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『ちはやふる』と『崇徳院』、そして『レザボア・ドッグス』

あらかじめ書いておきますけど漫画『ちはやふる』ではなく、落語『千早振る』です。釣りタイトルです、すみません。「てめえ、釣ってんじゃねえよ!」と思った方は「いいね」を押してください。そう思わなかった方も「いいね」を押していただけると幸いです。

さて、本題。
落語の『千早振る』と『崇徳院』には百人一首が出て来るという共通点があります。
『千早振る』には、
ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
『崇徳院』には、
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

この二つの落語の素晴らしいところは、落語という文化の上に短歌という文化が乗っかっているところです。中学一年生のときに、何の意味があるのか分からないまま覚えさせられた百人一首がこんなところで生きてくるとは思いませんでした。まあ、百人一首を覚えること自体は無意味だと今でも思っていますけれどもね! ちっ!
昔の人も意味をよく分かっていなかったと知ってホッとしちゃったりなんかしちゃったりします。

落語はメタ構造で出来ています。「演じている落語家」「落語の中の地の文」「落語の登場人物」、とまあ三段階の入れ子構造になっています。その三者が客前に現れては引っ込み、引っ込んでは現れます。それを客は、いま誰が出ているのかを理解しています。目の前には落語家しかいないのに! もうネトウヨばりに「日本人すげー、日本文化すげー」と言いたくなります。
それに加えて『千早振る』は、登場人物が適当なトークをすることによって、「落語家」「落語の中の地の文」「落語の登場人物」「登場人物のトーク内容」、四段階の入れ子構造になります。しかも登場人物のトークが、短歌という文化によって引き起こされるから素晴らしいんです。しかもその短歌には「本当の意味」と「デタラメの話」があるのでさらに素晴らしさに拍車がかかっています。

クエンティンタランティーノ監督『レザボア・ドッグス』には、回想の中で「ああしろこうしろ」というレクチャーするシーンがあります。そのレクチャー内容が映像化されます。トイレでのやり取りのシーンです。それよりもものすごい入れ子構造です。

ああ、素晴らしい、素晴らしい。