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この残酷な世界でいつの日か笑えるようになるために。

自分の限界が分からない。
ただこの胸のざわつきはよく知っている。

独自性があり、なおかつ読者にとって何か得られるものがある文章を綴りたいという気持ちが強い。

最近は関わる人が増えてきており、誰が僕の記事を見ているか分からないということもあり、此処に記せる内容にも制限があるように感じている。

コミュニティ運営や創作活動含め、何が最適でどうすることで自分が為したいことが果たせるのかは更に考えていきたいところである。

さて前置きはそれくらいにして、折角なので今日は少し普段とは一風変わった内容の記事でも書いてみようか。

昔も言っていいことと言ってはいけないことの境界線を超えて炎上したこともあるが、正直僕は感じたことをあるがままに紡ぎたい。

最近は多くの人と関わる機会が増えたこともあり、改めて"生きづらさ"の本質に触れることができたような気がしている。

率直にいうと、生きづらさを感じている人間の苦しみは、他者への依存によって解決する。

本当に今が辛くてどうしようもないなら恐らくは自分と似たような気質を持つ人と共依存状態となり、互いを許容しながら蕩けてゆくのがシンプルだろう。

ただこういった依存を求める人間は、相手を受け入れる器が作れていないことが多い。自分は求めるのに相手を受け止めることは出来ない。だから関わってゆく中で歪みが出来て崩壊する。

初めは何も注がれていない状態で始まるから上手くいく。けれども器が不完全だから次第に相手の想いを受け止めきれずに、注がれた水はヒビから漏れ出してゆく。それに対して相手は自分の気持ちが受け止められていないと感じ、更に想いを注ごうとする。その勢いに耐えきれなくなった器は最終的には崩壊する。

これが大概の共依存の終局だ。

お互いに注ぐ想いの出力を制御できたとするなら少なくとも延命措置は図れるかもしれないが、いずれにしても根本的な欠陥が修復できていないのであれば終わりは変わらないだろう。それに共依存に縋ろうとしている人が果たして自分の気持ちを制御できるのかというと甚だ疑問ではある。それに自分が制御したとしても相手が常に注ぎ続けるなら結局のところ、上手くはいかない。

シンプルではあるが共依存では、一時的な解決にしか至らない。終わりが見えていてもそれを求めるのなら止めはしない。ただきっと終わりを迎えては深く傷付き、また交わっては離れる。この繰り返しの先で君は心さえもなくなってしまうかもしれない。

ならこの"生きづらさ"をどうすれば、半永久的に払拭することができるのだろうか。

「依存先を増やせばよい」

これについても僕は懐疑的である。対象や行動を増やし満たしてゆくということそのものが、1つ1つを雑に扱っているような感覚がある。何もかもが半端になり、またそれにより他者を不用意に傷付けたり、浅い知恵や技術だけを積もらせ自分の嫌いな人間に変わってゆく気がしている。

『自分を100%出力したい』

『生きることを許されたい』

『甘えたいときに甘えたい』

『頼りたいときには頼りたい』

『折れそうなときには寄りかかりたい』

『分かち合いながら共生していきたい』

理想郷のような環境が、世界が在れば、この生きづらささえも幸福へと変換できるのかもしれない。

自由に生きてもいい。世間に縛られなくていい。自然に過ごせばいい。無理をする必要なんて何一つない。正しいと思ったことを信じればいい。

他者に依存するでもなければ、闇雲に依存先を分散させるわけでもない。自分がラクでいられる環境を見つけ、生きる上での拠り所とする。

そのような世界を創っていきたい。


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