見出し画像

小説思う、ゆえに小説あり

VIVANTを視聴している。本日は見逃してしまったのでTVer行きだ。

劇中、堺雅人の別人格Fが出てくる。Fを出す理由は、独り言や心の声を避けるためだとばかり思っていた。
独り言や心の声は映像表現としてはできるだけ避けたい手段。だから別人格を出現させるのはありがちと言えばありがちだが、悪くないと思っていた。
しかし5話の終わりあたりだったか。突然、阿部寛が心の声を話し始めた。これはこれで仕方がないと思う。途中で見た人のためには分かりやすく説明する必要があるし、ずっと見ている人たちのためにも整理しなければならないから。

ところが先週から堺雅人の別人格Fが登場せずに、淡々と心の声で説明するようになってしまった。Fとの会話で成立させればバシッと決まっていたところを心の声で表現するようになってしまった。ならば初回から「俺は別班として活動している」と言ってしまってもいいのではないだろうか。ここはFを出す、ここはFを出さない、だと単なるご都合主義になってしまう。と感じるところ。
本当にもったいない。

ところで、NHKの朝ドラの正式番組タイトルは『連続テレビ小説』だ。小説と言っているのには理由がある。心の声やナレーションで進行することが多々あるからだ。だからNHKは小説というタイトルを未だに捨てていないし、そこには映像表現に対する誠実さが見える。
朝ドラを書いた脚本家は、仕事を終えた後しばらくトーンダウンすると言われている。これは本来、映像で表現すること、つまり役者のアクションやリアクション等々で表現すべきことを、心の声で言わせたり、はたまたナレーションで「思った」と言わせてしまうからだ。せいぜいセリフで「今、私の気持ちは○○」ぐらいにとどめておけばいいのに。
それもそれで仕方がない。朝、食事の支度をしながら、あるいは歯を磨きながら、または髪を整えながら、画面を見ずに音だけを聴いている前提で作られているテレビ番組だから。「思う」べくして「思って」いる番組なのだ。

画面では「思う」は映らない。だから手を変え品を変え、脚本家、演出家、プロデューサー、その他スタッフ、出演者は頑張っている。

しかし小説は「思う」。いつだって「思う」。あんまり思っていると、映像表現から嫌われ始める。
そして漫画が実写化されると軒並み失敗するのは、「思っている」ことを「思えなく」なり、「思う」表現を上手に描けないことに原因がある。とか思っている。知らんけど。

追加。
朝ドラの名称はラジオで小説を朗読していた名残だそうです。しかし、小説という冠を外さないところにはやはり映像表現に対する誠実さを感じます。

この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文