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キライの一致

どうでもいいことを探し出して無理やり仕事をつくることはできるけれど、面倒になって早じまいした。
せっかくリモートなのだから「やっているふり」でもすればいいのにと言われることもあるけれど、今の私は逆にそれをもったいないと感じてしまう。

そのぶんのお金より時間を選ぶようになったのは、残り時間が少なくなったからか。
左手の不自由さとひきかえに事故の賠償金を得たのもあるだろう。
数年前までは、1円でも多く収入が確保できるように365日24時間働く調整をしていたことを思うと、その体力と気力が衰えたとも言える。


同好会というものがある。
花を育てるのが好き、見に行くのが好き、野球をするのが好き、観戦するのが好き、映画が好き、小説が好き、美味しいものを作るのが好き、食べ歩くのが好き・・・etc.

好きな人同士が集まると、その話題で盛り上がる。
それほど親しくなかった人が、好きなものが共通しているとわかると、これから仲良くなれるかもしれないと思う。

だけど私は思う。
好きの一致より、キライの一致のほうが大事。

どうしても譲れないことがある。
どうしてもゆるせないことがある。
傍からみれば、そんなささいなこと、と思うかもしれない。
そんな取るに足らないことにこだわるなんておかしいわ。

でも。
きっとそれは理屈じゃなくて。
心の奥の深いところにある嫌なものは嫌なのよという思いを無視したくない。

ひとさまのことは言えないし、批判ができるほど自分もちゃんとしていないから、きちんと説明することなんてできない。
だから、誰かを説得しようとかなどとも思わないし、その必要もない。
でも、感じてしまった嫌悪感は、どうしても消せない。

そうして、そういう嫌悪感は、むやみやたらに表明するのが憚られる。
キライは否定や非難のニュアンスをたっぷりと含んでいるから、もしもそれが好きな人が見聞きしたら、たぶん不快になる。
現実生活では、嫌だなぁと思っても、なかなか言えない。

言えずに、我慢しているそれらをこういうところで発散したくなるのは、溜まったイライラを吐いてラクになりたいと同時に、誰かに「私も」と言って欲しいからだ。

私も、それがキライだったのよ。
言いたかったのよ。
よくぞ、言ってくれたわ。

そんなふうに共感されたら、「キライ」という負の感覚をひとさまにさらした自己嫌悪が、すこしやわらぐ。
私の醜さ、カッコ悪さが、ちょっと緩和されるような気になれる。
ああ、あれがキライなのは、私だけじゃなかったのね、って。

好きの一致が嗜好の一致であるとしたら、キライの一致は価値観や感性の一致に近くはないか。
そうして、もちろん例外は多々あるだろうけれども、「好き」よりも「キライ」のほうが不変ではないか。

好きなものには飽きて、しだいにどうでもいいものになっていく可能性がある。
もしかしたら、キライになってしまうことだってある。

けれども、キライなものが、どうでもよくはなっても、一転して好きになるということは、少ないのではないか。
食べ物の好き嫌いなどにはあるけれども、それは価値観でなく嗜好の変化。
子供のころキライだったピーマンがいまは好物になったみたいに。
人は、嗜好は変化しても、価値観と感性は、なかなかに変わりにくいと思う。

若い頃は、「好き」の一致で友達ができた。
けれど、学生時代の友人の多くは、就職や結婚や出産や帰省、そういう環境の変化で、好きなものを好きなままにしてそれに携われることが難しくなっている。

年を重ねるにつれて、新たな友人関係が芽生え、古い友人と疎遠になったりするが、その中でも、交流が残っているのは、嗜好が一致する人ではなく、価値観が共通している人だ。

何を美しいと思うかも大事だが、何に眉を顰めるか、何に唇を噛むか、何に対してこっそりこぶしを握るのか。
憤りが一致したときが嬉しい。
マイナスを相殺するのはプラスじゃなくて、マイナスなのかもしれないとよく思う。


読んでいただきありがとうございますm(__)m