り方が、映画を遍く観てもらうことを先決とし、締め付けせず観客任せだったことも、映画の娯楽性をより高めることとなった、要因ではないかと解釈している。

観客は不正や矛盾が大手を振って蔓延る悪の世の現実を、勧善懲悪の映画ストーリーで、鉄槌を下してくれる結末に、溜飲を下げていたのではないだろうか。

観終えた帰り道では、主人公に投影した人達が、晴れやかな面持ちで、肩を揺すりながら闊歩する姿が見られた。             

Ⅲ 我が家の映画鑑賞  

私たち家族も、週末の夜には7人連なって映画館に馳せ参じた。夜中の帰宅路では、疲れと眠気でみんなが大欠伸を繰り返し、下駄を鳴らしながら闇を歩いていた。

我が家の経済事情は決して豊かではなかったが、何らかのやりくりをしての映画鑑賞であった。両親は、「映画は工面の苦労に値する価値あるもの」と、定義付けていたのかもしれない。   

母は映画館の入口で、私が小学生になっているにも関わらず、「この子はまだ幼稚園ですよ」と、わざわざ告げて子供料金一人分を浮かしていた。当時の私は、クラスで1~2番背が高かく、どう見ても就学前には見えぬ無理があった。しかし母のソフトな言い切りで、おじさんは私たち親子を通してくれていた。母からこの科白が出ると、思わず私も母の手を握り、一瞬膝を曲げて背を低くするといった演技動作があった。なんともこの親にしてこの子ありである。おじさんはこの嘘を見抜いていたと思う。この嘘を母は私が小2になるまでやり通した。

当時は、人々が互いの経済的事情を分かち合い、許せる範疇の嘘を見逃す人情があったのかもしれない。

子供の成長とテレビが家庭に入り込んでからは、徒党を組んで観に行った、我が家の映画館通いは自然と消滅した。

Ⅳ 私のシネマヒストリーの始まり

私のシネマヒストリーの記憶の始まりは、5歳頃に観た「日本橋」である。溝口監督後、市川崑監督によって再作されたものである。断片に覚えている映像シーンが三ヶ所あった。醜い姿態の男が、いつも着こんでいた毛皮のような服から蛆を取り出し食べる様と、その男が芸妓置屋を放火し、赤ん坊を抱きかかえて逃げる姿と、火事の最中にその男が誰かに殺される。これらのシーンの記憶の信憑性は定かでないが、三場面だけが幼い私の脳裏に強烈に刻み込まれた。この記憶を引き摺っていた私は、中学生になってから記憶の事実を確かめるため、作者である泉鏡花の同名本を読んだ。現代語訳が図書館になく、文語体の難解な文をたどたどしく読むと、鏡花文学の幻想世界ではなく、日本橋に住む芸妓達の愛憎模様を描いたものであった。記憶された映画の3シーンは、原作の筋と凡そ合ってはいた。鏡花の流麗な文体を映像化した粋な場面はとんと記憶に残らず、異様な場面だけが心に影を落としていた。

この記憶の確認作業をきっかけに、文学への興味が深まり、観た映画を原作で読み直すという逆行読書が始まった。脚本に基づく映像との違いを本に見つけ、自分なりの御託を並べる楽しさが出来た。だが本から入ると、本の知識が邪魔をして、映像からの想像性を希薄にさせてしまうことが多かった。

Ⅴ 7~15歳の頃

小中学生の年代はもっぱら、日活のアクションもの、東映の時代劇を痛快に観た。木下恵介の文芸ものや、小津映画のような日常生活の機微を描いた心象作品に、興味を持つまでは成長していなかった。まだまだ娯楽性に富んだ映画に飛びついていた。

その間、怪談映画ブームがあり、四谷怪談など、顔を覆った指に僅かな隙間を作り、そこからの観方でも、科白と音響のもたらす効果は、恐ろしい結末を十分に理解させた。怪談映画は、「人に遺恨を与えると我が身を滅ぼす」故に、人間は「善」であらねばならないという訓戒を幼い私に残した。その恐れが心底に凝りとなっているのか、四方八方裏表と脛に傷を持たず、疚しさを作らない生きざまを心掛けて来た。

ビジネス社会に出てからは、稲盛和夫の「動機は善なりや、私心なかりしか」の言葉を姿勢とすれば、「妬み」を買うことも人を謗ることもあるまいと思っていた。

後年、海外のオカルト映画ブームになって、下火になった日本の怪談映画との相違点があることに気付いた。怪談は恨む者への復讐劇で終わるが、海外は悪魔の世界掌握で、全人類がターゲットにされてしまう。怪談は私情対象であるゆえに解決方法が見える。

ただ本人の意識なく憎悪と化した生霊は、自らのコントロールが効かない怖さがある。

ホラー映画に至っては、人間の恐怖心を仰ぎその狂気は、国内外問わぬグローバルなものと映画で認識した。このような映画によって、人間の心の奥に潜ませる不気味さが何かを探るのも面白い。

Ⅵ 16~22歳

高校生になって初めて、30㎞離れた町にある洋画専門の国際映画館を訪れた。それからは洋画の面白さに夢中になっていった。

二十歳に観た「ガラスの部屋」のレイモンドラブロックの中性的魅力と、男の友情と女一人との微妙な三角関係を描いてあった。3人がベットインして愛を共有するが、一人の事故死によって愛も終わるという、これから愛を見つけようとする私には、ショッキングな愛の形であった。美しい映像と哀愁を誘う主題曲が忘れられなかった。

ところが、40年経て「ヒロシです」の自虐ネタのバックミュージックに使われたことで、あのガラスのような儚い愛を描いた恋愛映画が、「ヒロシ」イメージに脚色されてしまった。

Ⅶ 結婚してから

結婚からの生活は、時間のすべてが現実に追われ、自我意識は埋没していた。

そんな中で淀川長治の、「日曜洋画劇場」が唯一の楽しみとなった。放映時間が近づくと、狸寝入りの添い寝をし、子供を早く眠りに陥らせた。長治の映画解説は、ストレートな感情が面白さを増幅させ、ますます映画好きにしてくれた。

3人目の出産予定日の前夜、10時頃であったか「ベンハー」を観ている最中に陣痛が始まった。陣痛の頻度が早くなってきたのにも関わらず、「この洋画を見終えたら病院へ行く」と家族に宣言し、なかなか車に乗ろうとしなかった。お陰で病院へ着くと時間経たず出産出来た。この夜の母親の有様を、子供達は思い出して「呆れた母親」を話題にする。いみじくも子供たちにとっては「ベンハー」イコール「弟の誕生」の、エピソード記憶となってしまった。

仕事と3人の子育てと家庭の切り盛りと三つ巴の毎日の忙しさが、私を虚無的にさせた。まずの不満は劇場映画が観ることが出来ない。この不満を解消すべく方法は「子供も楽しめる映画を観ればよい」と、いとも簡単な解決であった。だが私も楽しめる映画でなければならない。ということで、洋画が多く当然ながら字幕である。

30K先の洋画館へ車で走らせる時は、車中仮眠をさせたり、おむつを持ったり、玩具や食べ物持参の大がかりであった。        

8歳と6歳と2歳と年相応と、大人の私が楽しめる対象映画は、「タイタンの戦い」の神話もの、「ネバーエンデンストーリ」の空想を描いたもの、「ターザン」の勇者のものと、この類の選択となる。

年端もゆかぬ子に、漢字混じりの字幕約90分の映画が、飽きて騒ぎ出すのではと懸念したが、意外に大人しく画面に見入ってくれた。

このころ、子供たちが戦争を知らずに大人になってしまう危機感を覚え、戦争の無体験の私が伝える方法として、聞きかじりの知識や本に頼るのではなく、戦争の映像によって、疑似体験の感覚を、味わうことが良いのではと考えた。感性を養うことで、問題意識をもち「考える人間」になって欲しいと願った。

漫画をアニメ映画にされた「裸足のゲン」は、劇場で上映される前に、とある集会場で一夜だけ、上映を企画しているとの情報を聞きつけた。雨降りしきる夜、1時間かかる道のりを3人の子を車に乗せ、会場へ向かった。狭い畳敷きの部屋には20人ほどの親子が集まっていた。この作品は一般公開がなかなかされず、フィルムを何らかの筋から、一晩だけ借りられた訳ありだったようだ。そのため隠れ場所で、極秘フィルムを観るレジスタスのようであった。

反戦映画のため社会思想との因縁があったか、制作側の何らかの不都合なのか、勝手な私の想像なのか、とにかく一般の上映の仕方ではなかったが、子供たちには観てもらいたかった。

その後も人形劇の映画「猫は生きていた」長崎被爆の医師永井隆の遺作「この子を残して」の映画化「ロザリオの鎖」や「像の花子」アウシュビッツ収容所の写真展と、機会を捉えて連れて歩いた。

大人になった彼らから「感受性の育つ時期に、戦争映画を何回も見せられて、怖い思い出しかなかった。」と口を揃えて不満を言われた。私の「嫌な思いを残したその映画を観て、どう考えたの?貴方たちは戦争することは、やむを得ずと思ったの?」との問いかけに「戦争は人間を残酷する。戦争に勝ち負けどちらにしても、大きな犠牲を払うようになる。それなのにやることに何の意味があるのか分からない。戦争になったら俺逃げるよ!」と、これも異口同音に語った。「じゃ!お母さんの目的は果たされたわけだ。」と、勝ち誇った顔を見て子供たちは苦笑した。

もちろん子供達に夢や、楽しさを与えてくれるテレビのアニメや映画も一緒に観て来た。

誰もが、人間のエゴが生み出す残酷や悲劇など「負」なるものは子供に見せたくないと考える。「繊細な子供の心に悪い影響を及ぼす」と反論される。

私たちは歴史が物語る「誤り」を認識し、現実と未来を見据える、正しい判断力を持つ必要があるのでは?。全て起きうる明暗の両極を視ることが、大局的な思考能力が培われるという私の持論から、我が子に「考える力」を持って欲しかった。

Ⅷ 40歳~

40歳を迎える頃になると、映画の趣向が現れ始め、俳優という人物を対象にした映画選別ではなく、深い人間性を問う作品や問題提起された映画に惹かれていった。映画監督の意思や余韻が残る、自分を考えさせる作品に傾倒していった。映画選択の指針となるのはやはり、世界三大映画祭の各賞にノミネートされた作品であり、観終えて感慨深いものが多かった。特に作品賞や監督賞、外国映画賞のジャンルである。

もっと映画を知りたいという欲望を満たすには、映画歴史を辿ることであった。

これから書く映画作品は、私が映画と対峙できる年齢になってからの作品を語りたいと思う。

Ⅸ フランス

その時代の映画界の慣習へ、真向から反逆したゴダールの「勝手にしやがれ」を観、ヌーヴェルヴァ―グとは何なのかを理解しょうとした。それまでのフランス映画のイメージは払しょくされた、モラルを排した映画であった。場当たり的な撮り方と即興演出のこの作りが、フランス映画の主流になるかと考えたら、少し寂しくなってしまった。それでもベルモントのラストの死に様は、ちょっとかっこいいドライさを感じた。

トリュフォーの「大人は分かってくれない」やルイマルの「死刑台のエレベーター」の作品は、フランスの個人主義を感じる映画ではあったが観てよかった。死刑台のエレベータに流れる、マイルス・デイヴィスの即興のジャズ音楽が、作品をよりミステリアスしていた。

フランスのヌーヴェル・ヴァーグという革命が、映画史上の一つのターニングポイントとなった意義は大きいことが確実である。

Ⅹ スエーデン

同時代のスエーデンのイングールベルイマンの「第七の封印」は現実の出会いの人々との度に、黒衣を纏った死神が象徴を表すように現れチェスを促すが、それは命そのものの賭けであった。中世ムードが漂うダークな映像が、観ている自身も死の世界に導かれていくような感覚にさせた映画であった。

「野いちご」は初老の淡々とした心情と野いちごに纏わる思い出は叙情的であった。

Ⅺ イタリア

イタリアの現実凝視と強いヒューマニスム志向の「ネオレアリズモ」時代の監督の作品は考え深いものが多かった。ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」、の父親を視る少年の表情、「ひまわり」のウクライナの戦地跡に、どこまでも続くひまわりの花、ソ連戦線を行進する極寒の最中、寒さを凌ぐ小屋で、立ちながら眠りに就く兵士たちの姿、マンシーニの哀切にみちたメロディーが、愛することの悲しみを、より深くして痛みを感じた。。

ピエトロジェミニの初老の鉄道員一家の姿を克明に描いた「鉄道員」。「刑事」は、連行される恋人の車を追うクラウディナカルデナーレの悲痛な叫び。その声を吸い込むように流れる「死ぬほど愛して」の曲の「アモーレアモーレ~」が、しばし耳から離れなかった。

ヴィスコンティはネオレアリズモの先駆的作の「郵便配達は二度ベル鳴らす」、「ベニスに死す」と異質の愛の残酷を描いた。「山猫」「家族の肖像」のような、没落貴族の生活様式や気品と豪華な衣装や美術品をふんだんに使用し、観ている我が身が、貴婦人になったような、妄想を与えてくれる楽しさがあった。

ミケランジェロアントニオーニは「情事」「欲望」「赤い砂漠」と、一貫して愛の不毛を描き、「恋愛などこんなもんよ」と、経験薄のくせに、分かったふりをして嘯いていた自分がいた。

Ⅻ ソビエト

「僕の村は戦場だった」を観たのが、ソビエトのタルコフスキー作品の始まりであった。息子が好きな監督でもあり、誘われるままに「ストーカー」「ノスタルジア」「サクリファイス」。抒情的であり、静謐かつ「水」がモチーフとなり精神性が深く、見終えた後哲学的な雰囲気を残してくれた。

ソクーロフの「太陽」は海外では絶賛を受けながら、日本の公開は不可能と言われていた。「人間であるのに人間であってはならない存在」であった天皇の悲喜劇、悩みを描いたものだった。監督の緊張感を漂わせてはいたが、天皇と周囲の人間たちの、静かな温かさも感じた。外国人監督だからこそ率直な目で、天皇を描くことが出来たのかもしれない。

XIII アメリカ

キューブリックとの出会いは、何と言っても「2001年宇宙の旅」。ニーチェの著作からのインスピレーションで作曲された、シュトラウスの交響詩の「ツァラトゥストラはかく語りき」を引っ提げての登場なので、ニーチェの究極思想が曲に乗って、壮大なドラマの展開を予感させた。見事にも科白がほとんどなく、映像と音楽で表現されていた。この映画の哲学的テーマの重さは類がない、代表的なSF映画であった。

「スパルタカス」「時計仕じかけのオレンジ」「シャイニング」「フルメタルジャケット」。そして何よりも、「博士の異常な愛」はブラックユーモアを織り交ぜながら、人間の愚かさに痛烈な風刺で「核」所有国間に警報を鳴らしたものであった。

人間の愚かな行いを容赦なく映像化するキューブリックの作品は、難解ではあるが不思議な魅力がある。完全主義者の監督の映画製作に纏わる面白い話も、作品をより楽しくさせる。

フランシスフォード・コッポラの「ゴットファザー」の名曲を聴く度に、ドン・コルレオーネ演じるマーロンブランドの父親として、組織の長としての苦悩が滲み出たあの顔が浮かぶ。残酷な殺し合いの各場面に「愛のテーマ」が流れると、殺戮さえも肯定し兼ねない、悲しく美しい旋律である。聴く度に涙を誘う。

地獄の黙示録は、コッポラが映画化のため私財を投げ打ち、4年の歳月と伝説を生み出した、戦争映画の最高傑作品であることは、再度ファイナルカット版を観て改めて納得した。

奥地で王国を築いているカーツ大佐の暗殺命令を受けた、ウィラード大佐がメコン川を遡っていく光景を目にするものは、狂気と地獄さながらである。

キルゴア中佐が戦闘ヘリから、ワーグナーの「ワルキューレの奇行」の曲を大音響で流しながらゲームのように村を爆撃し、サーフィンを楽しもうとする。ナパームへの偏愛といい、まさに彼存在そのものが狂気である。

ベトナム戦争の再現と思える迫力を、映像に焼き付けた強烈さがあった。徹底的な戦争の悲惨さや矛盾さを訴える最高の映画である。

また評価すべきは、ベトナム戦争に加担したアメリカ兵の恐怖、狂気、地獄を描いて批判したことである。

コンラット著「闇の奥」を読む機会にもなった。

あとがき

私はここ数年、月に三作品程の映画を観ることにしている。

映画は私を俳優のごとき、その人物に感情移入をさせくれる。映画は過去・未来とタイムスリップし、その時代を見せてくれる。映画は未知の場所へ誘ってくれる。映画は心の扉を開くための意志を与えてくれる。

映画は何らかの感動を与えるのが映画たる本領である。

その感動は意図的に生み出されたものであっても、私たち観る者の感性が豊かであれば、映画から何かを考え、何かを引き出すであろう。

最近観た映画で、人間の価値を再度考えさせられた作品があった。幾つか紹介したい。

テレンス・マリックの「名もなき生涯」は、オーストリアでヒトラーへの忠誠を拒み、信念を貫き死刑となった、ひとりの農民の伝記である。抵抗運動メンバーでもなく、家族が村人から迫害を受けながらも、彼は信念と人間としての誇りのため死に殉じた。

山峡の美しい風景は農民家族の心そのものであった。この監督の描く映画の静謐な世界は、観る者を崇高な心に変えてくれる。

ハンガリー映画の「悪童日記」。

ハンガリーはナチス・ドイツの軛の下で戦争を終えたとたん、ソビエト連邦の支配下に組み入れられた、他国の介入により、自由を閉ざされた歴史的背景があったことも映画で学んだ。原作は著者の体験がベースで書かれたと思われる。映画の主人公の双子の男の子が、戦時中の異常な状況の中、大人の容赦ない残虐に晒れていく過程で、自らを律し心身を鍛え、強くなっていく。邪悪な大人を罰しながら、どんなことをしても生き抜こうとする、二人の硬い決意が映像から溢れていた。子どもは純粋がゆえに、大人に裏切られた時、その純粋が計り知れない残酷さに変わる。その変換スイッチを押すのは私たち大人と、示唆された映画であった。     

「サウルの息子」は大きなショックを受けた映画であった。

「ゾンダーコマンド」の一員のサウルの表情と行動だけを追ったフイルム撮りであった。そのため私たち観客はサウルと共同作業をしている目線となった。

「ゾンダーコマンド」とはナチスが選抜し、数ヶ月間の延命と引き換えに,同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊のことである。サウルの視点に沿ってカメラは動き、山積された死体などは、リアルに撮らなかった。残酷さを見せる映画ではなく、強制的に人間性を奪われた男が、息子とする死体を救うことで、モラルを取り戻そうとする映画の趣旨からである。この行為を成し遂げようとするサウルの2日間の人生が、生き延びる術となり、彼の無機的な表情に、一筋の光が見えた。

いままで隠された史実を、生き残ったゾンダーへのインタビュー形式で著した本、「私はガス室の特殊任務をしていた」を読んだことで、もっとリアルさを増し、深部な事実の重みは、しばらく放心するほどであった。

オダギリジョー監督の「ある船頭の話」を観たことで、失われつつある原風景の美しさと優しさを、心に取り戻すことができた。

時代は明治初期から大正の初め、山村までも押し寄せた文明開化が、どう人間を変え、自然を破壊していったかを描いていた。

今尚、世の中の利便性が加速して一方で、淘汰されていく伝統文化や美しい自然や、人間の感性の喪失。何が大切で幸せなのであろうかを考えさせてくれた。

俳優のオダギリジョーからの想像を反して、揺るがぬ理念を持ち、日本の古き良きものを大切に描いて行きたいとの思いが感じられた。

「映画はフィクションとして真実を描くもの」と、誰かの言葉である。

戦争に関する映画を取り上げたのは、表面下に、マグマのように燻りを続けている世界の危機感を、映画によって警告を発している監督たちがいると考える。

止めなく溢れる映画の思いを、一度ここで、

ペンを置く。

もう一人の映画を愛する水野晴郎のキャッチフレーズを借りて、、

「映画って本当に素晴らしいですね!」

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