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花束の行方

何十年ものあいだ私を苦しめた病が最初に発症したのは、20代の頃。

結婚による新居のローンのために、プータロー(フリーターという言葉はまだない)だった私は就職をした。
つまり、寿就職。

女性の多い職場だった。
それも私と同年齢かそれ以上。
そして、みんな未婚だった。

同年代の新入りで新婚。
好奇心と嫉妬にさらされた。

ほかの部署には男性もいた。
それまで、会社の飲み会でも一種のタブーだった恋愛や結婚ネタが、堰を切ったように私に振られる。
からかっても、きわどい話も、私が既婚だから、と男性陣は安心して話をはずませた。
ずっと一人旅をしてきた私は、人と打ち解けるのが早い。
すぐに仲良くなって、新入りならではの仕事上の疑問を彼らにぶつける。
ずっと中にいたのでは気づかない新しい視点。
私の素朴な提案が、ご祝儀を上乗せして賞賛、採用される。

嫉妬はしだいにいじめとなる。
そのひとつひとつは笑えるほどの子供っぽい所業だ。
つまり、お茶に雑巾のしぼり汁を入れたのを飲ませるとか、頼まれていない仕事を「頼んだ」と言い張られて、やっていないことをつるし上げる、以降は私の仕事とされるといったような。
そして面接時の説明とは程遠い膨大な業務量。

7時から早出残業。
夜は、10時、11時となることもある。
早く帰って夕飯の仕度をと思いながら、なかなか解放されない。
深夜か早朝、弁当づくりと夕食のしたごしらえをした。
買い物は昼休みに会社近くのスーパーで済ませた。

思い描いていたのとは違う現実に、私は戸惑った。
落ち込みながらも、負けるもんか、と気張った。
見ている者には、これがまた面白くない。
いじめは、相手が泣いてこそ楽しい。
相手がシッポを巻くことで、自分が優位に立った満足感を味わえるのだ。

私はまだ泣かない女だった。
小学生のときは、不登校で救われたが、仕事とあってはそうもいかない。

結婚に反対した婚家への意地もあった。
裕福な婚家での生活レベルを落とさないように私が稼がねばならない。

仕事も家事も完璧にやってみせる。
あんたたちとは違うのよ。
心の中で毒づいた。
今に見ていなさい。
傲慢と復讐心は、一種の生きるエネルギーになる。

身体が泣いた。

悔しかった。
ここまで心が頑張っているのに、どうして身体のヤツ、と思った。
半年間、医師の指示を無視して、仕事を続けた。
義務付けられた1週間に1度の通院も、激しくサボった。
痛み止めを飲めば、いっときは収まる。
見返したかった。

小さな小さな世界で、私はいったい何に戦いを挑んでいたんだろう。
何にムキになっていたんだろう。
何が勝ちで、何が負けだったというのか。

結局、何も変わらなかった。
いじめはエスカレートするばかりだし、病は着実に進行した。
このままでは日常生活もできなくなる、仕事や家事どころじゃないと気づいたときには、私の病には不妊というオマケがしっかりとくっついていた。

思い描いていた結婚生活、家庭というもの、人生の未来予想図が、ガラッと変わった。
私は会社を辞めることに決めた。

その会社を去るとき、形ばかりだが送別の宴があった。
出たくなかったが、主役がいないのでは話にならない。
退職の手続きもちゃんとやってほしいから、ここは波風立てずにありがたいふりをして出席した。

一身上の都合で、と告げてあった退職の理由を、そのとき、健康上の理由であると明かした。
もう子供は無理かもしれないと告げた。
このままでは結婚生活すら危うい。

その原因を作った人たちが、手のひらを返したように私にすりよってきた。
同情して泣く者までいた。
辞めることを、今さら惜しむ言葉もあった。
あのね!

つまり、私は彼女らより不幸になったのだ。
何があっても涙を見せずに突っ張ってきた幸せいっぱいの女の弱いところを見て、彼女らはいじめるまでもなく、自分たちが優位に立ったのを感じたのだ。
そして、満足した。
満足し、心に余裕ができ、私に同情した。

最後に、お約束のような花束の贈呈があった。
もらったことのないほどの、大きくて豪華な花束だった。

2次会に行くみんなと、体調が悪いからと言って別れ、気恥ずかしいほどの花束をかかえて、ひとりで駅に向かった。
短い年月だったが、通い慣れた電車と見慣れた駅の風景を明日からは見ないのだという現実が、小さな感傷を私にもたらした。
安堵と今後への不安がないまぜになった感傷だった。

私は抱えていた花束を、地下鉄のホームのブルーの椅子に置いた。
まるでそこに座っていた人物が、死んでしまったかのように。
あるいは、人物だけすっぽりと別の世界にワープしてしまったみたいに、花束を背もたれに立てかけた。
そして、そのまま、入ってきた電車に乗った。

あのとき、私の心にあったものはなんだろう。
消えることのない憎しみか、ゆるしか、未練か、悔いか。

すぐさま視界から消えてしまった花束の行方を私は知らない。
美しい、もったいないと思って、誰かが持ち帰って飾ってくれたら、それはそれでいい。
花も喜ぶだろう。

だが、私の脳裏に、誰にも見咎められることなく更けた深夜に、駅員によって無残にゴミ箱に打ち棄てられる花束が浮かんだ。
その映像を振り払うほどの優しさは、私にはなかった。
そして、自らそれをゴミ箱に放り込む勇気もなかったことに気づいて、ひとり電車の中で苦笑した。

それぞれが、それぞれの花束を持っている。
抱えることができなくて置き去りにした花束。
愛も憎しみも共感も侮蔑も、そして後悔も、みんなひとくくりに束ねた花束。
美しいリボンを、他人がほどいてはいけない。

でも私は、人さまのリボンはほどかないけれど、自分のリボンはほどいて大切な人たちに見せたい。
きれいなリボンに隠された腐った葉や枯れた花やしおれた茎も見せたい。
それが私だから。

しおれたり腐ったりしているところも見たうえで、しぶとく咲き残った花を「きれいね」と言ってもらえたら嬉しい。

読んでいただきありがとうございますm(__)m