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グリーンカーテンの裏側【短編小説】

「朝乃ちゃーん、これ。西日対策にどうかなぁ」

 仕事帰り、黄色いロングスカートを揺らしながら帰宅した夕花が買ってきたのは、小さなゴーヤの苗だった。
 10年前に大学の同級生だったわたしと夕花は、半年くらい前から、築50年近い郊外の借家に二人で住み始めた。大通りから細い坂道を上がったところの、猫の額ほどの庭がある平屋。昔の良さを活かした薄緑のタイルの洗面所が、二人してとても気に入って借りたのだ。
 この家のただ一つの難点は、リビングの西日が眩しいことだった。

「夕花、土いじりできるの?」
「無理。朝乃ちゃんにやってもらおうと思って。植物のお世話、得意?」
「……サボテン枯らしたことならあるけど」
「うそーん」

 夕花は9時17時の公務員なので、朝きっちり同じ時間に出て行く。わたしはフリーランスなので、朝は遅い。

 翌朝、わたしは仕方なくスマホを片手に、庭の端にあった花壇の土をいじり、細い柱を作り、植物用のネットを買ってきて樋につなげた。
 何かワクワクするねぇ、と帰宅した夕花が苗と網を見て笑った。

◇ ◇ ◇

 ほそぼそと蔓を伸ばし、ゴーヤは成長した。

 最初に収穫した小さなゴーヤは、手のひらに乗るくらいだった。若く柔らかい緑の内側のワタを取り、薄く切って、チャンプルーにして食べた。夕花は、わたしが作ったそれをペロリと完食した(だいたいいつも、料理担当はわたしだ)。
 晩酌、夕花はいつもビール一択。わたしはあまり飲めないので、たまに夕花の御相伴に預かることがあるくらいだ。今日はグラス1杯だけ分けてもらった。

「ぷはー! 最高。……ん、チャンプルーおいしいねぇ、朝乃ちゃん」
「苦! でもビールに合うね、夕花」

 その後も、手のひらサイズのゴーヤがいくつもできた。レパートリーが少なくて、夕飯にはチャンプルーと味噌炒めが交代で続いた。夕花はそれを毎日、缶ビールを開ける爽快な音と共に、美味しそうに食べた。
 それでも、なかなかみっしりとした緑のカーテンにはならず、リビングにいつまでも陽は差し込み続けた。

◇ ◇ ◇

 金曜の夜、台風が来た。

 仕事を早く切り上げて帰ってきた夕花がやたらゴーヤの心配をするので、リビングだけは雨戸を閉めず、わたしたちはまばらなグリーンカーテンの裏側から嵐を見つめて夜を過ごすことにした。
 ソファに二人して座り、雷に照らされ風にくるくると翻弄されるゴーヤの葉を、身を寄せ合ってじっと見つめる間、夕花はずっとにこにこしていた。
 夕花の手には、本日も缶ビール。佃煮にしたゴーヤをつまみながら、夕花はすっかりほろ酔いだ。

「嵐の夜っていいよねぇ、朝乃ちゃん」
「うん」

 夕花のビールは次々と空になる。こんな夜だもの、とわたしも1本だけ缶ビールを開けて、口をつけた。

「う、なんかいつもより苦い……。よくそんなに飲めるなぁ」
「ゴーヤちゃんの方が苦いと思うけど。それにしても心配ねぇ、ゴーヤちゃんたち」
「うん」

 夕花は、飲めないビールを持て余すわたしや時折起こる停電も気にせず、ゴーヤの心配だけをしていた。
 そして、いつの間にかわたしの肩に頭を預け、そのまま眠りに落ちていった。

「……夕花?」

 返事はない。
 雷が鳴る。そして、飲めない酒を飲んだせいか、頭が少し痛む。
 眠り込んだ夕花をソファに横たえる。その間も夕花はすやすやと寝息を立て続けていた。
 タオルケットを持ってきて夕花にかけて、夕花が眠るソファのすぐ横の床に座り、嵐を肴に残ったビールを無理やり飲み干した。存在をすぐ近くに感じられるしあわせを横切るように、苦さが胸を過ぎていく。

 ──ずっと望んでいた暮らしをしていることが、まだどこか信じられない。

 軽くなった缶を置いて手を伸ばすと、寝息がわたしの掌を撫でた。夕花の髪の毛を梳いてみる。されるがままの長い髪は、するんとわたしの指を抜けて流れる。
 すぅ、すぅと規則的な呼吸。頬に落ちる、うっすらとしたまつげの影。表情のない寝顔は、彫刻みたいにきれいだ。かみさまみたいだな、と思う。触れてみたいけれど、どこか畏れ多いような。
 頬を両手で包みこんでみたら、どうなるんだろうか。そんなことを一瞬考えたわたしを叱るように、雷がひときわ激しく鳴った。
 夕花のまぶたがぴくりと動いて、一瞬寝息が止まる。

「……の、……ちゃ……ん?」
「……、何でも、ないよ」

 寝ぼけた声に静かに答えると、寝息は規則を取り戻す。この距離で夕花を眺めるのは、わたしにだけ許された特権なのだ。そのことに気づくと、心が鎮まるのを感じた。
 明るく染まった夕花の髪は少し荒れていたので、わたしはオイルトリートメントを持ってきて、その毛先に塗り込んだ。自分の髪にするよりずっと丁寧に、大切に大切に。 
 ──そして、それ以上は何も、しなかった。
 トリートメントの後、わたしはそっとその場を離れた。雷は変わらず鳴り響いていたけれど、夕花は、その後も目を覚まさなかった。

◇ ◇ ◇

 夏休みは、水やりのためにお互い時期をずらして実家に帰省した。
 それでも結局、サボテンを枯らすような実力しかないわたしが主担当だったせいか、期待していたほどの緑のカーテンにはならず、まばらさを残したまま夏が終わった。あちこちから陽が透けて、リビングに置きっぱなしだった古い小説の背はすっかり焼けてしまった。

「明日片付けとくよ、ゴーヤ」

 夏の終わりに最後のチャンプルーを出しながらそういうと、夕花は少しさみしそうに笑って言った。

「いつかは、きれいなカーテンになるといいよねぇ」
 いつか。
 夕花のその言葉に、わたしはふと、思い出す。

 ――いつか、一緒に住みたいねぇ。

 お互い一人暮らしだった大学生の時に、わたしと夕花は、同じ学部で出会った。毎日、何をするでもなく、どちらかの家に一緒にいた。
 人とコミュニケーションするのが苦手なわたしが、隣にいて、何一つ緊張することなく素でいられる他人は、初めてだった。夕花がどうしてこんなにわたしを気に入ってくれたのかはわからないけれど、マイペースな夕花もまた、どこか不器用な人であることは何となくわかった。生きることの難しさを補うように、わたしたちは同じ時間を分け合った。
 そして大学卒業の直前、学生生活最後を記念して二人で飲んだときに(宅飲みで、そう、あの時も確かビールだった)、夕花が少しさみしそうに笑って言ったのだ。

「いつか、一緒に住みたいねぇ。朝乃ちゃんと、私」
「……うん」

 その言葉は、わたしのお守りになった。

 大学卒業後、夕花は地元で公務員になり、わたしはしばらく定職を持たないまま各地を転々とした。夕花の言葉を祈りのように何度も繰り返し唱えたからか、死にたいくらい辛い時も、わたしは何とか生きることをやめずにいられた。
 時に一緒に遊びに行ったり、旅をしたり、休みを見つけて互いの家に泊まりこんでは酒を交わしたり。時には距離を置いたり、無理に連絡するのをやめたり。そんなことを繰り返しつつ少しずつ積み重ねて、三十路を過ぎた頃、あの日の約束を叶えようという話になった。
 そしてわたしたちはようやく、この家にたどり着いたのだ。

 あの日のいつかは、今ここに在る。

 夕花は今日も楽しげにビールの缶を傾ける。グラスに一杯だけ分けてもらって、わたしも一口だけ御相伴に預かる。ビールで際立つゴーヤチャンプルーの最後の一口の旨味と苦味が、わたしの心身にじんわりと沁みていく。

「台風の対策とかもいるよねぇ」
「もう少しやり方研究しとくよ。食べ方も」
「そうだねぇ。次はおひたしとかもいいかもねぇ、朝乃ちゃん」
「おひたしは苦いんじゃないかな」
「うーん。そうだねぇ、そしたら……」

 友人の枠には収まらない、けれど恋人とも少し違う。わたしたちの関係に、これまでもこれからも、つけられる名前はないのかもしれない。
 それでも。
 いとおしさに名前がなくても、わたしたちは未来の話ができる。こんなふうに酒を片手にほろ酔い気分で、チャンプルーと味噌炒め以外のゴーヤのメニューを一緒に考えるように。
 手探りで作るグリーンカーテンの裏側の、不完全で小さな楽園の中で、今。

◇ ◇ ◇

 少し涼しくなった朝、網を外し、枯れたゴーヤの葉と蔓を片付けた。
 来年のためにタネを取ろうと、最後の、黄色く熟したゴーヤを摘み取った。ぐしゃりと崩れた中に、血の色をした真っ赤なタネが眠っている。生きてるって感じがするねぇ、夕花の口調を真似てみる。
 袋にまとめたゴーヤの葉と茎、そしていつもよりも多い一週間分のビールの空缶を、わたしはゴミ捨て場に黙々と運んだ。
 空を見上げる。
 手形のようなゴーヤの葉っぱに切り取られた青空が、網目の向こうでカラカラと笑っていた夏を越えて。
 わたしたちは秋を歩いて行く。
 しあわせな、ほろ苦さと共に。

◇ ◇ ◇

本作は、かつて所属していたnoteサークル #note文芸部 に寄稿したものを改作したものです。
お楽しみいただけましたら幸いです。

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