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【短編小説】風に吹かれて

 最近変わったことがあった。
 五月の声が、耳から離れなくなったのだ。
 僕の耳が僕のために動くのは寝ている間だけで、それ以外の時間はいつだって五月の声をリピート再生し続けるようになってしまった。
 愛してる、愛してる、あいしてる、アイシテル……。
 正直、気が狂いそうだった。もともと休みがちだった大学はとうとう休学を余儀なくされ、僕は日がな一日この拷問みたいな時間に耐えなければならなくなった。
 いつでも彼女の声を聴いていられることを喜ばしいと思ったのは初めの一週間くらいなもので、それ以降は毎日が地獄だった。彼女の口元が機械的に同じ動きを繰り返して、何度もなんども愛を囁く。そんなイメージに僕の日常が侵されていく。ご飯を食べていても、スマホを眺めていても、何をしていても、ずっと。僕は五月が好きなのであって、五月の幻覚を愛したのではないし、仮に愛していたとしても、この頻度は流石に過剰だった。
 幻聴の始まりは半年くらい前、五月が突然の事故でこの世を去ってから一ヵ月ぐらい経ったある夜。深酒をして眠り、目が覚めたらすぐに酒を飲む生活をしていた頃のことだったから、僕はすぐに酒のせいだと思って酒を控えた。
 五月の声を幻聴で聞くくらいなら、五月を思い出して死にたくなる方がまだマシだと思った。それでも五月の幻聴は消えるどころか日に日に頻度を増していき、つい先日、とうとう起きているあいだいつでも聞こえるようになってしまった。お手上げだった。

 小児科以外は罹ったことのない健康体だったから、初め、僕は耳鼻科へ行った。
 自分のことを自分以上に見ていてくれる存在が居なかった人間にとって、身体の不調を客観視して行くべき病院を探し当てるのは難しいことだ。耳鼻科でくまなく調べてもらったけれど異常はなく、帰り際に初老の院長から心療内科の受診を勧められ、若干の抵抗を押して近くの心療内科へ行った。予約の取れない名医に罹りたいと思うほどの自己愛はなかったので、とにかく近く、すぐに予約が取れる病院を選んだ。結果から言えば、それは正解だった。
 案の定というべきか、出て来た医師は祖母によく似たヒステリックな女医だった。
 小学生時代を思い出すような理不尽な説教を受けること十数分。気が済んだのか、彼女は僕に一つのヒントを残して診察室を出ていくよう促した。
 もうどうにもならない。この声と一生付き合って生きていくしかない。そう諦めていた僕にとって、彼女の言葉は初めての有力なヒントだった。ヒントの部分だけを抜粋しよう。
「あなたのその症状にはね、アメリカの有名な歌手の名前が付いてる」
 ところで、肝心の治療法や原因を何ひとつ聞かずに出てきてしまったと気付いたのは、僕が既に心療内科を出たあとだった。
 この悪魔的な幻聴を理解する手掛かりが手に入ったことに、僕は想像以上に浮かれていたらしい。治療法も原因も突き止められないままだったけれど、僕の足取りはいくらか軽くなっていた。
 
 音楽にとんと疎かった僕はやはり女医のヒントだけではピンと来ず、帰りにCDショップへ立ち寄った。古くから近くの商店街の一角を陣取っている、暗い中古のCDショップ。
 出入りするお客の姿も、店員の姿も見たことがなかった。でも今の僕にとってはそういうお店のほうが信用できる気がしたし、何より駅ビルに入っている綺麗なショップでCDを探すのは気後れする。
 重いガラス扉を押し開けると、ドアに取り付けられたベルがうるさく響いて、いるのかどうか分からない店員に来客を告げた。
 左右の壁には天井まで届く大きな棚が敷き詰められ、棚に入りきらなかったCDのタワーが通路を塞ぐようにうずたかく積まれている。真ん中のCDを取ろうとしたら、この奇跡的なバランスを崩してタワーが崩落してしまいそうだった。このジェンガみたいな塔は、売り物ではなくてそういうオブジェなんです、と説明されたほうが合点がいく。お世辞にも陳列とは呼び難いCDの塔に触らないよう、半身になりながら奥へ進んだ。
 一歩踏み出すたびにガラス戸から差し込む日光が遠のき、洞窟の奥へ進んでいるような気分になる。
 吊り下げられた豆電球の橙色が弱弱しく辺りを橙色に染める洋楽コーナーへ辿り着くと、とりあえず片っ端から眺めた。入口付近で見た塔と同じものがいくつも乱立するそこは、名前だけは聞いたことのあるアーティストが眠る音楽の墓標だった。
 僕はその塔を崩さないよう、触れないよう、顔だけを近付けて慎重に一つずつ背表紙を眺めていった。
 
「何か、お探しですか?」 
 一時間ほど経っただろうか。おもむろに背後から声がかかったせいで、塔の一つに手が当たってしまう。あっ、と思うも手遅れ。ピサの斜塔。崩れゆくCDの隙間から、僕を見る彼女と、目が合った。
 かつて名盤と呼ばれ、海の向こうの大国のあらゆる民家で鳴り響いていたはずの無数の名曲が閉じ込められたパッケージたちが宙を舞う。時間が止まったようなその数瞬のあいだ、CDの隙間を縫うようにして僕と彼女の視線は交差し続けていた。そして――。
 バラララッ!
 塔が崩落する音に我に返り、僕はとっさに一歩後ずさる。
 とんでもないことをしでかしたような、取り返しのつかないことをした罪悪感が急激に募ってくる。
「すっ、すみません!」
「あーいいんですいいんです。気にしないでください」
 ダウナー系と言うのだろうか。夜みたいな色のエプロンも相まって小柄な黒猫みたいな見た目の店員がため息を吐きながら顔の前で適当に手を振り、言った。
「ウチのバカ親父が悪いんです」
「いや、でも、傷とか……」
「大丈夫。中古だし、弁償しろとか言わないんで。それよりお怪我はありませんか?」
 ひどく義務的な言い方だった。その証拠に、彼女は既に僕から視線を外し、地面に落ちたCDに注がれている。既にしゃがんでCDを拾い集めているところを見るに、慣れっこなのかもしれない。
 彼女に倣ってその場にしゃがんで彼女を手伝った。
「僕は大丈夫です。その、店員さんは」
「慣れてますから大丈夫ですよ。あと、わたし、店員じゃないです。ただの手伝いで。ここの娘なんです」
「あぁ、そういう……」
 それからしばらく無言で塔の修復を続けた。彼女に代わって塔の一番上に最後の一枚を乗せ終えると、彼女は小さく「ジェンガかよ」と呟き、それから僕に向きなおった。
「手伝ってくれてありがとうございました」
「とんでもない。僕こそ売り物を倒してしまって、すみません」
「何か探していたんですか? ずいぶん熱心にこの辺りを眺めてましたよね」
 見られていたとは思わなかったので少し恥ずかしくなる。適当に言葉をつぎはぎにして答えた。
「その、音楽にはとんと疎くて。いろいろと、珍しいなと」
「じゃあなおさら、こんな店で何を探していたんです?」
「えっと……」
 彼女の興味なさげな目を見ていると「ここにないものを探していませんか」と言外に言われているようだった。図星だ。
 僕はポツリと零した。
「恋人の声が、消えないんです。ずっと」
 彼女の眉がぴくりと動く。
「声が?」
「愛してるって囁く声がずっと消えなくて。病院に行ったらアメリカの有名な歌手の名前が付いた症状だと」
「……え、それだけ?」
 目を丸くしてそう問いかける彼女の姿は、いよいよ黒猫そのものだった。
「えっと、はい。それだけです」
「治し方とか、原因とかは?」
「聞かずに出てきてしまいました」
「……何しに病院行ったんですか」ため息交じりに言う。
「とりあえずヒントはそれだけだったので、CDショップに行けばなんとかなるかなと」
「お客さん、ぶっ飛んでるねって言われません?」
 彼女は塔の奥にある棚に目を向けて、何事かをぶつぶつと呟きながらCDを数枚手に取った。その腕の中に作られた小さな塔を、ずいっと僕に押し付ける。
「アメリカの有名な歌手ってだけじゃなんのフィルターにもなってないですけど、病気の名前になるくらい有名なアーティストって言うならこのあたりじゃないですか」
「え、っと……?」
「だから、いま渡したそれが有名どころなので、聴いてみてください。年代とか分からないので何とも言えませんが、違うなと思ったらまた来てください。今日はもう店じまいなので。お代も結構です、お大事に」
 どこぞの女医よりよっぽど医者みたいな言葉を最後に、彼女は僕を追い出して店を閉めた。ただでさえ暗い店内は入口にカーテンが閉められ、中の様子はうかがい知れない。
 突然外気に触れたせいか、さっきまでの出来事が全て夢だったような気持ちになる。
 明日になったらこのお店は空きテナントになっていて、隣の和菓子屋に訊ねても「そこは十年前からずぅっと空いてるよ」と言われてしまいそうな、非現実感。それでも、両腕で抱えた七枚のCDの重みが、さっきまでの出来事は紛れもない現実だったと僕に伝えていた。
 今度は塔を倒さないよう、慎重にそれらを抱えたまま家路に着いた。
 
 不思議なことが起こった。彼女に渡されたCDを聞いている間だけは、五月の声は聞こえなかった。それが嬉しくって、僕は眠りに付くまでずっと音楽を聴き続けた。聴いているうち、だんだん好きになってくる。耳が心地よくなってくる。久しぶりに自分の耳が自分の元に帰ってきたような気さえした。
 歌詞の意味は分からなかったけれど、とにかく、どれもいい歌だと思った。
「だから、お礼が言いたくて」
「はぁ……」
 翌日、アルバムの束を抱えて来店した僕に対して、彼女は心底面倒臭そうな返事を寄越した。
「特にこの――」
「分かりましたから。ちゃんと聞きこんでくれたことはよーく分かりましたから。それで、どうだったんですか」
 彼女の質問の意図が分からず首を傾げる。彼女は腰に手を当てて分かりやすく呆れた態度を見せた。
「幻聴の理由ですよ。原因は分かったんですか?」
「いや、それはまだだけど……」
「バカなんですか? 死ぬんですか?」
「死……え?」
「あの、失礼ですけど家に鏡ってありますか?」
「ある、けど」
「あー、もうどっちでもいいや、ほらこっち、来てください」
 手を引かれて店のさらに奥、洞窟で言えばラスボスが鎮座している場所まで連行される。
 お店の事務所らしく、型落ちした古いパソコンやレコードが置かれた乱雑な空間にヤニの油が臭いごとこびりついているような、彼女がいてはいけないような不潔な空間だと思った。
 店主の私物だろうか、テーブルの上にルービックキューブが一面だけ揃った状態で放置されている。彼女はそれを手に取ってぐちゃぐちゃにしてから元あった場所に放ると、壁に掛けられた鏡の前まで歩み出て、僕を手招きする。
「ここに立って、自分の顔を見てください」
 言われるがまま自分の顔を覗き込む。黄色く変色した木製の縁の中に映る僕の顔は、控えめに言って死人みたいだった。
「最初、本当は怖かったんです。目は虚ろだしシャツは皺クチャだし、髪もボサボサ。店内で自殺するんじゃないかって、本当にヒヤヒヤしてたんですよ」
「そうだったんだ……なんか、ごめん」
 思い詰めてはいたものの、そのつもりはなかったから思わず謝ってしまう。
「まぁ、昨日よりはマシな顔つきになっていて安心しましたけど」
「それは君のおかげだよ。昨日は久しぶりに少し眠れたんだ」
 音楽を聴いているうちに、気付いたら眠っていた。
 目覚めても再生されるようにリピート再生にしていたから、寝覚めもここ最近では一番よかった。
「ぜんぶ君のおかげだ」
 ぷいとそっぽを向いたまま、彼女は「そりゃどーも」と答えて、続けた。
「でも、理由が分からないんじゃずっとそのままでしょう。一生音楽を聴き続けて生きていくってわけにもいきませんし、原因を突き止めて解決しないと」
「そう言われても……」
 原因は五月だ。もっと言えば、五月が死んでしまったことにある。
 僕の中で五月という存在が消化不良のまま、いびつな形で残ってしまっている。
 未練というより、執着に近い。
「その……踏み込んでいいのか分からないんですが、恋人の方というのは」
「死んだんだ、半年ちょっと前に」
「そうでしたか」
 意外にもあっけらかんと彼女が言うので、僕もあまり重くならないよう五月のことを説明した。
 大学で出会い、三年の付き合いだったこと。料理が上手で、愛想がよくて、僕にはもったいない彼女だったこと。動物園や植物園に僕を連れ回して自分勝手に楽しんでいるようで、いつだって僕の世界を広げてくれていたこと。突っ込んできた老人の車に轢かれて、亡くなってしまったこと。
 彼女はあえてなのか、表情ひとつ動かさずに僕の言葉を黙って聞いてくれた。
 そうして、一言だけぽつりと返した。
「彼女さんは、音楽は?」
「よく知っていたと思う。僕が聴いたことのない歌をよくカラオケでも歌っていたし」
「それはお兄さんが無知なだけかもしれませんけどね」
「……辛辣だな」
「タイトルとか、アーティストとか、分かりませんか?」
「それは……ごめん、本当に知らない」
 五月のことを、俺は何も知らなかったのかもしれない。
 五月の好きなアーティストすら分からない。彼女は僕のことをあんなによく知ってくれていたのに。
「……分かりました。それじゃあ、一緒に探しましょう」
「探す?」
「五月さんが聴いていた曲。カラオケで歌っていた曲でも、カーステで流した曲でも、なんでもいいですから。ほら、これ持って」
「カーステって、君いったいいくつ……おわっ」
 黒いヘッドホンを僕に突きつけると、彼女は弾かれたように事務所を出ていった。後を追うと、既にひとつ目の塔を崩しているところだった。その背中がどこか張り詰めていることに気付いて、僕は思わず声をかけた。
「あのさ」
「なんですか? あ、これとかどうですか?」
「そうじゃなくて、君は」
「あっちにCDプレイヤーあるので、イヤホン挿して来てください。あとこれも持って」
「そうじゃなくて!」
 思わず大きな声が出てしまい、彼女はビクリと身体を震わせた。
 その衝撃で、昨日の僕のように塔をガラガラと崩してしまう。枯れ葉みたいに散らばったCDの中で、僕らは黙って見つめ合った。
「君は、どうしてそこまでするの? 言ってしまえば僕は他人だし、僕はいいお客でもない。そこまで入れ込む価値もないじゃないか。同情してくれているなら、そういうのは……」
 そこまで言って目を伏せる。重たげな彼女の瞼の奥を見るのが、なぜか少しだけ怖かった。
「価値が、必要ですか。同情なんかじゃない、ただそうしたいって思うことに、説明が要りますか?」
「それは……でも普通そんなことしないだろ」
「普通? そんな見た目で、意味不明な幻聴で死にかけているあなたが普通を語るんですか?」
「余計な……お世話だ」
「そうですね、余計なお世話です。母親の顔を知らずに育って、好きだった音楽でしか母を感じられない惨めな人間の余計なお世話です。文句ありますか?」
「……それは」
「見てられないんですよ。文句があるんなら勝手に立ち直って、勝手に元気に生きてくださいよ。こんなところに、そんな状態で、来ないで……ください」
「その、ごめん。君のことなんてなにも知らなくて、無神経なことを言った」
「……それこそ、余計なお世話です」
 本当にそうだと思った。
 僕はその場に跪いて、足元に散らばったCDを一つずつ拾い集める。
「彼女の、五月のことをちゃんと知りたい。音楽を通じてなら、今からでも五月のことを知れる気がした」
 今からでも遅くないのなら、叶うことなら。もう一度だけ、五月のことを。
「君の力を貸してほしい、店員さん」
「だから、店員じゃないですって……。まぁ、いいですけど」
 それから、お客が来ないのをいいことに僕らはしっちゃかめっちゃかになるまで店中をひっくり返した。
 ヘッドホンをかなぐり捨てて、大音量でCDを流して。
 やれこのジャケットはダサいだの、タイトルがカッコいいだの、好き勝手に批評した。歌詞カードのカタカナの書き込みを誇張して読み上げて、大声で歌って、笑った。
 途中、表を通りかかった人がぎょっとして中を覗いてきたけれど、僕も彼女も無視をした。初めてちゃんと音楽を好きになった気がした。

 店のほとんどの塔をひっくり返した頃、僕の耳に聞き覚えのあるメロディが引っかかった。彼女に伝えて、曲のボリュームを落としてヘッドホンを挿す。今度は耳に意識を集中させて、頭から聞いてみる。やっぱり聞いたことのある曲だった。
「五月がよく口ずさんでた曲だ……これ、聞いたことあるよ」
「本当ですか! えっと、タイトルは……」
 彼女はタイトルを確認して、そのまま数秒固まった。僕も気になってアルバムを覗き込む。細かな傷がいくつも入ったCDケースのジャケットには、仲睦まじく歩く若い男女の姿。僕でも聞いたことのある、あまりにも有名なアーティストの名前。
「なんというか……ベタですね」
「五月は、ベタなことが好きだったんだ。そうだったって、思い出した」 
 思い出してしまったのはなぜだろう。いや、思い出さないようにしていたのは、なぜだろう。
 受け止める準備なんて生涯できるはずがないから、もう忘れてしまおうとしていたのかもしれない。
 僕のなかに一生消えない温もりを宿して消えた五月のことを、思い出すことしかできない五月のことを、僕はなかったことにしたかったんだ。
 ヘッドフォンが壊れるくらい、ぎゅうと耳に押し付ける。
 彼女は眉尻を下げた表情で僕を覗き込んだ。
「幸せだったんですね」
「……うん」
「辛かったんですよね」
「うん。うん……」
「忘れても、忘れなくてもいいと思います。思い出すのがつらいなら、記憶を知らんぷりしたって誰も怒りません。でも、きっと本当はそうしたくないんじゃないですか」
「……忘れたくない。そりゃ、そうだろ。過去になんてしたくなかった。これからもずっと一緒にいるって、そう思ってた」
 彼女は僕の手にそっと自分の手を重ねた。
「きっと、これを作った人たちも同じことを思ったんじゃないでしょうか」
 そう言って、彼女は手に持っていたCDケースを手渡した。
「自分が生きていた証を残したい。誰かの手元で生き続けたい。忘れたくないし、忘れられたくない。そんな願いが繋がって、最後に流れ着いた場所がここなのかもしれない。以前にここは音楽の墓標だって言いましたよね。ここは本当に、数多の人間の願いが収束する集合場所なんでしょうね」
「……なんだかんだ言って、好きじゃないか。このお店のこと」
 彼女は小さくはにかんだ。
「そうかもしれませんね。もともと価値なんてないから、そういうものだからこそ、ここが好きです」
 それからもしばらくのあいだ、僕らは彼の音楽を聴き続けていた。日が暮れるまで、ずっと。

 翌日、僕は五月が亡くなってから初めて五月の実家を訪れた。彼女が亡くなってから、なんとなく足が遠のいていた。
 一年ぶりに会う五月の両親はまだ少しやつれていたけれど、僕の訪問を心から喜んでくれているようだった。
 仏壇の前に座ると、僕の記憶の中から飛び出してきたようにそのままの五月が遺影の中で微笑んでいる。僕もそれに微笑みを返すと、りんを鳴らして線香に火をつけ、合掌して目を閉じた。
「変な感じだな。五月と話すのに、こんな仰々しい儀式を挟むなんて」
 落ち着く線香の匂いが鼻孔をくすぐる。
「五月の声が止まなくてさ。何が伝えたかったんだろうってずっと考えてた。続きとか、足りなかったこととか、そういうことばかり考えてた。気づいたよ、どれだけ未来に期待してたんだろうって。恥ずかしくなって、それでやっと分かった。十分だったんだって」
 唇が震え、次第にその震えが身体全体を覆う。
「幸せだったんだって、今さら気づいた。つじつまを合わせるまでもなく、もう完璧だったんだ。五月と、い、いられた日々を、ただ、愛おしい……って、思う」
 鼻水をすする。涙でぐちゃぐちゃになったまま、目を開けた。ぼやけた視界の奥で、変わらず僕に笑いかける五月の笑顔だけがやけにクリアに見えた。
「五月が、五月と過ごせた日々が、何よりも愛おしかった。これからもずっと、変わらないから。だから、だから……」
 真っすぐに五月の目を見つめて、言った。
「さようなら、五月。ずっと愛してる」
 帰り際、五月の両親はどこかほっとした表情を浮かべて僕を見送ってくれた。「またいつでも来てね」と笑う五月のお母さんの表情はやっぱり五月によく似ていて、僕はまた少し泣いて、深く頭を下げてから家を後にした。
 帰り道で、色々なことを考えていた。五月のこと。五月が考えていたかもしれない、いくつかのこと。
 もともと価値なんてないものだから、信じられる。
 形を失っても、時代が流れても、変わらない。普遍のものであり続けられる。
 僕が五月に抱いた気持ちも、五月が僕に抱いた気持ちも、きっと同じようなものだと思う。
 誰の目にも見えないし、そこに価値なんてない。
 そんな当たり前さえ見失いそうな世界の中で、僕は五月に出会えた。
 それが何より悲しくて、嬉しくて、幸せだった。
 
 変わったことがあった。無趣味だった僕に、趣味が増えた。
 耳を塞ぐためではなく、耳を開くための音楽鑑賞が好きになった。
 変わったことがあった。幸いなことに、邦楽から洋楽まで、ジャンルを問わず紹介してくれる年下の友人ができた。
 明日は何を借りに行こうか、と考えながら床に就く夜は驚くほどによく眠れた。
 変わったことがあった。あれから一度も、五月の幻聴は聞こえてこない。
 背中から吹く風に押されるようにして、僕は商店街の一角にある暗いCDショップへと歩き始めた。



 大変久しぶりの小説投稿となってしまいました……お待たせしました。
 ちょっとでもいいなと思っていただけましたら、下のハートをぽちっと押していただければ本当に嬉しいですし、明日も生きていけます。
 早く次も書いて載せろよと思っていただけましたら、フォローボタンもぽちっと押してください。馬車馬の如く面白いお話を書きます。嘘です。マイペースですがゆっくり見ていってください。
 読んでいただきありがとうございました。

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