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経験が興味をそいでいく

母から「自分は後妻であること」「兄と私は異母兄妹」であることを、直接告げられたのは、私が小学校4年生のときのことである。
「あらたまって何を言い出すと思ったら、なんだ、そんなことか」というのが、当時の正直な気持ちだった。

姑である祖母が、母をなじるときに「後妻のくせに」と言うのをたびたび聞いていたし、兄と私が一回り近く年が離れていて、しかもその間に一人も子供がいないことなどから、どうせそんな事情だろうとずっと思っていた。
別に隠されているとは感じていなかったし、隠さねばならぬほど深刻な話ともとらえていなかった。
母としては、いつかきちんと話したいと思っていたのかもしれないが、私としては「それがどうした?」「だからなに?」という気持ち。

話を聞く前と後で、気持ちや行動が変わったということはまったくない。
家族は家族として生まれるだけでは家族じゃなくて、家族になっていく過程があって家族なのだと、いまも昔も思っている。

だから、こういう血のつながり云々を深刻に描写するドラマが苦手だ。
登場人物の苦悩?みたいなものに、うまく共感できない。

昨日「海のはじまり」の第2回を見たが、子役の女の子と血縁上はその父にあたる主人公とのふれあいのシーンで「やっぱり親子ねぇ」というXの書き込みがされているのを見て、もう生まれた星に帰ろうと思ってしまった。
きっと私のは「地球人」の感覚じゃないのだ。

だから「燕は戻ってこない」でも、基(稲垣吾郎)とその母親(黒木瞳)が自分たちのDNAにこだわることに、まったく共感できなかった。
そもそも、あのドラマに共感できる人は一人も登場しなかった。
それでも見てしまったし、私にとって前季のベストドラマであるのは、我ながら不思議というほかはない。

兄を産んだ人は、たぶん兄が幼いうちに世を去った。
兄にその人の記憶があったのかどうかわからない。
私は、母からその人の位牌を受け継いで、いまも両親と兄と祖母のそれらとともに仏壇に祀っている。

兄が死んだとき、わずかながらの共済金を受け取るために、私と兄とが兄妹であるという証明を取らねばならなった。
実家は何度も転居を重ねていて、住民票だけでなく本籍も移している。
私はそのひとつひとつを訪ね、遠方の役所には手紙で戸籍謄本を求めた。

私もまた、結婚によって元の戸籍を離れ、離婚後も夫と同じ姓で分籍している。
破産によって家を失くした実家がアパートを借りるときの保証人となるため。
苗字が実家と同じになって世間に離婚がわかってしまったら、私の資産や収入では保証人として認められないかもしれないから、信頼できる「第三者」を装うため。
まだ夫がいて、夫の収入で保証できると、相手に勘違いをしてもらうため。
そうしないと、賃貸の更新もままならない。

このことは、友人も知らない。
未練があって、別れた夫の姓を名乗っていると思っている人もいるかもしれない。
あたりまえに持ち家がある人たちは想像もしないが、ひとつひとつにすべてそうしなければならない事情がある。
だから、戸籍上は、私には先祖はいない。

手数をかけてすべての戸籍謄本を手に入れて、履歴をつなぎ合わせた。
兄と私が兄妹である証。

その少し前、緩和ケア病棟で死を待っていた兄に「人生で一番嬉しかったことはなにか」と看護師さんが質問した。

兄の答えは「母が来てくれたとき」
幼いころからずっと「母親」ができるのを待っていた兄。
そこへ、若くて美しい母が嫁いできた。
満面の笑みで母に抱きつくことができたのか。
それとも父の後ろから照れたような顔をちょこんと見せるだけだったのか。
しかし、死の床で、これまで一番の幸せな瞬間を問われて「母との出会い」を挙げた兄に、私は泣いた。
兄の死後、これを母に告げると、母も号泣した。

家族って、こういうものですよ。
親子って。

血のつながりじゃない。
貧困の中にあっても、出会ったことを何よりの幸せと感じる時の流れがあって、この言葉がある。
刹那を積んで、想いは永遠になっていく。

だから「やっぱり親子ねー」には、いやいや、まだ親子になってないから!と反発してしまった(心の中で)。

昔、トレンディドラマが流行ったとき、私はひとつも見られなかった。
貧困やいじめや不登校、夜逃げ、一家心中、介護と続いた果ての一人旅。
それだけじゃなくて、恋愛もまた劇的なものが多かった。
これが本当に偶然?誰の脚本?というような。
嫉妬も策略も、ストーキングもあった。
命の危険さえ感じた。

だから、当時はドラマを見ても、私の人生のほうがよほどドラマチックと思えて、フィクションに没入できなかった。
結婚してからも、親の破産、自分の病気、不妊治療、手術、夫の恋人、夫の子、うつ、ダブル介護、トリプル介護と波乱は続く。
すこし穏やかな日々が続くと、「私の人生がこんなに平穏なはずがない」という不安に襲われる。

でも、離婚し、家族がみんな死に絶えてからは、穏やかに暮らしている。
いや、そうでもないか。
コロナワクチンの副反応で死にそうになったし、交通事故でも九死に一生を得た。
今日こうして生きていることは奇跡だと思えて感謝感激する一方で、ドラマや映画などに心を動かされることが難しくなっている自分を感じる。
描写にリアリティを感じず、なかなか共感できない。
その反面、能登の大地震などには、ご飯も喉を通らないほど頭がいっぱいになり、精神科医に「共感疲労」と言われた。

これがつまり、年をとっていくということなんだろうな。
老害のもと、かもしれぬ。


読んでいただきありがとうございますm(__)m